533 海を見てみたい 君に会いたい。

 海を見てみたい


 わたしは泣いている。

 どうしてだろう?

 君がいないからかな?


 君に会いたい。


 楽しかった。すっごくね。幸せだったんだよ。私。本当だよ。


「好きです。僕と結婚してください」

 そう島田月日が朝露草子に告白をしたのは、小学校の屋上でのことだった。

 その月日の告白を聞いて、最初、きょとんとした顔をしていた草子は、やがて笑顔になって、それから、ついに堪えきれない、と言ったような表情をしてから、大きな声を出して笑い始めた。

 そんな草子のことを、月日は真面目な顔を真っ赤にしたままで、じっと見つめている。

「そんなに笑うことはないでしょ? こっちは勇気を振り絞って、告白したんだからさ」と月日はいう。

「ごめん、でもさ。結婚って、……ふふ。おかしい。付き合ってくださいじゃなくて、結婚してください、なの?」と草子はいう。

 草子は本当におかしかった。

 月日の中ではお付き合いをすることは、結婚をすることと、おんなじことなのだ。

「島田くんって、本当に子供だよね」

 にっこりと笑ったまま、屋上にふく気持ちのいい風にその美しい黒髪をなびかせながら草子は言う。

「それで、返事は?」

 じっと、(真面目な顔のままで)草子のことを見ながら月日はいう。


 月日は青色のシャツに深緑色の大きめのズボンを履いている。足元は白いスニーカー。

 草子は黒色のTシャツに同じ黒色のミニスカートを履いている。足元はやっぱり黒色をしたスニーカーだった。

 草子はゆっくりと歩いて屋上にある転落防止用の大きなフェンスのところまで移動すると、そこから月日を見て、「待ってもらうのは、だめ?」と言った。

「告白の答えを?」月日はいう。

「うん。そうだよ」にっこりと笑って草子はいう。

「……それはつまり、僕の告白を朝露さんが受け入れてくれる可能性が少しくらいはあるってこと?」

 月日は言う。

「そう言うことになるのかな? 正直なところ、私、今、すごく迷っている」珍しく真面目な顔をして草子は言う。

「僕の告白を受け入れてくれるのか、あるいは、ごめんなさいと言って、受け入れてくれないのか、そのことですごく迷っている」

 月日はゆっくりと歩いて、草子の近くまで行ってから、そう言った。

「そういうこと。島田くんのせいですごく迷ってる」

 月日を見て、にっこりと笑って草子はいう。


「できたら、今すぐ返事がほしい」

 月日は言う。

「私も、本当ならすぐに返事をするつもりだった。手紙をもらって、屋上に来てほしい、っていう文字を読んでから、もしかしたら、……まあ、こう言うことなのかなって、思っていたから、告白されたら、こんな風に島田くんに返事をしようって頭の中でずっと考えていた」草子はいう。

 月日は無言のままで、草子を見ている。

「でも、実際にこんな風に告白をされると、……やっぱりすぐに返事はできないと思った」

「どうして?」月日は言う。

「だってこの私の返事は私の、……ううん。『私たちのこれからの運命』を決めるような、とても大切なことになると思うから」

 月日を見て草子はいう。

「僕たち二人の運命」月日は言う。

「そうだよ、私たち二人の大切な運命」草子は言う。

「朝露草子さん。僕は朝露さんのことを本当に心から愛しています。大好きです」

 真面目な顔のままで、月日は言う。

「それは、もうさっき聞いたから知ってる」

 少し顔を赤くしながら、草子は言う。


 二人は転落防止用のフェンスのところに並んでたっている。

 その二人の背の高さはちょうど同じくらいだった。

 でも、これから小学校を卒業して、中学生になって、高校生になって、大人になって、……そんな風に時間がたっていくときっと(もちろんたぶんだけど)月日の背は私よりもずいぶんと大きくなっていくんだろうな、とそんなことを草子は思った。

 屋上にまた気持ちの良い風が吹いた。

 気持ちのいい、夏の透明な風。

 草子は空を見上げる。

 大きな白い雲の浮かんでいる、まるで海のような青色の空。

「今、私たちは海の上を漂流している」

 そんなことを突然、草子は言った。

「海の上を?」と月日は言った。

「そう。暗い、夜の海の上を」とくすっと楽しそうに笑って草子は言った。

「どうして僕たちは海の上を漂流しているの?」月日は言った。

「船が難破したから。嵐にあって、大きな船が海の中に沈んでしまったから。その船に乗っていたたくさんの、……本当にたくさんの人たちと一緒に」と草子は言った。

「その大きな事故の中で、僕と朝露さんだけが奇跡的に助かった」月日は言う。

「そう。私たちだけが『奇跡的』に助かった。海の上には私たちだけしかいない。ほかの人たちはどこにも見えない。あのずっと星のように輝き続けていた大きな白い船もない」と草子は言った。

「でも、僕たちもそんな状況ではもう長く生きることはできない」月日は言う。

「そうかもしれない。でも、私たちの前にはやっぱり『奇跡的に大きな船の中に積んであった救命用の浮き輪』があった。でも、それは一つだけの浮き輪で、その浮き輪に私と島田くんが同時につかまるとその浮き輪は海の中に沈んでしまった。その浮き輪で助かる人間の数は、……どうやら一人だけのようだった」と草子は言った。

 そんな草子の突然の作り話を(真剣な顔をして)月日は聞いている。


「そんな状況になったら、島田くんはどうする?」草子がいう。

「その浮き輪を朝露さんにゆずる」

 とまったく迷わないで月日は言った。

 そんな月日の言葉を聞いて「ありがとう。たぶん、島田くんなら、そう言ってくれると思っていた」と嬉しそうな顔をして草子は言った。

「でも、私はそんなことは望んでいない」

 と草子は言う。

「僕が朝露さんに浮き輪をゆずることを?」草子を見て、月日は言う。

「そう。だってそんなことをしたら、島田くんが暗い海の中に一人ぼっちで沈んでいってしまうから」と草子は言った。

「でも、二人一緒に沈んでしまうよりは、そのほうがいい。だって朝露さんは助かるんだから」と月日は言った。

「一人だけ助かっても、意味はない」草子はいう。

「そんなことはないよ。意味はある」月日は言う。

「島田くん。私はあなたのことが好き。大好き」と急に草子がそんなことを月日に言った。(月日を見る草子の美しい大きな黒い瞳は、少しだけ潤んでいた)


 それからすぐに草子の大きな黒い瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

 そのこぼれ落ちた涙を見て、思わず月日はとても綺麗だと思った。

「泣かないで。朝露さん」

 と(船の模様のある)ハンカチを出しながら月日は言った。

 草子は無言。ただ、黙ったまま、月日の顔をじっと見つめている。

「朝露さん。どうして泣いているの?」と月日は言った。

 草子はやっぱり無言。

 それから月日も無言になった。

(月日には、もうなんて言葉を草子にいったらいいのか、わからなかったからだ)

 それから少しして、ぎゅっと草子は無言のまま、強く、月日の手を握った。

「……島田くん」

 ととても小さな声で草子は言った。

「なに? 朝露さん」

 と優しい声で月日は言った。

「……島田くんにお願いがあります」

 と泣きながら(草子の大きくて、綺麗な黒い目からはぽろぽろとたくさんの涙が溢れていた)草子は言った。

「いいよ。僕にできることならなんでも言って」と月日は言った。

(月日は草子が泣き止んでくれるのなら、どんなことでもしようと思った)

 それからじっと月日のことをじっと見つめたままで、草子は「島田くん。……これからさき、なにがあっても、『絶対に私を一人にしないでください。ずっと、ずっと、絶対に、私のそばにいてください。いつまでも私と一緒にいるって、そう私に約束してください』」と泣きながらそういった。


「わかりました。約束します。僕はずっと、一生、朝露さんのそばにいます。そばにいて、あなたのことを愛し続けます」

 そう言って、月日はぎゅっと(ハンカチを持ったまま)草子の手を握り返した。

「はい。お願いします」

 とにっこりと笑って、草子は言った。

 小学校の屋上で、夏の青空の下で、こうして二人は恋人になった。草子はそれから月日のハンカチをかりてその涙をしっかりと拭った。

 二人の通っている小学校の屋上からは海が見えた。

 海と、街と、その海に浮かんでいる小さな島がいくつか見えた。

 二人はぼんやりとそんな見慣れた風景を二人で並んで一緒に、手を繋ぎながら、屋上の床の上に座り込んで、少しの間、じっと黙ったまま眺めていた。

「波の音が聞こえる」

 草子は言った。

「波の音?」

 月日は言った。

(海の風景は見えるけど、波の音は月日にはきこえなかった)

「うん。聞こえる。気持ちのいい波の音」

 草子はいう。

「僕の耳には聞こえない」

 月日は言う。

「ねえ、島田くん。今度の日曜日に二人でどこかにお出かけしようか?」

 ふふっと嬉しそうに笑いながら、草子は言う。


「いいよ。どこに行こうか?」

 月日は言う。

「島田くんはどこか行きたいところ、ある?」月日に寄り掛かるようにしながら、草子は言う。

「うーん。そうだな? 自転車で行けるところなら、どこでもいいから、朝露さんの行きたいところでいいよ」月日は言う。

「私が決めていいの?」草子はいう。

「いいよ」月日は言う。

「ふふ。ありがとう。えっとね、じゃあね、どうしようかな?」すごく迷った顔をして草子はいう。

 それから少しして、草子は月日をみると、「あのね、私、海を見に行きたい」とにっこりと笑って、月日に言った。

「わかった。じゃあ、そうしよう」とにっこりと笑って月日は言った。

「本当! すごく嬉しい! どうもありがとう、『月日くん』!!」

 そう言って、月日に抱きついた草子はそのまま、月日のほほにキスをした。(月日の顔は顔から湯気が出るくらいに、真っ赤になった)


 後日、二人の家の近くの海辺には、約束通りに、静かな浜辺の上に並んで座って、穏やかな海を見ている幸せそうな二人の姿があった。


 わたしと君が出会ったのは、奇跡だったのかな?

 それとも、ただの偶然、だったのかな?

 ねえ、どう思う?


 海を見てみたい 終わり

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