第10話 溢れ出す情動
怪人の超人的な身体能力によって空に浮かぶ蜘蛛の巣よりも高く飛んだ2人。
景色が移り変わったと同時に蜘蛛の巣の上へと落下し、勢い良く叩き付けるかのように着地した。
糸で造られた亀甲金網の様な足場はガリガリと罅割れた音を立てる。
「――――っぅうう!?」
その着地と同時に身体に走った衝撃が怪人の傷口から更に出血を促進させる。
「ぁぁああ!!!!」
体中を血塗れにした怪人は悲痛な声を上げて、
そのまま倒れ込むと同時に重りであった2人を放り投げる。
「うわぁあっ……!?」
声を上げてカズラの身体を抱きしめながら固まった巣の上で勢い良く転がっていく彼方。
「カズラ君!大丈夫か!?」
慌てて起き上がり、すぐさま問い掛ける。
「げほ……、げぇえっ……!」
口から血を吐き出して「うん……、大丈夫…………。」と咳き込んだ様子を見せるカズラ。
カズラの口から血を流して頬に青く痣が出来ている。
「カズラ君……!」
鼻と口から流れた血は固まりつつあり、
赤黒い血に染まった顔を見て全く大丈夫ではないことを理解する。
「っ……!どうして……!どうして!こんなになるまで……!」
茄子の様に青黒く鬱血して腫れ上がった頬に触れると、
思い立った様にポケットから手拭い出して彼の顔を丁寧に拭く。
バイクのホイールデザインがプリントされた紺色の手拭いが赤茶色に汚れると、
カズラは声を震わせて声で目元に涙を溜めながら真っ直ぐに言った。
「だって……、だってっ!僕たちは怪人のことなんて何も知らないから……!
何も知らないのに……このまま、街の皆が殺されるのは嫌だったから。
僕の父さんが殺されたみたいに……誰かが殺されたらきっと、
また誰かが悲しい思いをしながら生きていかないといけないから……!
誰だってっ……!!!!
ずっと悲しい思いをしながら生きていくことなんて、出来ないから……!!!」
懸命に訴えかけるカズラの涙に彼方はふと脳裏にとあるカチューシャをした少女が夢を語る光景が脳裏を過ぎった。
(「私もね……この物語に出てくるキリギリスみたいな生き方をしたいんだ。」)
記憶の中の少女は「アリとキリギリスとアリクイ」というタイトルの書かれた手書きの絵本を持って夢を語る。
(「テレビでも。ネットでも。よくそういう風に言っているけれど……何か可笑しいよね?
長生きする為に一生お金の為に働くなんて、絶対幸せになんて成れないよね?
だってね……、子どもの私達にでも……そんな筈はないって、分かるんだもん。
だから私……長生きなんてしなくていいから、自分の意思で自由に生きていける人になりたい。
そしてこの世界は間違っているから、せめて私達みたいに何も知らない子ども達に何が正しくて、
どうすれば良いのかを教えてあげられる先生みたいな人になりたい……!」)
カズラというその少年と接する度に過るいつかの記憶。
この久遠彼方という少年はその少女の夢に幻想を抱いていた。
地球という破綻した世界にいたにも関わらず、異常なまでに狂った思想と理念で行動し続けていた。
理想を語るカチューシャの少女と、目の前で両親や街の人々のために傷を付ながら涙を流すカズラの姿を重ねた。
思わず彼方は相槌を打つように声を震わせて言った。
「…………皆を悲しませない為に……。
君は……それを皆に知らせたかったから一人で頑張っていたのか。」
しかし、その少女の存在は遠い日の記憶に過ぎない。
ふと呼び覚まされる記憶に彼方は目頭が熱くなり、瞳を潤ませるとカズラは頷きながら再び訴えかける。
「だから……!ぼくぁ……、僕は……!それを知っているから……!
怪人を、止めなきゃ…って……、思った……!
でも………、でもぉ……!
結局、どうして良いのか…!分からなくなって……っ!
殴られて、痛くて……苦しくなったら、もう何も、考えられなくなって……。
段々、頭が真っ白になったら、っぅ……何も言い返せなくなった……!」
血を唇に吐きながら涙を流して懸命に訴え掛けるカズラを見ると、
その言葉を聞いてふと脳裏には再びカチューシャをした幼い少女と幼い頃の彼方が絵本を眺めながら会話している情景が過ぎる。
(「この物語のキリギリスみたいに弱っているアリを助けられる人になりたいんだ。
本当の幸せを誰かに教えてあげる先生みたいな人になりたい。
だから――――私たちみたいな子供にも夢や希望を持って、自由に生きていくことが出来ることを教えてあげたいから。
楽しいことや嬉しいと思えることだって、本当は自分の意思で決めて良いってことを知ってもらいたい!
楽しいことや嬉しいと思えることを。
本当は自分の意思で自由に生きていられることを沢山教えてあげられる人になりたいんだ。」)
夢を語り、優しい微笑みを浮かべて少女の言葉。
その夢に共感し、その夢を追う事で情熱を燃やし続けた彼の頭の中で響き渡る。
夢は所詮、幻想に過ぎない。遠い昔の過ぎ去った瞬間のことなのだ。
しかし、今でもまだその心の奥に秘めた想いは彼の胸の内に息衝いている。
「で、も………!」
それを目の前の幼い子供が呼び覚ますからだ。
「嫌だって気持ちも……!
苦しくて、痛くて、どうすれば良いのか分からなくなるのも……!
僕にしか分からないことだから!」
無様に傷を作って血を流し、惨めに鼻水を垂らして泣きべそをかいても、
その心そのものが貴いものなのだと彼の想いを奮い立たせるのだ。
「皆には……!こんな思いをさせちゃいけないって分かったから……!
だからぁっ………!
怪人が間違っていることを伝えなくちゃいけないんだっ!
このまま皆が、怪人の言い成りになるぐらいなら……ぼくがぁっ………。
ぼ、くがっ………!」
見苦しい光景だった。
例えば弱肉強食の椅子取りゲームの世界があったとして、立場の強い大人が数え切れないほど世に蔓延る中で、
弱く邪魔にしかならない子どもが産まれるのなら死んだ方が幸せだろう。
無駄に苦しい人生を歩ませて、居場所のない子ども達を襤褸雑巾の様に使い捨て去っていく世界があるのならば、
子どもなど産まれること自体が悲劇であろう。
世の中は資本と物質が全てだと主張する人間がいたとして。
大人の住む世界だけが便利で豊かになり、泣き叫び絶望するだけの力のない子供が死んでいくのならば、
人間の世界に心などという喜びや悲しみという感情さえも必要ないのだろう。
きっとそこには偽りの笑顔だけあれば良いのだ。
何故ならば、自由と平等を掲げておきながら、
弱肉強食という摂理を適者生存という矛盾だらけの都合の良い言葉に置き換えておけば誰もが騙されたまま、
意味も無く生きているだけで幸福であると主張するのだから。
記憶の中で蘇る少女の記憶が、目の前で想いを伝えようとするカズラの姿と重なった。
彼は目の前で涙を流す幼い少年とあの日の少女の姿をどうしようもなく重ねてしまうのだ。
「君も……、皆が正しくいられるように……1人で。」
脳裏をよぎる記憶に彼方は声を震わせながらそう呟いた。
今、目の前にいる者は記憶の中の少女ではなく、
異世界スフィアという地球とは異なる価値観を持った人間と接しなくてはならないからだ。
(この子はただ……、皆の心が傷をつかない様に自分を犠牲にしていたんだ。
例え自分の命さえ犠牲になったとしても……、苦しみや悲しみを次の誰かに知ってもらうために……。
地球ではそうやって当たり前のことを言葉にすれば、怒られるし、馬鹿にされたりする。
だから誰も、本当のことは人前で口にはしない……。
自分の身を守る為にお互いを監視し合って、黙って従っていればいい…………。
何事もない顔をしていればそれで幸せに生きていられるんだから……!)
思わず歯を食いしばって感情を抑え込もうとする彼方。
これまでの行動を振り返り、過去の幻想に囚われ続ける彼方が漸く直面した現実は、
目の前で小さな子どもが痣と血塗れの身体で暴力という痛みと恐怖で震わせている。
自己犠牲が如何に無意味であるか。その少年が自身よりも先に体現させていた。
「だからってぇ……!そこまでして!1人で頑張る必要なんてないよ!
君みたいに本当のことを素直に言える人から犠牲になって、
正しいことを出来る人がいなくなれば、この世界だって……っ!
……この、世界も…………。」
この世界も同じ様な顛末を迎えてしまう。
残念ながら人の幸福を願っていたところで、人間には心がある以上暴力によって簡単に支配することさえできる。
神経は正直に痛みという危険信号を脳に送り認識させるからだ。
人の心を守るという価値観に囚われた彼等であろうとも、
張りぼての扇動者さえ立っていれば多少の善悪を問わず人々は安息を求め、思考を停止させる様に。
耐え難い痛みと苦しみを善し悪し問わずして逃れようとする。
それは心を安心させる為だと主張すれば、
人が人を犠牲にすることでさえも社会的規範と成り得る。
それが法による秩序は崩壊し、尊厳の欠如による社会的排除であったとしても、
自分さえ傷付けられなければ問題ないという非常識が常識として掏り変わる。
(この世界も……同じなんだ……。
でも、それは……この世界の人達が命よりも心が大切だと分かっているからだ……。
だから…………違う……!一緒なんかじゃない……!
……だから…………!俺は……!
俺には……、もう……!)
眉間に皺を寄せ、瞳を閉じる久遠彼方。
この男が生まれ育った地球の様に、
人間という価値が物質として成り代わった世界に果たして何が残るというのか?
「…………この世界には……っ!
君のような人が――――必要なんだから……!
だから駄目だよぉお!自分を犠牲にしたら!」
それでも言葉の力で自分の意思を貫こうとしたその子の身体をそっと抱き締めた。
(必要なんだ……!絶対に……!
俺には出来なかったことを……!
正しいことをしてくれる人が!
……必要だったんだ!
人が生きることに意味を……!希望を持ち続けられる人が……!
必要だった……、のに……。)
人々の生死は無駄でどうしようもない。
人々が変えられないのではなく、
人々が変えようとしなかった現実に目元を涙で滲ませる彼方は目を強く閉じた。
(生きることの意味なんて……、地球では考えるだけ無駄なことなのは俺だって分かっていた……。
皆、自分のことで精一杯なのは……知っていた、のに……。)
伴に震わせる身体を誤魔化すかのように強くその小さな肩を抱き締める彼方。
どれだけ虚勢を張ろうとも身体は正直な反応を示すものだ。
「……っ……ぅ…………。」
頬に一筋の涙を伝わせる彼方。
(なのに俺には……、何も……出来ない。
何をどうして良いのかさえ……分からないまま……、
今もこうして生き永らえているだけで……生きる為だけに生きている……。)
こんなにも簡単に植え付ける恐怖に支配されるのならば、
もはや心など必要ないだろう。それが障害となり、人生が狂うだけだ。
ましてや地球の人間ならばこの程度で悲しめるのなら毎日が大変だ。
きっと口を揃えて言うのだろう。無責任だからこそ彼等は言えるのだ。
「1人で頑張っても……どうしようもないことだって、あるんだっ……!」
言葉を言いきる直前に彼の脳裏には地球で嬲られている光景が目に浮かぶと、
その鋼鉄の様な躰に首ごと持ち上げられた恐怖を思い返した。
それでも地球人である筈の彼が涙を流して惨めに同情する。
(だけど……この子の言う通り、自分さえ生きていられれば幸せになれる人間なんて誰もいない……。
それが地球で生きる為に必要の無い考え方であっても……ここは地球じゃない。
この世界の人達はそれを知っているから、
人の心を守る為に、自分を犠牲にしているだけなんだ……。
俺はただ……人の為になるとばかり思って行動していただけで……!
生きているだけじゃ……幸せになれない……。
寧ろ……、ただ意味の無く生きていることの方がよっぽど……っ!)
彼等の価値観に関する観点を突き詰める直前で、彼は考えることを止めた。
正確には止めたのではなく、目を背けて現状から逃避した。
そして彼は抱き締めるカズラの頭を片手でぐしゃぐしゃに撫で回す。
まるで自分とその小さな子供が半身であるかの様に。
或いはそうすることで自分を慰めるかの様に。
何かが狂っている彼は頬に涙を伝いながら涙声で言う。
「でも君はぁっ……!それでも君は、間違ってなんかないよぉっ!
だって君はただ、正しいことをしようとしただけなんだから……!」
情けない声で、何とも陳腐で浅はかな台詞だった。
よもや同じ様な人間が同じ様に生きて死ぬだけの世界だというのに。
何を今更そんなことを。
自身の言動に何ら疑問を抱かない彼はそっとカズラの両肩に手を置いて、
漸く顔を見合わせると声を震わせながら涙目で言った。
「だから、良いんだよ!もう1人で頑張るなよぉお!
君はずっと独りで正しいことをやっていただけなんだから……!
カズラ君がやっていることは全然間違ってなんかいないんだよぉおっ!」
上擦った声で彼方はその小さな頭を弱弱しく撫でて泣きながら声を震わせて言った。
(ルルさんの言った通りなんだ……。
この世界の人達は優しいから平和に生きていられるんじゃない。
心が命そのものだから、傷付かない様に……。
生きていることが苦しくならない様に……ただ守っているだけなんだ。
人の心を守る為に支え合いながら生きている人達の世界なんだ……!)
誰が為に。
彼ら異世界人は命ではなく瞬間を生きているのだ。
時計が針を刻み、万物が流転する中で。
その刻、一刻に生きている時間の中にこそ価値があるのだと。
その生きる瞬間に喜びを分かち合う、人の心が貴いものなのだと。
「……大事な人達を傷付けられて。何もかも否定されて。
悲しくて、痛くて、辛いのに……、
どうすることも出来ないのは……そんなの誰だって悔しいよ!
それなのに君は、最後まで諦めずに頑張ったんだ……!
カズラ君は、最後まで正しく生きていようとたんだよぉ……!
だからぁっ……、皆の為にありがとう……!」
カズラは鼻水を啜りながら「う、ん……!」と返事をする。
だが、虚しいことに地球人にとって誰が為の価値観は無に等しい。
加えて尊いなどという言語は空虚な言葉として玩具の様に扱われている。
死ねば終わり。生き永らえることが全てだ。
そう主張する地球人にとっては無意味で無価値なものだ。
命に永遠を求める地球人にとって考えられない様な価値観だ。
資本が。物質が全てだ。
そう理解していても尚、彼方はその子の勇気が心の為にあるのだと改めて知る。
頬に涙を伝い、その生き様に敬意を。その行動に感謝の言葉を送った。
「ありがとう!皆の心を守ってくれて!」
彼方もまた、恐怖で声や身体が震えていたのだ。
啜り泣きながらカズラは「う、ん!」と声を震わせる。
「もうこれ以上……!君が傷付く必要なんてないんだよ……!
この街の人達の力で!あいつを絶対に止めるんだ!
だって……この世界は、心があるから生きていられる場所なんだから!!!!」
労いと感謝の言葉を掛けられたカズラは身体を震わせる。
「うん……!」
静かに涙声を上げると、次第に彼方の上着に皺が出来るほど強く掴んだ。
「……くっ…ぅぅ…………ぅぅぅう……ぁぁっ……。」
胸の中で静か咽び泣くカズラ。
「ぅあぁぁああああ……!ぁあああっ、……あぁぁああ……っ!」
実に下らない茶番だ。心が無くとも人は生きることぐらいならば誰にでも出来る。
地球人にとってこれは見るに堪えないお遊戯会だった。
強い対戦相手と戦わずに強く成れる格闘家がいるだろうか?
専門の熟練者から経験を学習せずに洗練された技術を習得できるのだろうか?
世の中は常に時間に追われているのだ。
傷付かず、苦しまずに成長できる超人的で特別な人間はいない。
生まれた頃から恵まれた環境を整えられ、
努力に対する学習意欲という時間を与えられた不自由ない人間が天才だと勘違いをされてしまうだけのよくある話である。
実のところは他者の経験を自分の学習能力に取り込んでいる等とは気に掛けることもなく。
人々は見えない過程の中で努力を実力だと錯覚しているに過ぎない環境に依存した生き物なのだ。
所詮は綺麗事である。1人で抱え込まなくて良いなど正気の沙汰ではないのだ。
徹底的に厳しい環境で成長させ、自由という時間を労働で奪い、疲労した心身が思考を停止させる。
意味の無い生への執着心を向上させ、
限られた時間の中、死ぬまで働く従順な奴隷として育て上げなくてはならない。
地球人にとってそれが大人の社会なのだ。
社会を知らない子供に対し、生きることに意味を見出すなどとは馬鹿げている。
社会人という名の社会の奉仕者として、生き甲斐などという世迷い言には即座に嘲笑い、
不自由ない生活に私腹を肥やし、思考を停止していれば幸せなのだ。
人間の社会に心など必要ない。
何故なら狡猾な嘘と偽りで満ち溢れた世の欺瞞で成り立っているのだから。
子供の大きな泣き声が響き渡る空の上。
「はぁ……はぁ……。」
風穴の空いた左胸に手を当てて、息の上がった蜘蛛怪人。
「……はぁっ…………。」
溜息交じりに手から伸びた糸を引き千切り、
口から血を流しながら2人に向かってふらふらと歩み寄る。
固まった糸の上。
糸と糸の重なり合った部位は数十センチの数珠玉状になっており、
螺旋状になった足場は人が走り回る程度に固められていた。
ふらついた足取りで蜘蛛の怪人が、
サクサクサクッと草をかき分けたような音を立てる。
「……ぁっ!」
その音に警戒した彼方はカズラの肩を支えながら呼び掛ける。
「カズラ君は逃げるんだ……!出来るだけ!遠くまで!」
涙ぐむカズラは彼方の後ろを下がっていくと、
2人は漸く視界に入ってきた辺りの景色と状況を確認した。
足元には精巧な六角形の網目状に形成された蜘蛛の糸が張り巡らされ、
遠くに見える建物の屋上と壁や窓に糸が伝っている。
逃げ場など何処にもないのだ。
静かに立ち上がる彼方は踏板のない糸の上の感触を踏み締めて、
ザクッザクッと音を鳴らすと5cmから10cm程の疎らに出来上がった網目の奥からは市街地が垣間見た。
真っ先に真下を確認すると噴水広場では魔法使い一同が各隊に分かれて散り散りと成っている。
「と、兎に角……離れるんだ!」
動揺しながらも再びカズラに指示を送る彼方。
「うん……!」
頷いて引き下がるカズラを見やる直後、
ふらついた足取りで向かってくる怪人を見据えた。
怪人が苦しそうに血の流れる胸を左手で抑えながら、
ぜぇ……ぜぇ……と呼吸する姿を見て思わず拳を握り締める。
歯を食いしばって険しい表情を作りながら怪人の血を見詰める。
「……どけ。邪魔だ。」
立ち止まる怪人が開口一番に言い放った言葉に彼方は構うことなく「……許さない。」と呟いた。
「はぁ……?お前に許される必要なんかあるのかよ?
それとも自分から殺されにきたのか?」
聞き返すような脅し文句に睨みつける彼方は声を張り上げて言った。
「許さないと言ったんだぁあああっ!!!!」
彼の態度に怪人は「いいからどけって言ってんだろおぉぉおおおっ!!!!」と怒声を浴びせる。
「何だ?お前、そいつの家族でも何でもないただの赤の他人なんだろう?
魔法も使わない逃げ腰野郎の癖にしゃしゃり出やがってよぉお……!お前如きに用はねぇんだよ。
それとも何か?この世界の連中は人の死を美徳にする死にたがりばかりなのか?」
異世界スフィアの人間ではない為に首を振る彼方は静かに答えた。
「死んでもいい。
誰かが殺されるところを黙って見ているぐらいなら、後悔せずに死んだ方が幸せなんだ。
それを……!この世界の人達が教えてくれたんだっ!」
それが彼なりの決意だった。
今まで彼は遠い記憶の少女に憧れてその夢に幻想を抱いて生きてきた。
その幻想はどこまでも甘く、非現実的で、いつだって綺麗事で成り立っていた。
「……あ?何?じゃあ何だぁ?
お前等は後悔せずに自分から死ねる人間ばかりだと言いてぇのか?
とんだ幸せ者だなぁあ!!!!そんな奴いねぇえよぉおお!!!!」
可笑しそうに笑った怪人。
対して彼方は静かに目を瞑ると脇を締めて拳を顎の前に奥と、
ボクサーのようなファイティングポーズをとった。
「何だ、それは?素手で俺に勝てると思っているのか?」
勿論、彼に格闘技の経験は無く、
見様見真似のぎこちない姿勢で闘う意思表示をするためだった。
「勝つんじゃない!守るんだ!
俺があの子を守れば、この世界の人達がお前を止めてくれる!」
それはもう自分の夢や幻想の為ではない。
幼い少年の為に。心を守る為に。
彼は漸く目の前の現実に立ち向かう事を決意した。
この異世界スフィアに来て彼は心境の変化を得た。
改めて自分の夢を実現させられる人々がこの世界にはいるのだと知ったからだ。
「時間稼ぎかよ……!なら、せめて武器ぐらい持ってからやれや!」
ぎこちなく握り拳を震わせる彼を見て嘲笑った怪人は、突如、口から血を吐き出した。
「……ごっ…………ぁぁあっ……!」
身体を恐怖で震わせながら構える少年。
徐に胸元に手を添えたその痛みに堪えながらも口元の血を拭ってせせら笑う怪人。
2人は互いに虚勢を張っていた。
「じゃあ、いいわ。そんなにそのガキが大切ならそのガキの目の前で殺してやるよ!」
そう言って怪人も拳を握ると彼方に向かって迫る。
微動だにせず身構える彼にもう迷いはない。全ては心を守り、慈しむため。
命そのものが貴いのではなく、人の心が貴いからこそ守らなくてはならない。
とうとう眼前に駆け付けてきた怪人は頬に向かって右の拳を振るうと、
彼方は構えた手で防ぐことが出来ずに「ぐがっ……!」と悲鳴を上げて仰け反る。
「……っ…ぅ……、ぅ、うああぁぁあっ!」
しかし、負けじと声を上げて右の拳を怪人の顔面に向かって殴りつけた彼方。
(また後悔をして死ぬぐらいなら……、戦って死んでやる……っ!)
だが、怪人は仰け反ることなく、鉄のように堅い骨格のような仮面に防がれて、彼方はそのまま殴り返される。
「っぁ……くぅ…………!」
唾が口元から飛び散ると、彼の鼻と口元から血が伝った。
(誰かが苦しむところを、見ているぐらいなら……!)
心の中で自分に言い聞かせる彼方は「うああぁあっ!」と無理に振り絞った声を上げて、怪人の膝を蹴って、左の拳で腹を殴る。
案の定、蜘蛛の怪人の鎧のような赤紫色の甲殻や皮膚は彼方の打撃を弾くだけではなく、拳の皮膚を破って傷を与える。
出血する彼方の拳を見た怪人は「おいおい……。」と呆れた声で笑いながら言った。
「どうした?良いのは威勢だけか……!
そんなんでよく……死んでもいいだなんてよく言ったもんだよ!」
そう言い放ちながら腕を振り上げて頬を右の拳で殴りつける。
「ぶっ…………っぁあ……!」
無様に鼻血を流し、殴られながらも彼は足を踏み締める。
「……ぅぅ……っ!」
倒れぬようにと仰け反る身体を踏み止めて怪人を睨む彼は再び声を張り上げて拳を振るう。
「……ぅううぉあああああっ!」
怪人の顔面や胸部や腹部を出鱈目に殴り付ける彼方は躍起になった様子で怪人の両肩に掴み掛かった。
「っぅぅ!」
血濡れの両肩を強く掴む彼方は自身の頭を後方に揺らして勢いを付ける。
「ぅわああぁぁあああっ!!!!」
重心を後ろへと傾けたまま、怪人の両肩を思いっきり引き寄せると、そのまま骸骨のような頭部に額を打ち付けた。
「ぅおあっ……!?」
すると怪人は「っ……がぁっ……!?」と仰け反り、怯んだ様子を見せた。
「あああぁああっ!!!!」
彼方は「うわああぁあああっ!!!!」と獣のように唸って、
再び両肩を掴みながら何度も何度も頭を骸骨の頭に向かって打ち付ける。
「いっ……!っぁあ……!ふざ……けんな!この野郎っ!!!!」
痛みに声を漏らす怪人は思わず両手で彼方の頭を掴むと、
左手で髪の毛を掴み上げながら「……調子こいてんじゃねぇえぞ!!?」と声を震わせて右手に拳骨を作った。
「ぅらぁあああっ!!!」
怒声を上げながらそれを胸部や腹部に何度も殴り付ける。
「ぅっ……!ぅぅう……!」
服ごと胸を裂かれて、腹を押し潰される彼方。
「ぅぁあああっ!!!!ぁぁああああっ!!!!」
情けなく、呆気ない悲鳴をあげながら青黒い痣を作る。
「このぉっ!ふざけやがってぇええっ!!!!」
怪人はそこを集中的に狙って殴り続けると、皮膚は簡単に破けて赤黒い血肉が抉れる。
「ぅううっ……!……っぅぅううううっ!!!!」
血飛沫が散って苦悶によって漏れる声を抑え込むように目をぎゅっと瞑り、顔全体を皺くちゃにして堪える彼方。
「……っぅう!」
しかし、髪を掴まれようとも必死に怪人の両肩にしがみ付く彼方。
「ぅぁあああ!!!!」
口から血反吐を吐きながらも再び勢いをつけて頭突きを繰り出す。
「あぁあああっ!!!!」
頭を打ち付けて怪人が揺れ動く度に何度も何度も頭部へと執拗な攻撃する彼方に対し、
掴んだ手で衝撃を阻む怪人は深く息を吸い込むと大声を上げる。
「いい加減にしろやぁあっ!!!!」
ギリギリと音が鳴るほどに右手を握り締めると、彼方の頭を掴みながら腰を捻り、腕を振るった。
「おらあぁあああっ!!!!」
怒りに身を任せて右の拳に体重を掛けながら腹部を殴り付けると、
彼方は「…………がはぁっ……!」と口から血を吹き上げて後方へと頭から倒れ込んだ。
「お兄ちゃん……!?」
ザクリと糸が音を鳴らして頭を打ってからものの数秒。
彼の瞳孔は未だ開いたままだった。
「お兄ちゃん……!」
その様子を後ろで見ていたカズラは、目を見開いて慌てて声を上げると彼方に向かって駆け出した。
「お兄ちゃん!確りして!!!!」
大袈裟なぐらいに動揺するカズラ。
見るからにあまりにも不気味だったからだった。
口元から流れる血に対してピクリとも微動しない。
無表情で瞬きをしない不気味なそのさまは正に人形のそのものだった。
「お兄ちゃんっ!!!!」
怪人を目の前にして尚、意識を戻す様子のない彼の身体は動くことはなかった。
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