【エッセイ】道草食ってく人生だ

相園 りゅー

自然、について考えてること

 自然って大事だよね。


 春の若葉や蝶なんかに心癒されたり、夏の木立を抜けて来る風を涼しく感じたり、秋の落ち葉や細かい雲にむしろ華やかな気分になったり、冬の見通し良くなった梢のあたりに鷹とか見つけて誇らしくなったり、するよね。

 ソコトラ島の竜血樹を実際に見てみたいね。コンゴのジャングルで名前もついてなさそうな生き物に出会いたいね。西表島で息を潜めて山猫が通るのを待っていたいね。

 賢いイルカと触れ合いたい。珍しい花を愛でていたい。

 そんな、使い古されたイデオロギーと無縁でも、在りたい。


 そもそも、(って話し始めることって結構暴力的なんだけど、)「自然」ってなんだろう?


 僕らは当たり前にその言葉を使う。愛でるし、畏れる。保護したり、破壊したりもする。昔語りの頭言葉に使われるし、若人向けのファッション誌にも書いてある。

 現代の僕らにとって「自然」という言葉とそれが示す概念はあまりにも自然すぎて、うっかり見落としてしまいそうになるくらいナチュラルだ。しかもそれが援用されて応用されて喩えられて、一つ一つの用法からもとの意味を酌むのはむちゃくちゃに難しい。だから、現在ではなく過去の用法から意味をとらえ直すことも、アリなんじゃないかと思う。


 「自然」って日本語は、確かもともとは仏教用語で、明治に入ってからnatureの訳語として使われるようになったんだったと思う。ちゃんと調べ直してないから、間違っていたらごめんなさい。でもたぶん、仏教自体とおんなじようにたくさんの人によって読まれて書かれて、文字として日本に入ってきたんだろうと空想している。

 「自然」は、どういう変化をしてきたんだろう。インドで生まれた仏教が中国を通って日本に来た、そのどこで「自然」は生まれたんだろう。「空」とか悟りとか、そういうものとはどういう関係があるんだろう。それにnatureが重なったとき、それって一方的な翻訳だったんだろうか。仏教という巨大な哲学が、西洋の怒涛のような哲学と繋がったときに、なんにも起こらなかったとは思えない。なにかが起こったのであって欲しいとすら思う。

 「自然」という言葉が生まれる前の日本には、「自然」に対応する概念があったんだろうか。もともとあった意味を「自然」へ当て嵌めたのか。それとも、概念ごと新しい言葉として「自然」は日本に収まったのか。

 自然が「自然」として紹介される前の日本では、人々は野山や海やそこにある生き物たちを見て、どう呼んでいたんだろう。彼らにとって己を囲むものは一体なんだったんだろう。この長細い島には一体なにがあったんだろう。

 山童やまわろ川太郎がわたろうが騒いでいたっていう石牟礼道子の原風景は、言葉によって定義される以前、つまり「自然」の前の景色と言えるかな。折口信夫が言ったという「かみ」や「もの」や「おに」は、「自然」に組み込まれ失われていった原初の思いだと考えるのは、やり過ぎだって言われてしまうだろうか。


 ……。


 ま、こんなことを考えなくても、自然の美しさは語れるし、好きになれる。

 わざわざ掘り起こして解説するより、きっと、そっちの方が自然だよね。

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