第1話 濃霧の街
赤紫色の手を伸ばしながら言われたその時の言葉が印象的だった。
(「も、う……一度……人生を、やり直すんだ……。」)
私の目の前でその怪人は手を伸ばしている。
(「俺が……願いを叶えれば、地球で産まれてくる……皆、が……助かるんだ。」)
口から血を流しながら。
巨大な蜘蛛の巣の上を這いつくばるように私達に向かおうとする。
(「もう……俺みたいに……くるし、い思い……を、する奴が……生ま、れない……世界を…………。」)
私達を見て苦しそうに。悲しそうに黒い髑髏の仮面から涙を流している。
私はただ泣いていた。
ただ黙って涙を流していた。
私は選択を誤った。過ちを繰り返していたからだ。
私の役目は魔法使いとして人の心を守ることだ。
でも、あの怪人も人だった。
なのに私は、彼の心は守らなかった。
守らずに、殺した。
あの怪人にも人としての人生があったことを知っていて殺した。
人の命を守る為に。人の心を守る為に。
記憶を見てしまった。
怪人の正体は地球人だった。
それはまるで、人として生まれてきた事を否定されているような人生だった。
そういった不条理が正当化された世界だった。
それでも、私は彼を殺した。
彼は若かった。きっと私と同じぐらいの年齢だったのだろう。
本当ならもう一度、人としての人生を歩んでいきたい夢があった筈だった。
それなのに私は。
人の命を。人生という計り知れない時間を。
彼にしか分からない努力や苦労という一生を。
積み重ねてきた夢や希望の、その全てを奪った。
それは彼が生きていること、存在そのものを否定したということだ。
彼は人でありながら、人間として生きていたかったと、望んでいた。
たとえ身体の一部分を機械に置き換えられても。
ただ、人間としての生活を送りたかった。
ただ、それだけだったのかもしれないのに…………。
本当に、これで良かったのだろうか?
でも、せめて。
せめて今まで出会った怪人が。
地球の人達が、どんな想いを持っていたのか……。
もしも、それを知ることが出来ていたのなら…………。
きっと…………。
夜。
突如、ピリリリリと携帯電話が鳴り響く。
ストレート型の黒い携帯電話が鳴っている。
そこは魔法使いアヤ・アガペーの部屋だった。
思わずベッドから起き上がった寝間着の少女は、素早く机の上の電話を取って耳元に押し当てる。
「アヤさん!本部からの出動要請です!
現場はメルフィオナ南区!スタードロップという喫茶店の前です!」
「分かりました。すぐに向かいます。」
リモコンで照明を点ける彼女はベッドから降りてクローゼットから軍服の様な制服を取り出していく。
徐に視線を向けた壁掛け時計の時刻は0時8分。
「それで被害状況は?」
携帯を耳元に当てながら訊ねると電話越しの女性からは、
「それが……良く分かっていないんです。」と曖昧な返答が来た。
制服を収納棚の上に置いて立ち止まる彼女は訝しい気に、
「分かってないって……、どういうことですか?」と眉を顰める。
口籠った女性は「アヤさん。今、外を確認できますか?」と訊ねた。
窓に向かうアヤは「はい。」と言いながらカーテンを開ける。
するとそこには一面に真っ白い靄の様なものが一面に白く霞んでいた。
先に見える筈の住宅地の景色を遮る程に雲の様な靄が間近で浮遊している。
それは窓を開ければ手に掴めそうな程に、外は白い霧で何も見えない状態だと理解し、目を丸くする少女。
「な、何ですか?これは!?随分と深い霧ですね…………!」
狼狽える彼女に女性は「これはただの霧ではありません。異常気象です。」と答えて話を続ける。
「普段の海霧とは違い、街全体まで範囲を広げて濃霧が発生しているんです。
この霧が掛かる直前に今回の事件現場の近隣住民から、
暴動が起きていると同時に水路の水位が急速に上がってきていると通報を受けています。
目撃情報が少なく、状況は判別できていないのですが、
超常的な現象は恐らくは怪人によるものだと十分に考えられます。
なので……今は兎に角、現場まで急行して下さい。」
「了解です。」
頷いた少女は窓の外から視線を制服に移すと身支度を再開する。
片手で耳元に抑えた電話越しから女性は付け加える様に言った。
「詳しい位置情報はナビに転送しました。視界には十分に注意して下さい。」
白い霧に行先を阻まれて徐行するバイク。
霞む視界の中でヘルメットのバイザーを照らす様に投影されたヘッドアップディスプレイによる地図情報を頼りに慎重に進む。
濃霧に包まれた先に赤いランプと白いライトが射し込むと、緩やかにブレーキを掛けた。
目的地周辺には既に数台のパトカーが停まっていたからだ。
ライトの点いたバイクから降りたアヤはヘルメットを取ってキーを抜くと目の前の建物を見た。
スタードロップと掲げられた看板と、その店内から溢れた水が入口の扉から流れ出ている。
異様な光景を眺めながら白い手袋を嵌めて、バリケードテープで封鎖された現場へと入って行く。
入口を通って店内に入ると、靴底まで冠水した水が川の様に流れている様子が窺える。
そして店内では既に童話に登場する魔法使いの様な恰好をした鑑識課の人々や、
黒い軍服の様な制服を着た人々が現場検証に当たっている。
踏み込んだ彼女の水音に気が付いた1人の中年男性が、
「おお……よく来られたな?そっちは大丈夫だったか?」と歩み寄りながら訊ねる。
その男性の顔を見て「警部……。」と呼ぶと、
アヤは会釈をして「お疲れ様です。霧のせいで街の状況は分かりませんでした。」と答える。
頷く男性は「まあ、その程度なら問題はなさそうだな。」と言うと、
店内を見渡しながら「それより、これを見ろ。」と視線で促した。
「被害者こそ発見されていないが、ここまでの怪事件は俺も久しぶりだ。」
不自然に冠水した店内。外に流れていく水と食器類。
シンクの水道の蛇口からは水が出た気配はない。
しかし、乾燥した流し台やカウンターテーブルには水が飛び散った様な形跡と、
小さな水溜りが出来ている程度だった。
視認出来る限りでも状況がいまひとつ理解し難い現場だった。
男性は店内を見詰めながら話を続ける。
「見ての通りこれは水道から溢れた水じゃない。
恐らくは魔法絡みの事件と見て間違えはないのだろうが、
俺達、魔法使いでもここまで大量の水を操作出来る能力はない。
だから怪人の仕業である可能性は十分に高い。
ただ、そうなると……ここの店の従業員に容疑かかる訳だが、
近隣の住民によると、どうもそんなことをする様な人物でもないらしい。」
そう言った男性が書類とメモ帳を取り出すと、
アヤも懐からメモ帳とペンを取り出して話を聞く姿勢を取った。
「名前はハヤセ・ミズキ。年齢は31歳。
この街に来たのは1年前で、半年前に喫茶店スタードロップを営業開始。
従業員も彼女1人だけで、客に手動式のミルで珈琲豆を挽かせて、
好みに合わせてドリップするのが店の方針だそうだ。
その御蔭か、接客面で客からも評判が良く、
近隣住民との関係も良好で、愛想も良く明るい人物だという証言ばかりだ。」
必要な情報だけメモを取る中で、
アヤは「どうして……もう証言が集まっているんですか?」と疑問を投げ掛ける。
「ああ……あそこにいる人達、全員分の一致した証言だ。」
すると今度は男性が店の外に視線を送った先の人々を見ると、
そこには寝間着姿の中年の男性やカーディガンを羽織った女性の姿や、
店内を覗き込む老人の姿などと諸々に民間人の話し込んでいる姿が見受けられた。
「皆、この店の常連らしい。
あの中でこの騒ぎに気が付いて通報した人が何人かいる。
それだけここの店主が心配なんだそうだ。」
再び店内に視線を戻した中年男性は「…………とまあ、話を戻すが。」と、間を措いてから現状を伝える。
「事件発生後から直接的な被害は出ていない。
……間接的なのは、この店や街の水路と、街中に発生した霧が手掛かりというだけか……。」
「でも……通報がある前までは霧が発生していなかったんですよね?
住民からの目撃談から何か連想できる情報はなかったのですか?」
「ああ。一応ある、が……。
住民が異変に気が付いたのは23時40分頃。
外から大量に流れる水の音に気が付いたそうだ。
それから直ぐにこの霧が掛かったから不信に思って音の方まで来たら、この有り様だったそうだ。
だが、当時の店内はこれ以上に冠水した様子で、一気に水が店前の水路まで流れていく様な状況だったそうだ。
冠水した水はだいたい膝の辺りまで浸かっていたらしい。
勿論、2階の窓の鍵だって確り締まっていた。
1階以外は荒らされていた様な形跡も見つからない。
店内は明かりが付いたままで、2階に住むハヤセ・ミズキは既に不在だった。
つまり、それ以前から既に何かが起こっていたということだが、
それまでここで事件が起きた直後の時点では誰も気が付かなかったという事だ。」
「……声や物音にも気が付いた訳じゃなくて、
水の流れる音で気が付いたということですか…………。」
頷いた男性は、「そう言うことだ。」と言って窓の外に視線を向けながら話す。
「普通、魔法や怪人絡みの事件なら人の声や物音から聞こえてくるもんだが、
今回は何からの方法で水が流れてから初めて物音が聞こえてきた。
そしてこの異常気象と急激な高潮現象。
これ等を意図的な水害と考えて全区域に捜査隊が動いているが、未だ何の変動もない。
いずれにしても水路側に住居のある全区の住民には聞き込みをする必要があるが、
この事件以前にハヤセ・ミズキはどこに行ったのか……?という疑問が残る。」
話を聞いて頷くアヤは改めて辺りを見渡すが、
水が扉から流れていく店内から痕跡を探すには困難な状態だった。
思わずアヤはメモ帳を眺めながら言った。
「ハヤセさんが……どうして失踪したのか……。
この現場で手掛かりになるものが見付かるとは思えませんが………。
2階の居住スペースで何か予定や行動を記されている物さえあれば事件との関係性がはっきりするかも知れません――――」
呟く様に言った、その矢先。
店内で捜査していた魔法使いの様な恰好の男性が「ん?これは?」と声を上げた。
中年の男性は「どうしました?」と言いながら駆け寄ると、
アヤも後に続いて魔法使いの男性の元へと近寄った。
魔法使いの恰好をした男性は、
手のひらに乗せた透明な物体を不思議そうに見詰めながら2人に見せた。
「これは……何ですかね?水の中で浮き沈みしていたのですが。
結構、弾力もあってビニールの欠片とかじゃないんですよ。」
中年の男性は「ちょっと、失礼。」と言ってその物体を手に取った。
するとその鶏の卵ほどの大きさの扇形の透明な物体は明かりに照らされて、
青く綺麗に輝くと思わず中年男性は「店に飾っていた雑貨の破片か?」と呟く。
そしてアヤに渡しながら「何だか分かるか?」と訊ねると、
受け取って摘まんだアヤは店内の明かりで透かしながら青く美しい物体を眺めた。
ぐにぐにとしたゴムやシリコンの様な弾力を確かめる様に摘みながら眺める。
まるで海岸で綺麗な貝殻でも拾ったかのように眺めていると、
扇の要に当たる部分に細かい罅の様な亀裂が入っていることに気が付いた。
その罅の間に赤黒く固まったような何かを垣間見て、思わず白い手袋を嵌めた指先で触れる。
すると中から押し潰れたかの様に液体が溢れ出した。
「…………ぅわっ……!?」
ドロドロと溶けたような赤黒い塊から流れてくるものを見て咄嗟に指を放す。
錆びの様に赤茶色く滲んだ指先と、
綺麗に透き通っていた青い物体が内部で赤黒く染まっていく様子を見てアヤは言った。
「これは…………まさか……、血……?」
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