鬼はお江戸で、何見て踊る。

はたけのなすび

第1章『鬼の少年』

 氷上ひかみの里きっての変わり種と評判の火白童子ひしろどうじがついに里から追い出されたのは、生まれ落ちてから百年と十一ヶ月と二十日が絶ったのちのことだった。

 それも、ただ追い出されたのではない。三日に渡って家屋敷を引っ繰り返しそうな勢いの親子喧嘩の末に、叩き出されて放逐されたのである。

 とはいえ里の者は、追い出された火白童子の姿を見たわけではなかった。

 里の御山が崩れるのではないかというほどの轟音が三日三晩里長の屋敷から響いたあと、何事もなかったかのように長が里の者たちの前に姿を現し、後継ぎであった火白を廃して、弟の風吹童子ふぶきどうじに正式に跡目を取らせると言ったからだ。

 それでようやく、里の者は火白童子が放逐されたのだと知った。火白の消息を尋ねた里人に、長が厳しい目を向け、あやつは既に亡き者と心得よ、と言ったからだ。

 思えと言うからには、火白童子は死んだわけではないのだろう。喧嘩の末に手打ちにでもしたのなら、長は必ずその証を見せたろうから、と里の者たちは頷き合った。

 惜しいことだ、とある者は嘆いた。

 清々した、と別な者は俯いて呟いた。

 だが多くの者は、仕方なかったのだろう、と目を伏せた。

 何せあの若様は、人を喰らえぬのだから、と彼らは呟いた。

 人を喰らえぬ酔狂者。喰わず嫌いの永久(とわ)の童子。里の者を愛し、彼らに愛されど、鬼の努めは介せぬ阿保の若様。

 火白童子とは、そういう鬼だったのである。



 人を喰らえ、喰わねばお前を里から追放する、と親父は言った。

 素直に聞いておけば、安らかな暮らしが続いていたということは、火白にも分かっていた。力を得られる益荒男や高僧でなくともいい。もう誰でも良いから喰えというのは、親父殿には最大の歩み寄りだったのだろうし、あの金剛石より硬い頭の親父殿がそこまで譲ったのなら、己のほうが折れるべきだったのだろう。

 人を喰らうなど、至極簡単なのだ。

 少し足を伸ばして村か城下町に下り、腕を伸ばして適当な誰かを攫えばよい。

大体、喰っても心が傷まぬ外道など、そこいらに転がっている。山を飛べば山賊が、里を覗けば追剥がいるのだ。とかくにそういう鬼畜悪党どもは、己が生まれてからの百年でも減った話を聞かぬし、この先も減るとは思えなかった。


「だがしかしなぁ、そんな奴らを喰わねばならんというのも、面倒だったからなぁ」


 腹を下しそうだ。血が汚れそうだ。

 その他適当な理屈を並べ立てたせいで、ついに親父の堪忍袋の緒を切ってしまったのだ。

 不味いことをしたなぁ、と思いながら、ひとり火白童子は街道の松の木の上で煙管をくゆらしながら思っていた。

 家の蔵で埃を被っていたこの煙管は、葉を詰めずとも火を点けずとも、くわえているだけで勝手に煙が出て来るのだ。

 煙草の味など知らぬし別に興味もないが、格好だけはつけたいという阿保な己にはちょうどいいと、勝手に持ち出したのは、もう五十年も前のことだったろう。以来、考え事をするときはこの煙管の端を噛んで煙を見るのがくせになってしまった。


「やはり、おれは筋金入りの阿呆だなぁ」


 煙の輪の向こうに見える山を眺めて、呟いた。

 そもそも、里を継ぐことのできる大人の鬼になるためには、必ずひとり人間を喰わねばならなかった。それも、より強く力のある人間のほうが良いのだそうだ。そういう人間を喰ったら、喰った人間の体や魂を己のものにでき、それによって強くなれるのだそうだ。

 ともかくも、氷上の里の鬼たちは皆その話を信じていたし、喰うことでようやく一人前の鬼と認められるのだ。喰わなければ、そいつはいつまで経っても半端者扱いだった。

 親父殿のときは、どこぞの足利ゆかりの腕の立つ益荒男ますらおと一騎打ちの果てにその血を啜り、肝を喰らったと言っていたし、腹違いの弟である風吹ふぶきなどは爺やが語ったその物語を、目をきらめかせて聞いていた。

 風吹の幼い顔には、己もいつかそうなりたいのだとありありと書いてあったが、その横で火白が何をしていたのかと言えば、今にも寝こけそうな頭を必死に支えていたのである。

 阿呆の火白という異名をつけられたのは、あれ以来だった気がする。


「だが、仕方ないではないか。おれの前世はひとなのだから」


 やることもない火白は、過去を思い出して呟いた。

 食わず嫌いの火白とまで言われていたのには、本人に言わせれば理由があった。

 生まれつき、火白は前世の記憶を持っていたのである。

 そこの火白は人間で、どこぞの家で平和に暮らしていたのだ。ぼんやりした光景しか残ってはいないが、飢えた感覚もなく人を殺めた覚えもないから、どこかやんごとない家でのんびりと暮らしていたのだろう。

 その名残りが残っているせいか、火白は生まれつき人と仲良くしたかった。友になりたかった。里にいる他の鬼たちのように、どうしても鹿や猪と同じ食い物と見ることができなかったのだ。

 爪で引き裂かれる鹿の鳴き声には、何の痛みも感じずにその血を啜るくせに、ひとに助けてくれと言われると、どうしても手が出せなくなるのだ。

 人を喰わねばならない氷上の里のしきたりも、本音を言えば血生臭いと閉口していた。

 今はもう覚えていないが、幼い時分には、人里へ勝手に下りてしまって、里人の子らと遊んでいたのだという。

結局角を見られて石を投げつけられ、泣いて帰って来たからばれたそうだが、そのときも人間を喰っていないどころか、傷ひとつつけていなかったという。

 それでも、八十年もの間火白が里で後継ぎの若様と呼ばれていたのは、偏に父の次に強かったからだ。

 腹違いの弟の風吹であろうが、その他の人を喰ってきた古株の鬼であろうが、皆火白よりも弱かった。

 相撲を取れば投げ飛ばせたし、刀で斬り合いをしても、火白のほうの動きが速かった。

 あほうの若様というあだ名に、蔑みではなく親しみが籠っていたのはそういう訳であったのだ。

 だが、いよいよ百年も経って、これはまずいと親父殿は思ったのだろう。

 完全な鬼になったと認められるための儀として、人の肉を喰らうことは欠かせぬものだった。それができぬとなれば、他の者に示しがつかぬ。よって、どうでもこうでもお前は人を喰え、と言って渡されたのだ。

 それに、喰いたくないから喰わぬ、と答えたために、始まったのは親子喧嘩である。どうであっても喰え、喰えぬのなら里を出ろ、と長である父は言い、上等だこの糞親父と答えたのは馬鹿息子の己である。

 結局、一瞬気が緩んだところを投げ飛ばされ、御山の岩に叩きつけられて意識を吹っ飛ばした。

 次に目覚めたときには、親父はおらずに、側近のひとりに勘当を言い渡されたのだ。

 かくて、氷上の鬼の里の若様だった火白は、寄る辺ないさすらいの鬼になった。


「うん、だがこれはこれで悪くないな」


 煙管を懐にしまい、松の枝の上で器用にごろりと横になった火白は呟いた。

 誰も悪くはない。一等悪いのは、己の性分に凝って人を喰えなかった己だろうと、火白は思っていた。

 前世がどうだこうだと理由をつけていたが、詰まる所は長になるために越えなければならない試練を、己の拘りで諦めただけなのだ。それがたまたま人を喰うという儀礼であっただけで、里長になるための気概がない嫡男を家から叩きだした父の判断は、正しかったと思う。


「風吹は良いやつだからなぁ、おれよりよほど上手くやるだろう」


 克己心溢れる弟である。近頃は、あちらが勉学に励んでいたために親しく話せていなかったが、幼い時分に兄さん兄さんと慕ってくれた姿を、火白は覚えていた。腹違いではあるが、自慢の弟だった。

 これで母が存命だったのならば、父鬼から追放される姿を見せたくないと頑張ったかもしれないが、やさしく穏やかだったという彼女も、火白を産んだときに儚くなってしまっていた。

 阿保の嫡男など、おらぬほうが無用な争いに繋がらなくていい。故に、火白は追い出された者としてはあるまじきさっぱりとした気分だった。

 里に残して来たものは色々とあるのだが、そうしたほうがいいと思って置いて来たものばかりだった。


「さて、そうと決まれば旅を続けるか」


 鬼である故、滅多なことで火白は腹を空かさないし、金銭も必要としない。

そもそも氷上の一族は精気溢れる場所にいるだけで、飢えることもないという鬼なのだから、常に食べ続けて飢えを凌がねばならない人間たちより、よほど便利な体であった。

 尤も、その便利さが、わざわざ喰う気の起きない人間など喰わなくてもよかろうというものぐさに拍車をかけているのだが。

 ともかくも、火白はふらふらと川沿いの街道を歩いていた。

 そこらを行く旅の者たちと変わらぬ格好をして、腰には短い刀を佩いている。

 百年を生きてきた火白だが、外見は二十歳半ばにもなっていない人間の男の姿をしていた。

鬼の証である角や牙は、術を使って隠している。普段は真っ黒い瞳の奥には時々金色の光がちらつくのだが、これはよほどじっくり眺められるか、火白の感情が度を越して昂ぶりでもしない限り、見破られることはない。

背中の中ほどまでのびていた青色がかった黒い髪は、親子喧嘩のときにばっさりと短く切られた。髪は神通力の源だといわれるので、切られることはかなりの一大事であるとともに、罰のひとつでもあるのだ。

が、手入れは随分と楽になったし、笠で隠れてしまうほどの長さにはなったからと、火白はこれも放ったままにしていた。

 行く当てもなし、知り合いもなし、己がろくに里から出たことのなかった箱入りであったと自覚させられる旅路である。

 人が多いという江戸の街に向かってみようか、と火白の足はそちらに向いていた。

 火白がいるのは、川沿いの街道である。川に沿って桜の木が植えられ、葉陰が街道に不思議な模様を描いていた。人の流れはまばらで、時折後ろから火白を追い越して行く旅人たちは、俯き加減に早足で行く者のほうが多かった。何せ、季節は夏とはいえもう日の暮れる時分であった。

 日があるうちに人里に辿り着かなければ、野宿になる。そうなれば、獣や追剥の餌食にもなりかねない。

尤も、火白にはただの獣や人間ならば、敵にはならないのだ。故に、急ぐ旅人たちの中に会おうが、火白は日暮れの川を眺めるのも良いものだ、とのんびりとした足取りだった。

 そうして、ふらりふらりと歩いていた火白の鼻は、ふと木の陰からこちらに向けられた視線を感じた。

 思い立って、辺りに旅人がいないことを確認してから、土を蹴る。ぽーんと毬のように跳ねて、火白は一際高い松の木の上に降り立った。

 そのまま、ひょいひょいと猿よりも軽い足取りで、木から木へと跳んで行く。人の気配が絶えた川べりに降り立った。


「さてと、ここならば誰もおらぬよ。おれを追って来たのは誰だ?」


 河面を見つめ、背後に向かって問いかける。寸の間の後、木の上から跳び下りて来たのは、ひとりの青年だった。

 火白よりやや背が低いが、女のように長い黒髪を項のところで束ねている。秀麗なその顔を見て、火白はおや、と瞳の奥の金色の光をきらめかせた

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