ぼくはだれ?

renovo

家族

 朝、目覚めた。一体自分は誰なのかわからなくなり、立ち上がると眩暈を感じる。カーテンから射し込む日差しはまだ青かった。ぼんやりとした目をこすりながら洗面台まで向かう。

 高校三年生の秋。部活動を引退し、受験期だった。僕はふいに参考書を眺めて、嫌な気分になる。昔から勉強が嫌いだった。

 それでも、参考書を見るたびに勉強しなければという強迫観念に駆られて、ページを開く。

 顔を洗い終わり、僕は英単語の勉強を始めた。

 Abacus。そろばん。Abandon。捨てる。

 そんな英単語をノートに綴る。勉強は嫌いだったが、クラスの中で成績は一番だ。それもこの強迫観念のせいかもしれない。

 しばらく勉強していると母親が隣の部屋から起きてくる音が聞こえる。

「おはよう。朝、早いね」

 母親はいつも早く起きる。朝から夕方まで母親は派遣社員として働いていた。

「おはよう。お母さん」

 僕が生まれる前に父親は自殺した。だから僕は父親の顔を写真でしか知らない。

 母親と二人だけで暮らしていた。いつも小さい頃から寂しい思いをしていたなと僕は思う。

「勉強ちゃんとしなさいよ」

 母親は僕に言い聞かせる。

「わかってるよ」

 僕は無意識にそう返答する。いつからだろう。僕は大人になるにつれて様々なことを意識し始めた。

 そして周りの同級生とは少し違うという違和感を抱えていた。

 僕が勉強している間、母親は朝ごはんを作っている。僕はひたすら英単語をノートに書き綴っていく。

「ねえ、優斗にはお父さんのこと話したかしら?」

「いろいろ聞いたよ」

「お母さんと付き合ってたころね、お父さんはずっと暗い人だった。他人をずっと避けているみたいだったの」

「へえー」

「それでお母さんが話しかけても初めの頃はずっと遠ざけていたの」

「それで?」

「仲良くなるまでずいぶん長かった。大学生の頃ね。たまたま、実験パートナーになって、話すようになって」

 母親は曖昧に言葉を紡ぎだす。

「それで、どうしたの?」

 僕は続きが知りたかった。

「ある日、突然お父さんが明るくなったの。結婚して数か月の頃だった。それでお母さんは嬉しくなったの」

「へえー」

「それでね、ちょうど優斗を妊娠したってわかった時、お父さんが自殺したの。電車に飛び込んだのよ」

「なるほど」

 僕はそう言った。僕はその話を聞いて何か感じるものがあった。それは共感だったのだ。

「お母さんは悲しい思いをしたね」

 僕は薄っぺらな感情でそう言った。

「本当に悲しいのよ。今でも忘れられないわ」

 母親はそう言って泣き崩れた。僕はただ茫然とそんな様子を早朝に見ていた。

「お母さん。大丈夫?」

 僕はそう言って母親の元に駆け寄る。背中をそっとさする。僕は人に触れるのが怖くて仕方がない。

「大丈夫よ」

 母親は泣きながら返事をする。キッチンへ戻り、フライパンで目玉焼きを焼いていた。僕はなんだか暗い気持ちでそんな様子を眺めていた。いつも他人の感情を目にするたびに恐怖にかられる。昔からずっとそうだった。

 朝食が出来上がった頃、僕は母親と一緒に朝ごはんを食べる。いったいどんな気持ちで僕を育てたのだろう。


「成績いいみたいね」

 小さい頃、嫌いだった勉強をがむしゃらにやっては母親に見せた。母親が嬉しそうにしているのに、僕はどうしてか不安だった。

 中学生の頃にはテニスの大会で都大会まで行った。母親はやはり喜んで、僕のことを自慢げに他の僕の友達の母親に語っていたらしい。

 僕は嬉しいはずなのに、やっぱりなぜだか怖かった。同級生は僕のことをどう思っていたのだろう。

 中学生の頃に初めて女子と付き合った。

「優斗君ってなんだか大人びてるね」

 当時初めて付き合った女子の先輩が僕にそう言った。

「俺はお前のことを欺いているんだよ。こんな俺を許してくれ。俺には何の感情も沸かないんだ」

 その日、疲れていたせいか、すごく贅沢な悩みを彼女に言った。それで彼女に好きじゃないことをずっと伝えられずにいた。

 恋を知らなかった。それでもあの頃は誰かを愛する意味ならわかる気がした。

「そんなことないよ」

 彼女は僕のことなんか見ずにそう言った。

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