みみずの長さで
「健康で文化的な最低限度の」って言葉が書かれてるのは憲法二十五条。
いや、生活保護についてこんなところで僕なんかがどうこう言う気は全く無くて。ただ、「健康」「文化的」「最低限」っていう、モノサシのない言葉が三つも連なっている、おもしろい文言だと思っている。
いま、喫煙者の肺病のリスクが何倍だとか、死亡年齢の平均がどれくらいだとか、具体的な数値でもって喫煙の「非健康さ」は簡単に表せる。ここ最近は特にそういうポスターをよく見かけるようになった。
けれど喫煙の「非健康さ」の全てが近年新しく発見されたものだとは思わない。それらは証明された数式や物理法則みたいなものではないからだ。それらの認知はグラデーション様であるはずで、キッパリとした層の違いはうまれえない。新発見の真実なんて、みんな薄々分かってたことだよ。
つまりそれらのうっすらとした「非健康さ」が、健康状態についての問題にならない時代があったのだ。むしろ煙草くらい吸っているほうが健康的だ、みたいな雰囲気も、当時の文章とかから感じたことがある。若干の罪悪感を滲ませながら。
「健康」についての認識が、煙草については変わってしまっている。ここ数十年のあいだに、ゆっくりと、ぜんぶ。
「文化的」の方は、そもそも(っていう話し方が好きじゃない、っていうのは前に書いた)の「文化」が時代によっても地域によっても全く違うものでありうる、ということは今では信じられていると思う。
なにも海の向こうとかの話じゃなくて、お隣の家にだって、きっとちょっとづつ違う「文化」がある。多様性の時代だぜ、お互いの「文化」を尊重していこう。
まぁ、つまり、これも明確な輪郭をしているわけじゃない。
モノサシのない「健康」と「文化的」。この二つが「最低限」を定義するためのモノサシである必要がある、ということが、憲法二十五条の文言のいかにもな曖昧さを醸し出している。
おもしろいね。
岡田淳さんの『星モグラ サンジの伝説』という小説に、モグラ世界の単位について、人間が疑問を呈するシーンがあった。
モグラは「ミミズ何匹ぶん」という単位で長さを示すのだ。それに対して人間は、「そんな伸び縮みするもので長さを計るなんて」とコメントする。
べつに、だからどうってシーンでもない。後々の伏線になることも、覚えている限りではなかった。ただモグラ社会とのギャップが見つかった、というだけ。
だから僕がこのシーンをよく覚えているわけは、ギャップが見つかる、ということにあるのだと思う。食い違いが発見される。それを認識する。
間違いを正す、なんていう次元のことじゃない。暗闇にあるものを、そこにある、とだけ言う行為。なんておおらかで、オカルティックで、どうしようもない世界観なんだろう。岡田淳作品の魅力はこういう所なんだよなぁ……。
いや、作家語りはやめとこう。
モノサシがないということ。あるいはモノサシが伸び縮みするものだったということ。それを知る瞬間は、やっぱり楽しい。
みみずの長さで世界を計ったっていいんだ!
ひっくり返すとか教化ではなくて、世界の一部を夜空へ放り込むだけのこと。それも素敵だと、僕は思っていたい。
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