218 森で暮らす梟 ひとりにしないで
森で暮らす梟
ひとりにしないで
「おはようございます。先輩」と声をかけられた。
後ろを振り向くとそこには、大学の後輩の友人である、村上真昼が立っていた。
「おはよう。村上さん」四葉が言う。
「はい。おはようございます。秋野先輩」ともう一度、にっこりと笑って、真昼は言った。
「秋野先輩。て、出してください」
真昼が言う。
四葉は言われた通りに歩きながら、隣に移動した真昼に自分の手を差し出した。すると真昼は「ちょっとだけ失礼しますね」と言って、四葉の手を軽くとって、その表面をじっと見つめた。
「……村上さん。なにしているの?」
ちょっとだけ恥ずかしくなって、四葉は言う。
「手相を見ているんですよ」
手のひらを見たままで真昼は言う。
「秋野先輩。すごくいい手相してますね」しばらくして、感心したような顔つきで真昼は言う。
「はい。なんていうか、すごく大丈夫な手相をしています」
「すごく大丈夫?」
「なにがあっても大丈夫な手相です」
そう言って真昼はまた、にっこりと笑った。
話を聞くと、先日、友人たちと食事をした帰りの道で、ビルの片隅に店を出している占い師のおばあさんに、真昼は「占ってあげようか?」と声をかけられて、千円を出して、そのおばあさんに手相を占ってもらったのだと言う。
その手相占いは『恋愛運は大吉』であり、真昼は喜んで、それからおばあさんと少し話をして、人の手相を見るコツを教えてもらったのだと言う。
「それで僕の手相を見たの?」
「そうです」嬉しそうな顔で真昼は言う。
「ちなみに、私と秋野先輩の相性もばっちりですよ」と真昼は言った。
村上真昼は秋野四葉の一つ年下の、今年十九歳になる大学生で、髪は耳が出るくらいに短くて、いつも動きやすいラフな格好をしている、気持ちの良いさっぱりとした性格をした、すごく美人な女の子だった。
高校まではずっと陸上部に所属していて、種目はハードル。そのころは髪が長くて髪型をいつもポニーテールにしていたらしいのだけど、大学で真昼と出会った四葉は、そのポニーテールの髪型をしている真昼を見たことが一度もなかった。(走っている真昼を見たこともなかった)
四葉は「じゃあね」「はい。……あ、秋野先輩。用事があるんで、またあとで研究室にお邪魔しますね」と言う会話を真昼として、大学の校内で真昼と別れた。
「秋野先輩!」
大声で呼ばれて四葉は後ろを向いた。
「大好き!」
にっこりとした笑顔で、遠くから真昼が言った。四葉の周囲にいた学生たちが、幸せそうな顔をして四葉と遠くにる真昼のことを見ているのがわかった。
四葉は国立の大学の大学生として、園原研究室に所属をしている学生だった。
今のところ、一般企業などに就職するつもりはなく、四葉はこのまま、できれば研究者として、どこかの大学に残りたいと考えていた。
指導教官の園原先生も、四葉の進路の希望を知っており、概ねその進路に賛成してくれていた。
園原先生の専門は、植物学であり、四葉も(園原研に所属していることからも、わかるように)植物学の研究を続けていた。
清潔感のある、シンプルな園原研の部屋の中には幾つかの机と椅子。テーブル。壁際にはスチール製の本棚があって、本棚には本や雑誌、研究資料がびっしりとはいっている。窓のところには小さなサボテンの鉢植えが置いてある。
「こんにちは」
四葉が、園原研で、自身の研究を続けていると、そんな声がして、入り口のドアが開いた。そこから、村上真昼が顔を出した。
そんな真昼のことを、園原研の部屋の中にいた三人の人間が、ほど同時に顔をあげて見た。
園原研究室は大学の中でも小さな研究室で、教授の園原先生を別にすれば、所属している学生は二人しかいなかった。
一人は秋野四葉。
そして、もう一人がその四葉の前の机に向かい合うようにして、座って研究をしている、今年大学四年生の桃ノ木紗枝先輩(二十二歳)だった。
時刻はお昼。
真昼は、四葉を昼食に誘った。(食べる場所は、いつもの大学の食堂ではなくて、近くにあるファミリーレストランだった)
「わかった。いいよ」
四葉は言う。
「秋野くん。この間の論文。すごくよかったよ。この調子で頑張ってね」外出の準備をしている四葉に、にっこりと笑って、園原先生が言った。それから園原先生はコーヒーを一口飲んだ。
「ありがとうございます」四葉は言う。
四葉は園原先生に論文を褒められて嬉しかった。
園原教授は、いつもにこにこしている年は六十歳くらいの温和な先生なのだけど、植物学の分野では権威のある先生の一人であり、こういった学問の分野ではお世辞は言わない人だったからだ。
「桃ノ木先輩も一緒に行きますか?」真昼が言う。
「いい。遠慮しとく」
桃ノ木紗枝は真昼を見ないままで、いつものそっけない態度で真昼に言う。それから、長くて美しい(なんだかすごくいい匂いのしそうな)髪を後ろでまとめている髪留めをとって、その黒髪を自由にした。
「うわ。桃ノ木先輩。それ、すごくおしゃれな髪留めですね」真昼は言う。
それはいつもの真昼のお世辞ではなかった。
和風……、というのだろうか?
真昼にはよくわからなかったけど、京都とかのすごく由緒あるお店でしか購入できないような、そんな職人気質の感じる、美しい髪留めを桃ノ木先輩はしていた。
その髪留めには、鳥の模様が施されていた。たぶん、……梟、だろうか?
「ああ、これ? うん。まあちょっとね」
そう言って、桃ノ木先輩にしては珍しく、裏表がまったくないような、すごく自然な顔で、真昼に向かってにっこりと笑った。
四葉と真昼は、大学を出て、すぐ近くにあるファミリーレストランに移動をした。
そこで四葉は和風ハンバーグセットを頼み、真昼はカルボナーラとサラダを注文した。飲み物は二人ともドリンクバーを注文した。(四葉はアイスコーヒー。真昼はオレンジジュースを飲んだ)
昼食の会話で、真昼は自分の本命の要件を四葉に言い出した。
それはある美術展へのお誘いの話だった。(早い話がデートの誘いだ)
「美術展? それも、有名な画家じゃなくて、国内の若い画家たちの作品を集めた話題の展覧会?」四葉は言う。
「はい。有名じゃないってことなんですけど、すごく評判がいいんですよ。なんでも今年は当たり年だって、美術好きの友達が言ってました。この中から将来絶対に大物になる画家がでるから、この展覧会は、たとえメジャーじゃなくても、見に行ったほうがいいって。絶対に損しないって、言ってました」
オレンジジュースをストローで飲みながら、真昼は言う。
真昼はその美術展覧会のパンフレットを持っていた。
四葉はそれを受け取った。(長方形の暗い夜と明るい星座の絵が書かれたパンフレットだった)
確かにプロの卵たちの作品と言っても、こうして展覧会が開けるというのは、すごいと思った。(それくらい、内容が充実しているということなのだろう)
作品を発表している画家も、真昼の話によると、上は三十歳くらい、下は十八歳の高校生も含む、と言う若いメンバーで、皆将来を期待されている画家たちだという。
四葉はパンフレットを最後まで見ていく。
すると、そのパンフレットの中にある、画家の紹介のページで、『ある人の名前と、その作品の写真』に四葉の目がぴたっと止まった。
「どうです? 一緒にいきませんか? 秋野先輩」
なにかをせがむように、ちょっとだけ身を乗り出して、真昼は言う。
そんな村上真昼に、少し考えてから「……わかった。いいよ」とにっこりと笑って四葉は答えた。
「本当ですか!? ありがとうございます。秋野先輩。先輩ならそう言ってくれると私、最初から信じてました!!」すごく嬉しそうな顔で真昼は言う。
「あのさ、村上さん。このパンフレット、もらってもいいかな?」
ファミリーレストランでお会計を済ませたあとに、お店の前で四葉は言った。
「もちろん。全然構いませんけど、でもどうしてですか?」と首をかしげて真昼は言う。
「……実は、こういう絵画、ちょっと好きなんだ」四葉は言う。
その言葉に真昼は「そうなんですか。知りませんでした」と言って、納得をしたみたいだったけど、でもそれは、秋野四葉のついた(珍しい、四葉の)嘘だった。
そのパンフレットには、『雨宮詩織の名前と
その作品、森で暮らす梟』の絵画の写真が載っていた。
その名前と絵画に、四葉の目は、釘付けになっていたのだった。
美術展のデートの日。
(その日は、稀に見る晴天だった)
「四葉っていい名前ですよね。幸せの四葉。クローバー」とにっこりと笑って、すごく上機嫌の真昼は言った。
「そんなことないよ」四葉は言う。
「それを言うなら、村上さんのほうがいい名前だよ。真昼って、すごくいい名前だよね」
「本当ですか? 嬉しいです」真昼は言う。
村上真昼はこの日、真っ白なワンピース姿だった。靴は麦で編んだようなサンダルで、同じように麦で編んだような大きなバックを、真昼はその手に持っていた。
四葉は空色のシャツに、ジーンズ。靴はスニーカーという、普段とあまり変わらない格好だった。バックは白い虹のプリントのあるトートバックだった。四葉は服装にそれほど興味はなかった。(ただし、いつも清潔であることを好んだ)
二人は駅前で合流して、そのまま美術館の中にある新人画家の美術展まで移動をした。
流行っている、と言う真昼の話通り、美術展はとても人が多くて混雑していた。
飾っていある絵画も、確かにどれも、(絵に素人の)四葉が見ても、……すごいと思い、思わず足を止めて見入ってしまうような絵画ばかりだった。
四葉は真昼と一緒に、そんな絵画たちを楽しく鑑賞した。
「どの絵も綺麗ですね」小さな声で真昼が言った。
「うん。そうだね」四葉は言った。
……そして、その少しあとで、そのとき、はやってきた。
大きな絵画な並んで展示してあるコーナーの最後の一枚。……そこに、四葉の探していた絵画があった。
『森で暮らす梟』。
深い緑色の森の木々の中にある、朽ちた神社を描いた絵画。その絵画の中には、確かに一羽の白い梟が描かれていた。
その白い梟に四葉は見覚えがあった。
その梟は間違いなく、あの日、詩織と一緒に目撃した梟だった。
……森と、朽ちた神社も間違いない。
森は間違いなく梟の森であり、朽ちた神社は間違いなく、……あの梟神社だった。
二人だけの秘密の場所。
二人の秘密基地が、そこには確かに、鮮明な絵画として、あのころの記憶のままで、……四葉の見た夢の通りに、描かれていた。
「……この絵。私、すごく好きです」
そんな真昼の声も、あまりよく聞こえなかった。
「先輩? どうかしたんですか?」
「え?」
ようやく真昼の声に反応して、四葉は言った。
「秋野先輩。……泣いているんですか?」
真昼に指摘されて、自分の目元に四葉はそっと手をやった。……すると、そこには確かに透明な水があった。
いつの間にか、四葉は自分でも気がつかないうちに、……森で暮らす梟の絵の前で泣いていた。
「……四葉くん」
そんな声が聞こえた。
とても、……とても懐かしい声だった。
四葉はその声をしたほうに顔を向けた。……すると、そこには一人の女性が立っていた。
長い黒髪をした、……女の人。
年齢は四葉と同じ、二十歳くらい。
その人に会うのは、今日が初めてのことのはずだった。なのに、その四葉を見て、驚いて目を大きくしているその女の人のことを見て、四葉は一目で、それが『雨宮詩織』であることがわかった。
「……詩織」
四葉は言った。
その四葉の言葉と、秋野四葉の姿を見て、……雨宮詩織は、その目から、(さっきまでの四葉と同じように)透明な大粒の涙を、ぽろぽろと流した。
「え? あの、えっと」
そんな(森で暮らす梟の絵画が飾ってある展覧会の通路の前で)少しだけ間を開けたままで、お互いの顔を見つめあって、(しかも、相手の、四葉が詩織と名前を呼んだ女性の人は、涙を拭った四葉とは違い、人目もはばからずに泣いていた)まるで二人だけ、その周辺だけが、時間が止まってしまったかのように、動かない二人を見て、村上真昼は混乱していた。
「詩織。本当に君なんだね」四葉は言った。
秋野四葉には、十年ぶりに会う、その今、自分の目の前にいる女性が、雨宮詩織だと一目で理解することができた。
詩織は、「うん」と言ってうなずいてから、「あなたは四葉くん。秋野四葉くんだよね」とにっこりと笑って四葉に言った。
四葉は詩織に「そうだよ。僕は四葉だ」と答えた。
すると詩織はまた、にっこりと笑って、「嬉しい。本当に四葉くんだ」と四葉に言った。
そんな二人の光景を村上真昼は、森で暮らす梟の絵画の前に立って、じっと、ただ呆然とした表情をして、見ていた。
「……四葉くん。私の絵。見にきてくれたの?」詩織は嬉しそうな顔をして言った。
「うん。それと、作者の名前に、詩織の名前があったから」四葉は言った。
「私に会いに?」
「うん。この森で暮らす梟の絵画を描いたのは、絶対に詩織だって、わかってたから」にっこりと笑って四葉は言った。
それから、少しの間、四葉と見つめ合ってから、詩織はその目を(自分の絵の前に立っている)村上真昼に向けた。
「あ」
詩織と目と目があって、ようやく真昼は、(まるで魔法が解けたように)普通に思考ができるようになった。
「あなたは、四葉くんの恋人さん?」
詩織は真昼を見て、そう言った。
「え? あ、えっと」
真昼は口ごもって四葉を見た。
四葉は真昼を見て、それから詩織を見て「いや、違うよ。大学の後輩なんだ。名前は村上さん」と詩織に言った。
真昼は急いで四葉の横まで移動をして、「初めまして。村上真昼です。秋野さんの大学の後輩をしています」と頭を下げて詩織に自己紹介をした。
「初めまして。雨宮詩織です。画家をしてます」くすっと笑ってから、詩織は真昼に丁寧にお辞儀をしてそう言った。
(それから詩織が、この森で暮らす梟の絵画の作者さんだと聞いて、真昼はすごくびっくりした)
それから、「少し三人でお話しない?」と言う詩織の提案で、美術館にあるレストランで三人は一緒に昼食をとることにした。
真昼は、四葉から二人の出会いのことを(なんでも子供のころ、二人は信州の森の中で出会った友達だということだった。出会うのは、なんと十年ぶりらしい。詩織さんは現在、信州の美術学校を出て、画家として東京で暮らしているということだった)聞いて、「でも、私お邪魔じゃないですか?」と詩織に言った。
すると詩織は「ううん。全然。そんなことないよ」とにっこりと笑って、真昼に言った。
四葉を見ると、四葉はにっこりと(ちょっと申し訳ないような表情をして、きっと詩織さんのことを私に黙っていたことを気にしているのだろう)笑っていた。
なので真昼は、四葉と詩織と真昼の三人で一緒に昼食を食べることにした。詩織は真昼に「嬉しい。私、真昼さんの話、聞きたい」と言って、子供のように喜んでくれた。
そんな無邪気な詩織を見て、なんだか不思議な人だな、と真昼は肩の力を抜くようにして、思った。(画家というのは、みんなそうなのかもしれないけど……)
美術館の建物の中にあるレストランで三人はカレーライスを食べた。(カレーライスの値段は八百円だった)
美術館の建物の中にあるレストランのカレーライスはすごく美味しかった。
三人はテーブルに座って(四葉と真昼が同じ側。四葉の反対側に詩織と言う席だった)お互いの過去の会話をした。
食事を終えるころに展覧会のスタッフと思われる男性の人が、詩織さんを呼びに来た。
そして、詩織さんはその男の人に連れられて、「じゃあ、またね。四葉くん。真昼さん」と言って、私たちの前から笑顔でいなくなった。
四葉は「またね。詩織」と言って詩織さんを見送った。
二人はお互いの連絡先を交換していた。(私も詩織さんと電話番号を交換した)
真昼は無言のまま、詩織さんに手をふった。
どうしても、「またあとで会いましょうね」と詩織さんに言葉にしていうことができなかったのだ。
すると真昼の心の中で桃ノ木紗枝先輩が、いつものように「村上さんは子供っぽいね」と言って、真昼のことを馬鹿にした。
その桃ノ木先輩の言葉を聞いて、確かに私は子供っぽくて馬鹿だった、と真昼は素直に思った。
それから四葉と真昼は、(続きの絵を鑑賞する気にもなれなくて)詩織さんのいなくなった美術館をあとにした。
建物の外に出ると、空は曇り空に変わっていた。(今朝の晴天が嘘みたいだった)
「雨、降り出しそうですね」
真昼は言う。
「うん。そうだね」四葉は言う。
「あの、秋野先輩」
大きなビルの立ち並ぶ街の中、アスファルトの道の途中に立ち止まって、真昼は言う。
「どうかしたの?」四葉は言う。
「……少し、お話しできませんか?」
「話?」
「はい。すごく大切な、お話です」
じっと四葉のことを見て、真昼は言った。(真昼は決意をした強い目をしている)
四葉は少し考えてから、真昼を見て「うん。いいよ。わかった」と真昼に言った。
「私は秋野四葉先輩のことが好きです」
真昼は言った。
それは四葉の顔を正面からしっかりと見つめた、とても真っ直ぐで正直な性格をしている、村上真昼らしい、とても気持ちの良い、思い切った告白だった。
「秋野先輩。私と付き合ってください」真昼は言った。
真昼は少しだけ体を乗り出して、じっと、強い気持ちのこもった目で、四葉の顔を見つめていた。
村上真昼が秋野四葉に恋をしたのは、大学に入ってすぐのころだった。
それは、一目惚れだった。
それは本当に突然の恋だった。(恋をする予定は、当分ないはずだった)
真昼はようやく、四葉に自分の思いを言葉にしてきちんと伝えることができた。ずっと片思いの恋のままで、告白ができなかったのに、こうして今日、四葉に告白をすることができたのは(実は、最初から今日、真昼は四葉に自分の思いを伝えるつもりだったのだけど、彼女と出会わなければ、きっと、今日もいつものように、本当の自分の気持ちを四葉に言えないままで、さよなら、をしていたと思う)雨宮詩織さんのおかげだと真昼は思った。
四葉はずっと黙っている。
片思いだけど、私の好意は、……四葉(あなた)への思いは、きっと四葉にも伝わっているはずだ。その確信が真昼にはあった。(私は器用に自分の思いを隠して、恋愛なんてできないのだ)
だから、四葉もいつかこうして、私(真昼)から、突然、こうして告白されることもあると、最初からわかっていたはずだった。
でも、四葉は無言。
……返事がないのは、拒否の証なのだろうか?
真昼はすごく不安になった。
心臓がずっとどきどきしていた。
しばらくの間、四葉はずっと黙っていた。(なにかを深く考えているみたいだった)
「ごめん。村上さん」
と、四葉は言った。
ごめん。……ごめんなさい。村上さん。あなたとは、お付き合いはできません、か。
うん。
まあ、そうだよね。
わかってはいた。
告白をすれば、たぶん、私は秋野先輩にふられるだろうと、わかってはいたのだ。(だからずっと告白できなかったのだ)
こうなるだろうって、そう思っていた。
ずっと前からわかってた。
「そうですか。わかりました」
にっこりと笑って、真昼は言った。
どんな答えでも、絶対に泣かないって、告白をする前に真昼は心に決めていた。でも、……真昼はなんだかすごく泣きそうだった。
真昼の目から涙が溢れた。
それは真昼の意思ではなかった。
でも、真昼の思いとは違って、涙は全然止まってくれなかった。
村上真昼は、大好きな秋野四葉の目の前で、笑いながら、泣いていた。「……あれ? おかしいな? どうしてだろう?」
涙が全然止まってくれない。
……私、どこか壊れちゃったのかな?
「村上さん」
真昼のことを心配するような声で、四葉は言った。
「あ、大丈夫。大丈夫です。ちょっと待ってください。すぐに『いつもの私』に戻りますから」
今、ちゃんと修理してますから。
大急ぎで、壊れたところを探してますから。
真昼は涙を手のひらで拭った。
恋愛運は大吉のはずの手のひらで……。
その涙で濡れた手のひらを見て、あの新宿の占い師のおばあさんは嘘つきだ、と真昼は思った。
秋野四葉先輩に、誰かほかにすごく大好きな人がいることはわかっていた。真昼は四葉への片思いの間、四葉のずっとそばにいて、大好きな四葉のことを観察し続けてきたのだ。
四葉に女の人の影は全然なかった。
でも、四葉はいつも、どこか遠いところを見ていた。私でも、誰でもなくて、ずっと、ずっと遠くにいる誰かのことを見続けていた。
その誰かが誰なのか、ずっと真昼は知りたかった。
それが今日、はっきりとわかった。
その誰かは詩織さんだった。
雨宮詩織さん。
すごく優しい性格をした、子供っぽい性格をした、笑顔の素敵な美人の、……すごく素敵な、人の心を引きつけるような、すごい絵を描く新人の画家さんだった。
私にもすごく良くしてくれた。(私のことを四葉の恋人さん、とか言ってくれた)
真昼は詩織さんのことが、(はじめはすごく緊張したけど)出会ってすぐに好きになった。
四葉のことがなければ、絶対に仲の良い友達に二人はなれると思った。(桃ノ木先輩みたいに意地悪な人じゃなくて、詩織さんみたいな優しいお姉さんがいたらいいなとも思った)
「ごめんなさい。先輩。……ちょっと直りそうにありません」
泣き止むことを諦めて真昼は言った。
それから、真昼はわんわんと四葉の胸の中で泣いた。……四葉はなにも言わずに、そっと(遠慮がちに)真昼のことを抱きしめてくれた。
真昼の涙は全然止まってくれなかった。
溢れて、溢れて止まらなかった。(なにせ、壊れているのだから)
「本当に、ごめん。村上さん」
四葉は言った。
こんなときでも、四葉はいつもと同じように優しかった。……いっそ、(先輩のことが大嫌いになれるように)冷たくしてくれればいいのに、と真昼はそんなことを思ったりした。(ごめんなさい。先輩)
あなたが(私に)笑ってくれたから。
だから、……私はあの日、あなたに恋をしたんです。と彼女は僕に笑顔で言った。
あなたは今、夢を見ているんです。
……もういなくなってしまった、私の夢を。あったかもしれない、私たちの未来の夢を……。
病院
真っ白な病室。
そこは聖域のようだった。
きっと彼女だけの、神聖な場所なのだと思った。(実際に、そこは彼女の聖域だった。誰も足を踏み入れてはならない、透明な冬の風が吹く、新雪の雪の平原のような場所だった)
繭のように。
彼女は白いベットの中で丸くなって眠っていた。
四葉が詩織の眠っている真っ白なベットの横まで移動をすると、その誰かの気配に気がついたのか、うっすらと、眠っていた詩織がその目を開けた。
そして詩織は四葉を見た。
「おはよう。起こしちゃったかな?」
にっこりと笑って四葉は言った。
その場所にいるはずのない四葉の顔を見て、詩織はすごく驚いた顔をしたが、すぐにその顔をいつもの詩織の顔に戻した。
「……ばれちゃった」
少しの間、じっと見つめ合ったあとで、そう言って、いたずらっ子の顔で詩織はにっこりと笑った。
「君は嘘が下手だからね」
小さく笑って、四葉は言った。
四葉は、詩織のベットの横にある丸椅子に座った。
詩織のいる真っ白な病室の開きっぱなしになっている窓から、とても気持ちの良い風が、二人のいる病室の中に吹き込んできた。
今は、夏だ。
そんなことを、その風の中で、四葉はふと思い出した。
「ずっとね、私、夢を見ていたの」
詩織は言った。
「夢?」
四葉は言う。
「うん。すごく幸せな夢。……四葉くん。あなたの夢。あなたと出会って、楽しい毎日を過ごす、そんな優しい夢。……本当に楽しい夢」詩織は四葉を見てにっこりと笑った。
僕も君の夢を見たんだ。と四葉は心の中でそう言った。だから僕はこうして、詩織に再会することができたんだ。……この広い世界の中で、僕たちはちゃんと再会することができたんだ。
そんなことを四葉は思った。
「いつからなの?」四葉は言った。
「病気のこと?」詩織は言った。
四葉は返事をしなかった。(ただじっと、詩織の目を不安そうな目で見つめていた)
「症状がはっきりと出たのは、二年くらい前……かな?」
「二年前」
四葉は言う。二年前。そのころ、僕はいったいなにをしていただろう? そんなことを四葉は思った。
四葉は詩織に聞きたいことがたくさんあった。
でも、その四葉の疑問は、そのすべてが言葉にならなかった。
四葉はずっと黙っていた。
詩織もずっと黙っていた。
だから、世界は無言になった。
「……四葉くん。お願いがあるの」
少し時間が過ぎたところで、詩織が言った。
「なに?」
四葉は言う。
「あのね、……子供っぽいお願いだって思わないでね。私が、安心して眠れるように、私がこの場所で眠りにつくまでの間、……私の手を握っていてほしいの」
と恥ずかしそうに顔をほんのりと赤く染めながら、四葉に言った。
「いいよ。もちろん」
にっこりと笑って、四葉は言った。
「本当に?」
「うん。本当」
そう言って、四葉は詩織がそっと遠慮がちに真っ白なベットから出した右手を優しく握った。
詩織の手は、とても冷たかった。(まるで雪のようだった)
「ありがとう。四葉くん。あなたに出会えて、私、本当に幸せだった」
にっこりと幸せそうな顔で笑って、そんな悲しいことを詩織は言った。
四葉はずっと黙ったまま、詩織の手を握っていた。
彼女の手を握る。
それしか、四葉にできることはなかった。
真昼が言ってくれた、ずっと大丈夫な手相をしている自分の手で、……詩織の冷たい、全然大丈夫じゃない手を、詩織が眠りにつくまでの間、ずっと握っていることしか、……本当に、ただそれだけしか、できなかった。
……僕は無力だ。
その日の夜。自分の部屋の中で、四葉は泣いた。(それはずっと、詩織の前で我慢していた涙だった)
雨宮詩織が亡くなったのは、(まだ夏の季節も終わらない、本当に……)それからすぐのことだった。
私にはあなたが必要なんです。
本当です。
嘘じゃないです。
そばにいてくれるだけでいいんです。
……本当に、ただそれだけでいいんです。
ひとりぼっちの帰り道の途中で、真昼は自分の中高時代の陸上に打ち込んでいた日々のことをぼんやりと電車の中で思い出していた。
……私はあのころ、どこに向かって、あんなに一生懸命になって走っていたんだろう? (窓に映る自分の冴えない横顔を見ながら)そんなことを真昼はふと思った。
「あの、桃ノ木先輩」
桃ノ木先輩に手を引かれるようにして歩きながら、真昼が言った。
「うん? なに? 村上さん。もしかして次の行き先のこと?」桃ノ木先輩は言う。
「違います」真昼は言う。
「……私、そんなに笑ってなかったですか?」
少し間をおいてから、真昼は言った。
「うん。ずっと笑ってなかった」桃ノ木先輩は言う。
「だから、今日は絶対に笑わせてやろうと思ってた」にっこりと(まるでお手本のように)笑って、桃ノ木先輩は言った。
「僕は君を忘れることはできない」
四葉は言う。
私は忘れてもらっても構わない。だって、私は、もうあなたのいる世界にはいないのだから。
にっこりと笑って、詩織の幻が四葉に言った。
四葉は震える自分の手を(自分で)握る。
それしか、四葉にできることはなかった。
ピンポーン。
玄関のインターフォンが鳴った。
……四葉はゆっくりとベットから起き上がって、部屋の中を移動する。
「はい」四葉は言う。
「あ、先輩ですか? 私です。真昼です。あなたの可愛い後輩、村上真昼です。真昼が先輩を助けに参りました!」と言う元気な真昼の声が聞こえてきた。
そのインターフォンは、真昼の押したインターフォンの音だった。
あなたを愛しています。世界中の誰よりも。
あなたのことを。
十年前
「できた」
そう言って、小学生の詩織は(これから何度も描き直すことになる)森で暮らす梟の絵画の前でにっこりと笑った。
君といつまでも
僕はずっと、ひとりぼっちの孤独な子供のままだった。
私はきっと、わがままな子供だったんだと思います。
森で暮らす梟 おわり
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