第2回

 十日ほど遡ること三月下旬、経田の家で、経田、稲村、澤井、それがしの四人で麻雀をしていた。四人掛けこたつのテーブル面をひっくり返し、緑色のフエルト状の布が貼ってある裏面を向ける。

 流行が廃れたのか、今ではこの類のこたつはあまり売っていないそうだ。このこたつは経田の親父さんが使っていたものだそうで、相当年季が入っており、傷だらけだ。緑色の布も日に焼けて、白く変色している部分がある。


 それがしが麻雀を初めてやったのは、中学三年の大晦日であった。年越し麻雀をしようと、稲村の家に集まった。

 事前に本を読んで、全体の流れぐらいは押さえていたつもりだったが、実際にやってみると全然勝手が分からない。分からないから教えてもらいながらやる。 そのとき、場風である東をポンしようとして、間違えて「チー」と言ってしまった。「お前、東南西では組み合わせになっていないぞ」と笑われたのを今でも覚えている。それを稲村が思い出したかのように蒸し返すのには閉口する。

 麻雀にはたくさんの役、分かりやすくいうと得点になる牌の組み合わせがある。素人では、そのすべてがすべてを使いこなせるわけではない。したがって、それがしは馬鹿の一つ覚えでトイトイホーばかりを狙っていた。


 トイトイホーは同じ牌を揃えるだけで、数の並びなどに頭を煩わされることもない。また、集める牌をマンズならマンズ、ピンズならピンズに統一することで、ホンイツやチンイツを狙えるので、高得点も狙える。

 しかし、鳴けば場に自分の手をさらすことになるので対策がされやすい。また、同じ牌を三枚集めるというのは同じ種類の牌で数の並びを揃えるのに比して、難易度が高い(と思う)。さらには、鳴いて、鳴いて、鳴きまくるので、場が荒れると面子には不評である。

 

 要するに、それがしの麻雀はへぼ麻雀である。点数も人任せで全く覚えておらず、また覚える気も毛頭ない。なので、たまにごまかされる。それでも文句は言えない。


「研修はまだ始まらないのか」

 経田が稲村に尋ねる。外は強い風が吹いており、ひゅうひゅうと音を立てている。

「研修はまだ始まらないけれど、なんだかんだ言って職場には顔を出しているよ」

 稲村は工業高校を卒業して、自動車関連の仕事に就いた。大学に行くより金が欲しい、と前々から言っていた。


「澤井はもう下宿先は決まったのか」

 経田は、今度は澤井に聞く。

「今ごろ決まってなくてどうするよ。大学の寮に入る」

「一人部屋か」

 それがしがその会話に参加する。

「二人部屋だよ。トイレと風呂は共同」

 それがしは、赤の他人と二人で一部屋を使うことが考えられなかったので、気にならないかと聞いてみた。しかし、澤井本人は頓着しないらしい。どうせ寮には寝に帰るだけだし、そう長くいる気もないからと言う。そんなものなのだろうか。


「ドン、入塾式どうする?」

 経田はそれがしに聞いてきた。

「ドン」とはそれがしのあだ名である。もっとも、「ドン」と呼ぶ者はあまりいない。「ドン」と言うあだ名は、もともとそれがしの姉につけられたあだ名である。

 姉は徳子と言うが、どんくさいところから名前をもじって「ドン子」とからかわれていた。「子」が落ちて最終的に「ドン」と定着した。姉と同級生で、ボーイスカウトで一緒に活動していた先輩が、「こいつの姉は学校でドンと呼ばれている」と隊の中で広めた。いつの間にか、それがしに対し、やはり一緒にボーイスカウトで活動していた経田や大河内などによって使われ始めたのである。

 それがしはこのあだ名を気にいっていない。第一、どんくさいと思われているのだとしたら腹が立つ。しかし、こんなことに一々突っかかっていれば、さらにからかわれるだけなので、スペイン語の男子敬称と解釈している。ドン・カサレス、ドン・ペドロサ、ドン・カイブカ。ドン・タコス・・・は違うか。


 話が随分と逸れた。

 牌を捨てながら、それがしは「行かない」と答える。

 続けて、「行ったって面白くないだろう」と否定的なことを言う。入学式や卒業式などの式典が面白かった試しがなかった。何より、わざわざそのために出かけるのは面倒くさい。

「玉崎さんの講演がある」

「玉崎さんって誰だよ」

「英語科の講師だよ」

「それだけでは分からん」

「塾の人気講師で、顔的存在だよ。彼を知らない奴がいたらもぐりだね。彼の講義を受けたくて、入塾する奴はたくさんいる。他の予備校に通っている人すら彼の名前は知っている」と、経田は珍しく熱弁した。

 この言葉で玉崎さんに対する興味を覚えた面もある。また経田が誘うのを無下に断るほど行きたくないわけでもない。結局、行くことにした。

 それがしは一日中暇でも苦にならず、家の中で過ごせる類の人間である。しかし、経田はそうではない。一日中、家の中で暇にしているということができない人間である。家で暇にしているぐらいなら、用事を作ってでも外に出たいと言う人間である。それ故、経田は入塾式に行こうと吾輩を誘ったのだろうと考える。 経田と待ち合わせの時間などを協議するのに気を取られ、それがしは無警戒に牌を捨てた。その牌で、稲村が上がった。もっとも、捨て牌から相手の待ちが分かるほどの腕前をそれがしはしていないから、警戒したところで同じだったかもしれない。

「リーチ、タンヤオ、ピンフ、イーペーコーにドラ一。あと、親・・・満貫だな」指折り計算しながら稲村はそれがしに申告した。箱の中にある点棒をすべて稲村に渡しても払い切れない。それがしは無言で空箱を振り、ハコったとアピールする。

 稲村に加え、澤井と経田も自分の点数を計算しはじめ、澤井は記録用紙に書き留める。そうしてまた点棒を分配する。

 結局、それがしが家に帰ったのは深夜二時を回ってからだった。



 入塾式の行われる会場に経田とそれがしが着いたのは開会予定時刻よりも一時間以上早かった。

 それがしは自分がそれほど行きたいと思わなかっただけに、参加者数もたかが知れているだろうと予想していた。

 しかし、予想に反して、開場の時間にもまだ三十分以上あるというのに、既に開場待ちの行列ができている。少なく見積もっても数百名の人々が規則正しく並んでいる。並んでいる人々以外にも、大勢がすでに集まっており、所々固まって談笑している。その中には見知った顔もあり、中谷もいた。

 

 開会の辞が終わり、塾長が挨拶を始めても、場内のざわつきは収まらなかった。それがしも話こそしなかったものの、ただ何気なしに聞いているだけだった。肩の凝りをほぐしたり、座り直したりとせわしない。

 塾長の挨拶が終わってしばらくすると、舞台上を照らす明かりが消された。そのタイミングで、スクリーンにモノクロの映像が写し出された。女性の朗読が始まると、これまでのざわつきが嘘のように場内は静まり返る。

 玉崎さんの講演はこのように始められた。

「手術台の上での、ミシンとこうもり傘との出合い・・・」

 よく通る、凛とした声である。声から判断するにまだ若い。滞りなく、適度な抑揚をつけて朗読をする。 

 映像自体には音声も字幕もない。サイレント映画によくある、文字だけの画面が挟み込まれることもない。映像の内容はただ想像するしかない。

 しかし、朗読の内容とは明らかに違っているのは分かる。

 けれども、その違いに不快感を覚えるでもなく、両者のその異なり具合が不思議な叙情的な広がりを感じさせ、人々の耳目を集める。それがしの中でも様々な記憶や想像が行き交い明滅する。

 二〇分ばかり続いたろうか、映像はこのように終わる。男は撃たれた腰を手で押さえながら、両側に隙間なく自動車が停まっている直線道路を走って逃げる。血がシャツの背中に滲んでいる。走るといっても、そう速くは走れない。腰が砕け、足が体の重さを支えきれずにわなないているようだ。関節に無駄な遊びがある。それをショートカットの女性が追いかける。

 T字の交差点に差しかかって、男は力尽き、倒れる。

 倒れた男を囲むように、警察官らしき男たちとショートカットの女性が、仰向けに転がる男を見下ろしている。男は歯をむき出しにし、あるいは、眉根を寄せ、唇を突き出してしかめ面をするなど表情を変えてみせる。

 疲れを拭い去るように顔に当てていた手を放し、頭部を支えていた筋力が首から抜けて、頭は大きく左に傾ぐ。男は息絶えた。

 次いで、女性のアップが写し出される。彼女は唇を指でなぞり、立ち去ろうと後ろ向きになる。その後、暗転し映像は終わる。

 

 朗読はいつの間にか終わっていた。余韻を味わっているのか、はたまた、これは何だったのか判断のつかないまま呆然としているのか、場内は静かである。

 それがしは、ふと「俺は逃げているんじゃない。生きているんだ」と言う、昔見た映画のセリフを思い出した。

 舞台が再び明るく照らし出され、黒いスーツを着た男がさっそうと壇上に上がった。すらりと背が高い。彼が玉崎講師だった。

 物事を相対化し云々、受験は学問と言うよりもむしろゲームとして捉えた方が益がある等々と語った。説明を端折っているからか、話の内容はそれだけでは分かりにくかった。しかし、自信がつき何かできそうな気にさせた。

 最後に、「勝手にしやがれ」と言って講演を終えた。

 割れんばかりの拍手にまじり、講師の名を呼ぶ黄色い声も聞こえる。講演というよりもコンサートや演劇などの公演といった方が正解なのかもしれない。それがしも異様な高揚感を覚えた。

 式が終わり、会場を後にしても、その感は消えなかった。

 経田も同様らしく、二人で意味もなくむやみやたらに「勝手にしやがれ」を連発した。

 彼が英語の担当ならいい、そう思った。

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