Rowing.11
―――あの事件から一週間後の土曜日。現在地:
「うっはああ。緊張するわあああ。めっちゃ手が震えるし」
深紅の半袖Tシャツを着た小柄の青年は目の前に広がる湖畔を前にして叫ぶ。
「………宗次郎。少しは落ち着いてくれないか、そういう風に言われると、うっっ!――緊張で吐きそうになるからよ」
体格は常人よりも大きく、身長もそれなりにある。いかにも強そうな濃い顔には似合わない気弱さを持つ青年は嘔吐寸前の顔をしていた。
「これだから勝也は。千メートルエルゴを自己ベスト寸前というところで力が抜けたり、練習中に張り詰め過ぎて、バランスを崩して水中に落下……みたいなことになんだよ。もっと堂々としてろよ。これからが俺たちの公式戦初舞台なんだからよ!」
「…………おう。がんばるよ。じゃあ……今日もよろしくな、宗次郎」
「気なんか抜いた時には、帰ってからの練習量増やしまくるからな。覚悟しとけよな勝也?」
北方からの風が心地よく吹く。順風ということは最高のレース日和であり、最も記録が伸びやすい機会。ここが自分たちの立ち位置を理解する最初の場。
宗次郎が一方的に肩を組むその姿はデコボココンビの誕生を予感させていた。
♦
「東山君おはよう!今日は頑張ろうね」
バスを降りた俺は突然後ろから声を掛けられた。声の主は一週間前に初めてしっかり話した人物。我が校のボート部副キャプテンの安芸加奈子先輩だった。
「加奈子さん、おはようございます。そっすね、互いに全力を尽くしましょう」
「ええ、そうだね。――あと、アレの件。ちゃんとよろしくね?」
加奈子先輩はヘアピンを止めながら俺に確認を取って来た。「アレ」というのは一週間前に関係する内容で、俺も初めてすることで少しワクワクしている。
「はいっ!ちゃんと覚えてますから。心配しないでくださいよ」
俺の返事の後、先輩は微笑みかけてから友人の元へと駆けて行った。揺れるポニーテールからウキウキ感が漏れているような気がした。
備品をバスから下ろしていると、「翔悟!」っという名前が呼ばれたので振り返った。聞き覚えがなかった声だった為に不思議がりながら見ると、本当に知らない奴が立っていた。。サラサラヘアーの蒼髪で背は俺より高い。練習中にサングラスをしているのか、焼けている部分との境界がくっきりしている。そんな若干焦げ気味の男子生徒はこちらを見下ろしていた。
「―――どちら様ですか?」
本当に知らない奴だからどうしようもないのだが、一応名を問うてみた。
「ええええ!嘘でしょっ!まさか僕のこと覚えてないの?ほんとのホントにマジで何も一切全部覚えてないの?」
しつこいくらいに言葉を連ねる彼。俺はその低めのイケボを聞いても、本当に覚えがない。そのくらい、彼が誰だか分からなかった。
「…………
「才川……さいかわ……サイカワ…………ごめん。わからん」
フルネームを聞いても分からないという始末。
「―――本当に言ってるのかい?ねえ、同じ中学で三年間一緒だった眼鏡の坊主頭を覚えていないかい?野球部で、九番レフトだった……」
同じ中学。三年間一緒。九番レフト……。頭を高速回転させ、そのころの記録をたどる。バスの前で佇む才川と備品運びを放棄した俺。混沌が渦巻きかねない状況になりつつある現在。だが、それでも言わなければならない。
「すまん。本当にお前は誰なんだ?俺の記憶にはこれっっぽっちも残ってない」
毒舌が過ぎたのか、才川は軽く涙目になった。知らないことを思い出せという方が難しい。俺なりに努力したがそれは報われることは無く、彼には本当にごめんという気持ちでいっぱいだ。
そして、ようやく彼は諦めがついたのか、目の色を変えてこちらを見た。
「―――東山翔悟。ならば、今日。俺が君の記憶に焼き付けるくらいのレースを見せてやる。覚悟していろよ、俺はあんたを潰すために今日までしてきたんだからな。まあ、来月の四国新人でも潰すけどさ。じゃ、また」
一方的に宣戦布告してきた彼はそそくさと自陣の方に去って行った。一体何だったのだろうかという疑念が後を絶たない。そう考えていると収拾がつきそうになかったのでひとまず思考を停止し、元の作業へと戻った。
しかし、俺は才川が身に着けていたジャージのチームを何故か知っていたということに気が付いた。
「―――久万東高校。そういや何かが有名だった気がするなあ」
俺は独り言を呟きながら、本日の播崎高校の簡易本部であるボート協会の艇庫へと歩みを進めていった。
♦
『まもなく、A監視を始めます。第一レースの選手は速やかに集まりなさい』
監視。それはボートレースをするということにおいて最も重要な作業だ。もしも、この作業を忘れていたとするならば、そのレースへの出場を許可されない。
監視とはレース前の選手のちょっとした調査である。監視には二種類あり、A監視とB監視というそれぞれ違う監視がある。まずB監視とはレース発艇の九十分前から受付が開始される調査のこと。発停時刻の確認、ユニフォームの不備などのチェック、体調などを確認するもので、絶対にしなければならない監視だ。監視を行うのは協会の人や他校の先生などで、礼儀正しく接しないと悪印象を与えてしまう。そのためないがしろにすることなどは厳禁である。俺は一度も怒られたことは無いが他の人が怒られているのを見てからはいっそう気を引き締めてしている。いわば、レース前に門番に挨拶するようなものだ。
続いてA監視。これは地区大会ではほとんど見られないが、大きな大会になると存在してくる。この監視は主に最終確認だ。持ち物チェック、艇の装備の不備の確認など。よく引っかかるのはヒールロープと呼ばれる、競技用の靴のかかとに付けなければならないロープのことで、万が一船がひっくり返った場合(これを|沈《ち
ん》と呼ぶ)に靴が脱げやすくなるようにする。これがなければわざわざ本部まで取りに行かなければならず、後続の方々に迷惑をかける。その時の罪悪感は半端なく、心が締め付けられるように痛い。このようなルールがあるので覚えておこう。
第一レースは中部地区の女子クォードプルの九時丁度発艇のもの。そのため正装に着替えた女子クルーたちが続々と本部に集結していく。うちの高校のクルーの姿もそこにあった。
「うちの女子クルーのローイングスーツは青が基調なんですね。……デザインは悪くないけど、何故に青なんでしょう?」
左隣にいた望月が俺の右隣にいる安芸先輩に尋ねた。安芸先輩はローイングスーツをTシャツで隠すように着ている。(ローイングスーツとは競技用のユニフォームで例えるならレスリングのユニフォームによく似ている)
「んー。たしか他校と被らない色を選んだら青しかなかったって先輩たちが言ってたね。私はこのデザイン好きよ?ダサくないし、むしろカッコいい」
「男子は何故か赤なんですよね。これって普通女子と逆の色ですよね?」
俺は率直な感想を述べた。たしかに周りを見れば女子チームは暖色系等が多い、男子チームは女子と同じところもあるが、男女で区別しているチームは暗い色を男子にするというチームが多いと見受けられる。
「それはね……私も最初のころは思ってたけど、慣れるとそんなに気ならないよ。別になんで青とかなんで赤とか別にどうでもよくない?大事なのは『勝つか負けるか』だと私は思ってるし」
さすがはストイック先輩。ボートに対しては体面繕わずに、必死で足掻けということだろう。良い教訓を頂きました!
望月も激しく同意したらしくうんうんと大きく頷いている。と、このタイミングで時計を見た望月は安芸先輩の監査の時間が近いことを教えた。
「先輩、そろそろお時間です。監視の方へ参りましょう」
……そんな芸能マネージャーとかじゃないんだから。と言いたげな安芸先輩。しかし、望月もこの対応が癖ついてしまったのか砕けた話し方をする様子はない。
ただ、安芸先輩は監視に行く直前に俺の方を向いて言った。
「絶対優勝、だよ?」
安芸先輩の満面の笑顔は、誰もがそうそうお目にかかれない貴重なものだと男子の先輩方から先日聞いたばかり。言われてみれば練習中に安芸先輩が笑ったことがないと今更気付いた感がその時はあった。しかし、俺にしたらそれが日常になりつつある。
「そうですね。絶対優勝しましょう!加奈子先輩」
それがレース前最後の会話だった。先輩たちに聞かれたら俺は袋叩きにされていたこと間違いなし。何せ、安芸先輩は実力もトップクラスだが、美貌まで最高峰。学年でも噂になるくらいの超絶美人としてしられ、何人ものの勇敢な戦士たちが玉砕していったほどだ。そんなお方と話せる俺は運がいい。
♦
―――翔悟が超絶美人と別れた時と同じくして。艇庫内で話す三人の新米選手の姿があった。何やら密談をしている。
「ねえ。やっぱりアレって―――やっぱそうだよね!」
「いやー、さすがプリンスってか。オーラが違うよ」
「クッソーー!あんなに良いモノばかり持ちやがって羨ましいいいい!」
三人の視線の先にはエルゴを引く青年の姿があった。濃いオレンジに赤と白のラインが引かれたデザインのローイングスーツを身に着けている。その彼は視線を気にすることなく集中し、己の心を整理していた。すると、先ほどまで揺れていた彼の艶やかな金髪が静止する。そして、同時にエルゴを引くのをやめた。
「さあ、今日もサクッと行きますかね。待っててくれ加奈子さん。今日こそ君を頂戴するからね。フフフフ、楽しみだな」
険しかった顔が一瞬で綻び、引き締まった頬が若干緩む。その青い瞳はおそらく外国人、もしくはハーフであることを示している。噂によれば、彼のその眼だけで何人ものの女性を落としてきたとかなんとか。そんなデマっぽいことまで流れるくらい綺麗な瞳をしていた。身長は百九十近くはあるだろう。筋肉はさほどなく、程よい筋肉と呼ぶにふさわしい肉付きだ。
そんな彼はある人に夢中だった。
「加奈子さんのレースはもうすぐだね。観客のいるところまで……行っちゃいますか。一番美しい姿を見るためにね」
彼はひとしきり汗を拭いたら暑い日差しが差し込む外に出て行った。彼が外を歩くだけで視線が集まり、まるでモデルショーのような状況になる。艇が並ぶ広場を過ぎ、対岸にかかる橋を渡っていく彼。
「次こそは賭けに勝つよ。そして、君を愛そう」
そのフレーズは穏やかな風に吹かれて消えていった。その言葉どうりに展開していくことを疑わない彼は彼女の応援席を確保しに行くのであった。
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