夢喰いの獏は悪夢以外も食べるのか

I田㊙/あいだまるひ

獏といういきもの

 わたしの好きな絵は、牡丹ぼたんの時期に松阪にある朝田寺ちょうでんじで公開されているもので、引き違い戸に描かれた月をあおぎ見るばく

 同じ朝田寺にあるものでも、曽我そが蕭白しょうはくで有名なのは、こちらではなく別に描かれた阿吽あうんの獅子の絵なのだけれど、わたしは獏の絵の方が好きだった。


 いつもその絵を観ながら、ぼんやりと考えるのだ。

 人の不幸は蜜の味と言うけれど、もしかして悪夢は甘い味がするのだろうか。

 それともまずいけれど、人のために食べているのだろうか。

 悪夢を選んで食べるということは、それが悪夢だと分かっているということだろうし。

 ということはつまり、実は獏は性格が悪いのでは?

 いや、でもそれを食べてもらえたら悪夢を見ている方はすっきりするわけで、味とかは関係なくその為にやっているとしたらきっと性格がいいのだろうけど。

 穿うがった見方をしたらキリがないが、そうやって自分の中で考察している時間は静かで穏やかで、なにものにも代えがたかった。


 この月を仰ぎ見る獏は、一体何を求めているのだろう。

 新しい悪夢か。

 それとも時々はいい夢も食べたいと思っているのだろうか。

 でもせっかく見ているいい夢を食べるのはちょっと気が引けるものだしなぁ、とか。

 あとは、夜か……仕事の時間だ……、とか。

 一応獏はい神様で、その神様のことを性格が悪いかもしれないと考えているなどとはおくびにも出さず、わたしはせっせと牡丹の時期になるとその絵を観に行っていた。

 わたしの中の獏の性格は、何度通っても未だ固まらず、ぐにゃぐにゃと不定形のままだ。



 だから、こんな風に今目の前にその獏らしき生き物が、若干思っていたよりも可愛らしい姿でわたしの前にいるのも、多分そのせいなのだ。蕭白の描いた獏は、妖気のようなものを纏っていてもうちょっとだった。どうせなら、その姿で出てきてくれたらよかったのに。

 そしてなぜかその隣には15歳くらいの切れ長の目をした美しい女の子。凛々しい眉に、鼻がすっと高くて、真っ黒の長い髪。レースがあしらわれた、ボリュームのある黒のドレスを着ている。獏に寄り添うようにして、彼女はわたしの部屋の雪見障子の前に立っていた。


「こんばんは、いい月ですね」


 ――ああ、なんだこれは夢か。


 だって外はどんよりと曇っていて月なんて見えないし、時計も見当たらず今がお昼なのか夜なのかも分からない。強い風の音が断続的に聞こえてくる。それなのにこんばんは、とは。

「あんなに通ってたのに、夢に獏が出てきたのは今日が初めてだわ。今日はわたしの悪夢を食べに来てくれたの?」

「そうだとも言えますし、そうでもないとも言えます」

「はぁ」

 わたしは彼女の答えに、間の抜けた返事をするほかない。

 窓の外をピカピカと稲光いなびかりまといながら竜巻が流れていき、窓はみしりみしりと音を立てている。音を立てて竜巻が通り過ぎたと思ったら、また帰ってくる。ずいぶんと外が騒がしい。

 空からは傘が降っている。わたしの夢の天気は、

「今日あなたのところに来たのは、『最期の夢』を獏に食べさせてほしいというお願いの為なのです」

「『最期の夢』?」

「そう。人は大体死ぬ直前に、親兄弟や親戚など、近しい人たちの夢を見るのですが、その夢を」

「それは、悪夢なの?」

「悪夢である人もいればそうでない人もいます。大体は、穏やかな夢ですけどね」

 恐らく喋れないのであろう獏に代わって、彼女は饒舌じょうぜつに語りかけてくる。窓は開いているのかいないのか、けれど音も竜巻も止まないでごうごうという音が聞こえ続けている。

 メトロノームように、獏の鼻がプラプラと行ったり来たりしている。窓の外の光景と、それを全く気にも留めない様子の獏の姿の対比に、笑いさえ込み上げてきそうだ。

「やっぱり、獏は悪夢ばかりを食べているわけじゃないのね……」

「まあそういうことになりますね。日本に来て獏が悪夢を食べるようになって、もう何百年も経っているのです。悪夢以外だって食べたいと思うのも、不思議なことではないと思いませんか?」

「そう言われればそうかもしれないわね。けれど、それがなぜ『最期の夢』限定なの? 別に、普段から食べればいいじゃないの。だって食べたら忘れるんでしょう?」


 彼女はいつの間にかやたらふかふかの椅子に座り、獏は私の足元にいた。私は彼女と向き合って同じような椅子に座る形になっている。和室なのに座布団じゃなくて椅子なんて、おかしいったらない。


「忘れると言っても『悪夢を食べてもらえた』という記憶だけは残りますからね。獏という生き物の性質上、まあ一応体裁というものがあります。神として存在する以上は。その点、死ぬ直前の夢ならば、獏に悪夢以外を食べられたなんて話す人もいないですから」

「けど、架空の生き物なのに」

「それを言ってしまいますか。すがっているのはあなたたち人間の方ですよ? そしてそれを形にして勝手に残しているのも」 

 それもそうか。

 わたしだって何年も、架空の生き物であるはずの獏に何かを求めていたのだ。

「いいわ、わたしの最期の夢、獏にあげる。わたしの財産じゃなくて夢を欲しがる物好きなんて、それこそ獏くらいしかいないものね」

「ありがとうございます」


 竜巻が何本にも増えて、うるさい。もうそっとしておいてほしいのに。


「……本当はね、私が獏を好きになったのは、私が好きだった人の影響なの」

「そうでしたか」

「もうね、ずっとずっと……昔の話だけれどね。あの人は、怪異とか妖怪とか神様とか……そういうのが好きだった。それで、私も話が合えばと思ってそういう本を漁っていたの。うちには幸い書庫があって、そういう本も少しあったのよ」


 ぎぃ、と音がして書庫が開く。書庫の奥に、詰襟の制服を着たあの人の姿が見えた。

 腕には、傘を引っ掛けている。

 ふふっ、おかしい……。書庫の中では雨なんて降らないのに。

「けれどね、読んでも読んでもあの人に話しかけられる気がしないの。そうしているうちに、あの人は東京の大学に行ってしまった」

 私だけが読んで、あの人と話をするのではなくて、あの人を呼んで、二人で本を漁ればよかったのだ。

 そんな簡単なことに気付いた時には、もう遅かったけれど。

 彼の奥に、女学校の制服を着たわたしの姿がぼんやりと映る。

 二人は、楽しそうに神話や妖怪の話をしている。

「目が覚めている時に見ている、見たくない何かも、これが夢だったら良かったのにとよく思っていたわ。それはしっかり事細かに覚えているのよ。でもそれって、夢の中だと逆に忘れられるのよね。不思議なものね」

「あなたの見る夢は、穏やかなものが多かったですもんね」

「なんだ、知っていたの」

「ええ、もちろん。それが良い夢か悪い夢が判断しないといけませんから。私は、一度は夢の中を覗きますよ」

 彼女は微笑んだ。そう、やっぱり本当は貴方が獏なのね。だって少し眠そうで、黒の中に少し緑も混じったような、見たことのない深い色の瞳をしている。

 じゃあ、こちらのわたしが知っている方に近い獏は、ペットか何かなのかしら。

 わたしが獏だと思っていたものは、気づくと書庫の奥で楽しそうに喋っている二人の傍にいて、どこを見ているのか定まらない瞳で、またブラブラと鼻を揺らしていた。

「この姿だと、みなさんどうやら獏だと認識してくれないらしくて」

「そうね」

 ギシギシと家鳴りの音は増していて、もうこの夢が長くないのだと悟る。

 ああ、もう、うるさい、うるさい。

 静かにかせてほしいのに。

 窓と書机の引き出しが開いて、竜巻に吸い込まれるように、書類たちが空へと舞いあがっていった。


「最期に、話し相手になってくれてありがとう」

「いいえ、あなたのこの夢を、獏がいただきますね。こちらこそありがとうございます」

「ええ。わたしの『最期の夢』、美味しければいいのだけれど」



――― ――― ――― ―――



 目を開くのは、本当に久しぶりな気がした。 


聡子さとこさん」

 

 その声にぼんやりとした焦点を無理やりに合わせる。

 ああ、どうしてここに雄一郎ゆういちろうさんがいるの…。

 大分、老けてしまったわね。でも、それはお互い様かしら。けど、こんなしわしわになった姿で、憧れていた貴方あなたに会うのなんて恥ずかしいわね。

 後ろにいるのは…家族たちね。遺言書はもう弁護士に預けてあるから、今更集まったってなにも変わりはしないのに。

「ゆ、いちろ……さん」

「はい……」

「傘……、あり……が……とう」

 声が、かすれてうまく出ない。

 あの雨の日に、貴方が私に傘を差しだしてくれた。

 それだけだったの、それだけで、恋に落ちてしまった。わたしに傘を差しだして、貴方は雨に濡れるのも構わず走り去って行った。

 今なら、一緒に傘に入って帰りましょうと言えるけれど、あの頃はそんなこと思いつきもしなかったものね。

 それから貴方を目で追うようになった。

 貴方の好みの女の子になりたいと思った。

 心の真ん中にほわりと無垢むくなそれは、息づいた。

 結局、貴方と結ばれることなんてないと知っていたのに、思春期のあの頃にそれはいきなり開いて、私の心を侵食したのよ。

 浸食、なんて嫌な言い方よね……。でもこれは悪いものだと思わないと……やっていられなかった。

 貴方と逢わなければ、こんなに苦しいことはなかったのにと。


 ――もう私には婚約者がいて、あなたは東京に行くと決まっていたから。 


「聡子さん、お礼を言うのはこちらの方だ。私に本を送ってくれた貴女あなたがいたから、私はここまでこれたのです」

 雄一郎さんの手には、もうぼろぼろになった、私が最初に送った神話の本が握られていた。何度も読み返してくれたのかしら……?

 ええ、わたし、知っていたわ。貴方が大学の先生になったこと。 

「よか……った」

 わたしが貴方の役に立っていたのが分かって。

 息子、娘、孫、ひ孫……わたしの家族が泣いている。

 雄一郎さんを呼んでくれたのはあなたたちね。

 書机を勝手に漁ったの? いつも、わたしの書机には触らないようにと言ってあったのに。

 けど、嬉しかったからそのことは怒らないでいてあげるわ。そんな気力もない。

 そんなに泣いて、もうわたしがくのが分かっているのね。


 ――なぜ、わたしの目には涙が浮かんでいるのかしら。親に敷かれたレールの上に乗った人生は、ろくでもないものだわとずっと思っていたのに、案外そうではなかったと、今更……気づいてしまったからなの?

 本当に、今更だわ。

 ずっと、わたしの人生はわたしの家族によって潰されたと思っていたのに。

 それをおくびにも出さずに子を育てることの、どれだけ難しかったことか……。

 家族に囲まれて、こんな風に看取られることが嬉しいなんて。

 わたしの人生も……捨てたもんじゃなかったのね。

 もっと早く気付けていたら良かったのに、わたしは……年を取っても、バカねぇ。


 まぶたが、重い。


「やだ、おばあちゃん! おばあちゃん! やだあ! 目を開けてよ!!」

「母さん……! 母さん!!」

「お義母かあさん……」

「聡子さん……」

「みんな……ぁ、あり……がとうねぇ」

 目を瞑ったまま、わたしは最後に絞り出す。

 うるさいと思っていたあなたたちの声が、どうしてこんなにも悲しく響くの。大丈夫よ、先に夫のところに行くだけ。

 最期に、雄一郎さんと会わせてくれて、ありがとう。



 ……――ねえ、私獏に夢を食べてもらったのよ。

 なんだか眠そうな目をしていてね。象の鼻でも虎の足でもなかった。ふふ……。

 



 ◇ ◆ ◇


 大きなお屋敷の聡子の部屋から、大勢の家族と雄一郎の慟哭どうこくが響く。もう、彼女が目を開けることはない。閉じられた瞳からは、涙が一滴。

 一人と一匹は、それを見下ろす様に見つめている。

 

「初恋の人を死ぬ間際に連れてくるなんて、いい家族じゃねえか。人ってやつはさ~、なんで生きている内に家族の大切さに気づかないもんかねえ」

「きっと頭の中では分かってるはずだけれどね。子供たちはひねくれずに育ってるもの。人っていつの時代も、面白い」

「そういうもんかなあ。そういや、なんで自分が獏だなんて言ったんだよ、ばく。俺らは二人で一つ。ケモノと莫で獏じゃないか」

 プラプラと、彼はいつものように鼻を揺らす。その言葉に少しむっとしたように、莫と呼ばれた少女はケモノを見た。

「どうも~、私たち二人で獏なんです~って? 言ったところで、私の姿はどうやら印象が薄すぎて起きたら忘れるみたいで、どこにも獏が1人と1匹だなんて記録、残ってないじゃないの。みんな起きたらケモノのことしか覚えちゃいない。それというのも、ケモノの印象が濃すぎるのが原因かもしれないけどね。鼻が象で目がサイで尾が牛で足が虎って…盛りすぎじゃない? 最初は白豹だったくせに。そんな濃いのがいたんじゃ、私の事なんか起きたら消し飛ぶに決まってる。死ぬ前くらいいいじゃない! 誰にも私が獏だって覚えててもらえないんだから!」

「そ、そんなにカリカリするなよ……」 

 ケモノはばつが悪そうに長い鼻で頭を搔いた。 

「……それにケモノだって、喋れるのに知らん顔して鼻を振りながら夢の味見をしてたじゃない」

「ばれてたか。俺は口を出さない方が、だろ? でもま、やっぱりちゃんとした悪夢じゃない夢は、だな。俺はもっと恐怖とか嫌悪とかが乗ってる夢の方が好きだわ。適度な甘みとコクがあって。けど、最期に見る夢が、家族じゃなくて初恋の男の夢だなんて、相当にロマンチストだったなぁ」

「女の人は、何歳になっても女ってことかしらね。家族はかせだと思い込んでたたようだし、それもあるかも」


 莫はくるりと振り返って、聡子たちを見下ろす様に黒く広がる空を見上げる。

 月はどこにも見当たらなく、冴え冴えと星がまたたいているだけだ。

 今日は、新月。

 

「私はケモノと違って、悪夢より『最期の夢』の方が好きよ。だって、死に至る人間の夢は……暖かいのにどこか物悲しいものね。獏という字に悲しみを混ぜた人間たちの気持ちが、あれを食べると分かる気がするの」


 彼女たちは、また『夢』を求めて旅に出る。

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