身代わりのヒーロー
僕は、女性の顔を正視できません。
何故なら、モヤがかかっているからです。
モヤというのは、ガムシロップのような透明な粘ついた液体みたいなもので、それが女性の顔にまとわりついて見えるのです。
モヤは、僕の性欲を具現化したものだと僕は認識しています。
僕は、女性を性欲の対象としか見れていないのだ。そう思うとたちまち嫌悪感が襲ってきて、布団の中でガクガクと震え、「死にたい死にたい」と泣き疲れて眠るまで唱え続けるのです。
顔を見れないのですから、当然うまく喋ることも出来ません。一言発する度にどんな風に思われているのか気になっておちおち軽口も叩けません。それでも社会に出れば、嫌でも女性と話さなければいけないのです。その時は、敬語を使います。事務的な対応をする事で、幾分か気持ちはましになります。
そんな僕でも、好きな人がいます。これは仕方がないのです。何度も、胸の高鳴りを血液がドロドロの病気だと否定したのですが、もう観念しました。
僕は真由華さんの事が好きなのです。
真由華さんは、会社の同僚で、いつも明るい声ではきはきと喋ります。こんな汚い僕にも優しく挨拶をしてくれます。だけど、僕はちゃんと挨拶を返したことがありません。言葉が喉に引っかかって出てこないのです。やっとの思いで外に出たときは、よくて最後の一文字です。例えば、「おはようございます」だったら「…す」といった感じです。
それでも、真由華さんはニコニコと笑ってくれます。いや、そんな雰囲気をひしひしと感じるのです。顔を正視出来ないのですから雰囲気のみです。もしも、真由華さんの顔にモヤがかかっているのを見てしまったら、僕は自分に絶望し、会社の屋上から身を投げてしまうでしょう。
真由華さんとそう言う関係になるというのを僕は望んでいないからです。ただ、手を繋いで上野公園辺りを歩きたいとかそんな漠然とした憧れや願望はあります。そのような妄想をする度に、赤くなる顔を手で覆って、ああ、なんて気持ち悪いのだろうとひとり低く唸ります。
でも、それは叶わない夢なのです。
真由華さんには松尾さんという恋人がいるからです。松尾さんは大学生です。バイトで真由華さんの雑務をこなしています。バイトとは思えないほど仕事が出来るし、なによりさわやかなイケメンで真由華さんとはとてもお似合いです。
僕はそれでもいいと思っています。真由華さんが幸せならそれで僕は嬉しい。
そう、この想いはずっと秘めておくべきなのです。心の奥の奥、厳重な警備と幾重の鍵を施した箱の中にしまっておくべきなのです。
この身体では尚更なのです。
多分、昨日のことです。僕は手が空いていた松尾さんを連れて外回りから帰っている時でした。
松尾さんは太くたくましい腕でハンドルを握り、照れながら真由華さんの話をしていました。僕が根ほり葉ほり聞きだしていたのです。松尾さんの話を聞いてると、真由華さんの楽しそうな顔が頭に浮かびます。僕はそれが嬉しくて時々、彼をいじるふりをして甘美な一時を味わっていたのです。
夜中の工業地帯、人も、後続車もいないただ広い道で信号待ちをしている時です。
突然、目の前に黒いマントをたなびかせた白衣の老人が立っていました。
ヘッドライトに照らされた老人はニヤリと口の端を吊りあげて、「はあっ」と吸い込み口のない掃除機のような機械を振りかざしました。
まばゆい光が辺りを包み、思わず目をつぶり、ゆっくりと目を開けると、今度は紫色の光が眼球を刺激しました。
「よく眠れたかね」
頭の中で響くその声は、低く笑いました。
「こ、ここは・・・」
「ようこそ、ヘルバイト日本支部へ」
大袈裟な抑揚を付けて声はそう言います。ヘルバイトというのは聞き覚えがあります。世界規模でテロ活動を行う組織の名前です。厄介なのはそのテロに政治的意図はなくただ破壊を目的としている所だとウィキペディアに書いてありました。
紫の光を照射するロボットアームが僕の体をなぞるように動きました。僕はペンライトに反応するペンギンのように光を目で追い、悲鳴を上げました。
僕の身体が異形な物体に変形していたのです。
皮膚は鉛色に鈍く光る金属のように硬く、関節に透き間が開いてそこから、蠢く糸ミミズのような筋肉組織が垣間見えています。
これはヤバい逃げようと思いましたけど、僕は手術台のような所に大の字で寝かされていて手足は硬く固定されていました。
「ふははははは、無理なことを、この拘束装置の頑丈さはダイヤモンドの硬度の100倍はあるのだ」
「な、なんでこんな」
「諦めたまえ、君は最強のテロ人間に改造されるのだ」
「い、いやだー」
「情けないぞ、その愚かで脆弱な心も改造してやる、松尾
竜二!!」
どうやら、松尾さんに間違えられたようです。僕は自分の名前を叫びました。声の笑いが止み、小さく「え、マジ」と言いました。
「お、おまえはIQ500で運動神経抜群の松尾竜二ではないのか、ええい、どうなってる!!」
それは、こっちが聞きたいです。間違えられてテロ人間という怪物に改造されてしまったというエピソードは駄目な僕にはちょうどいいのかもしれません。
「俺が松尾竜二だ!」
ドアを蹴破り、松尾さんが手術室に飛び込んできました。彼の姿を見て、僕は呆然としました。
松尾さんも改造されていたのです。身体は太くとげとげしい毛に覆われ、手は鳥の足のようです。
松尾さんは、手術台横にあるパソコンを操作して、拘束装置を解除してくれました。
「さあ、逃げましょう」
がたがたと震える僕を起こしながら松尾さんは言いました。
「そうはさせんぞ!」
頭の中の声、いや、その声は、現実的に鼓膜を揺らしました。
そこには、黒い全身タイツの男をひきつれた、黒マントの老人がいました。
老人があの掃除機の出来損ないみたいな装置を振りかざすと松尾さんは悲鳴を上げ頭を押さえ床を転げ回りました。
「なんだ、なぜあいつには効かない!」
老人は苛立った声で部下に聞きました。
「まだ、キンコジ装置の内蔵手術をしておりませんで・・・」
苛立ちをにじませた老人は腰に差したホルスターからくねくねと曲がったいびつな拳銃を抜き、部下の眉間を撃ち抜きました。
「なにをしているんですか、逃げて下さい」
苦悶の表情で松尾さんが僕に言いました。
「で、でも」
「逃げろ!」
いつもと流れる風景が違いました。どうやら、改造され脚力が倍増しているようです。僕は一生懸命走り、ヘルバイト日本支部を脱出しました。
真由華さんを笑顔にしてくれる松尾さんを見捨てて、自分の命惜しさに逃げ出したのです。
僕は最低な人間です。
とりあえず、帰宅しました。かといって、長居は出来ません。きっと、ヘルバイトにはこのアパートも特定されているでしょう。
姿見鏡に写る自分は、昆虫の化け物以外の何者でも無く、顔だけそのままだという事がよけいに不気味です。
特撮のヒーローは元の姿に戻れるのが定石ですので、身体に力を入れたり、自分なりに変身ポーズを試みたりしたのですが、戻ることはなかったです。
これから、どうすればいいのか。僕はしばし、ベッドに寝ころび考える事にしました。
浮かぶのは真由華さんの事だけでした。真由華さんはきっと松尾さんがいなくなって悲しんでいることでしょう。二人はいつも一緒に帰っていました。どちらかが残業ならば二人で協力して頑張っている姿を僕は何度もみています。
僕は、松尾さんのことを真由華さんに伝えなければいけません。そして、出来れば、松尾さんはきっと無事だと勇気づけてあげたい。そんなことが出来るのだろうか。僕は顔もちゃんと見たことがないのに、でも、しかし、これはやらなければいけないのです。自分を犠牲にして助けていただいた松尾さんのためにも・・・
しかし、真由華さんはどこにいるのだろうか。デジタル時計の日付を確認すると今日は日曜日のようです。僕は真由華さんの家なんて知るわけがないし、電話番号なんてもってのほか。
「日曜は、一緒によみうりランドに行くんです」
拉致される前の記憶がふと蘇りました。確かに、松尾さんはそう言っていました。
僕は、コートで醜い体を覆い隠し、よみうりランドに向かいました。もちろん、小田急線で。
よみうりランドの入り口に立つワンピースを着た真由華さんを見つけました。
不安そうに、きょろきょろと辺りを見回しています。
電車に揺られながら、デートどころではないのではと冷静に考えましたが、きっと一縷の望みを信じ、待ち合わせ場所に来たのでしょう。
なにはともあれ、真由華さんはそこにいるのです。
僕は、深呼吸をしました。
事実を伝えたら、真由華さんはどんな反応をするのだろう。悲しむだろうか、泣くだろうか、怒るだろうか。悲しませたくない。でもしかし・・・
僕は、本当に駄目な奴です。死んでも誰も悲しまないような鬼畜のクソ野郎です。
僕は、その、真由華さんの感情の爆発を自分に向けられるのがたまらなかった。
真由華さんに見つからないよう、入り口の前にある露店で仮面ライダー1号のお面を買いました。
僕はコートとお面で完全な匿名性を得たのです。
僕は再び深呼吸をしてなにを言うか、なんて言えばいいのかを整理しました。
さあ、いざと覚悟を決めたとき、真由華さんの悲鳴が聞こえました。
街灯越しに見ると、真由華さんが蠅のような怪物に破戒締めにされていました。
「ブシュルルルルそこにいるのは分かっているぞ、出てこなければこの娘を殺す!」
間違いない、毛に覆われた身体鋭い三本の爪、あれは松尾さんです。しかし、もう人間だった頃の松尾さんの面影は微塵もありません。端正な顔は今や、大きな複眼を持つ蠅そのものです。
「出てこない気か、3秒まってやる」
3…
きっと、僕に言っているのでしょう。
2…
もう、真由華さんの事も分からないのか、松尾さん…
1…
「お、思い出して下さい」
僕は、震える足で踏ん張り、前に出ました。
「ブシュルル、覚悟しろ」
松尾さんは背中の羽を広げ、僕との間合い詰めました。
三本の爪を僕に向かって降り下ろします。
見える、まるで、スローモーションのように、爪の軌道が見えます。僕は襲い来る爪を手で払いのけました。
「ぶしゅぶううううう」
折れた三本の爪が地面に突き刺さりました。
ただ払いのけただけでこのパワー・・・そうか、元々、この身体はIQ500でスポーツ万能の松尾さんに施されるはずの改造だったのです。
つまり、今の松尾さんの姿は、本来は僕がなるべき姿だったのです。万能人間の松尾さんとクソ駄目人間な僕では改造のグレードが違うに決まっているのです。
「考えごととは愚かな」
背後から声が聞こえました。しまったと振り返ろうと思いましたが、それよりも先に、松尾さんの爪が僕のおなかに貫通しました。
「ぶしゅるるるるるるうううう」
松尾さんは、そのまま僕を持ち上げます。痛みが遅れてじんじんと広がっていきます。
「最強のテロ人間がこんなヘなちょことはなあ!」
そうです、僕はへなちょこです。へなちょこ以下のべなぢょごです。いくら、外身の性能が高くても、中身が僕なのです、こうなって当然なのです。ああ、視界がぼんやりとしてきました。
「やめて!」
真由華さんが松尾さんの足に縋りついていました。
「この劣等種が、どけ」
松尾さんは、容赦なく真由華さんを降り解き、尻餅をつく真由華さんの腹部に追い討ちの蹴りを入れました。真由華さんは吹っ飛び、壁に頭を打ち付けました。
真由華さんの顔が赤く、赤く染まっていきます。
赤く染まって、赤く・・・僕の中で何かが音を立てて弾けた。
「許さん・・・ゆるさんぞおおおおお!!!」
身体が真っ赤にたぎり、コートが一瞬にして灰になる。
傷口がみるみると閉じていき貫いた爪を砕く。
解放された僕は、おもいっきり松尾さんを殴った。何度も回転しながら松尾さんは宙を舞った。
「否、お前はもう松尾さんではない、真由華さんを傷つけるお前は・・・ただの邪悪なテロ人間だ!!」
僕は、落下を始めたテロ人間に向かってキックの槍を突き立てた。
「ぶしゅるぶわわわああああああああああああああ!」
松尾さん…いや、テロ人間は断末魔をあげ、爆散し果てた。
壁により掛かる真由華さんの前に、僕は立ちました。
僕は初めて真由華の顔を正面で見据えました。
お面に開いたのぞき穴から見る真由華さんは血で汚れてはいるものの、すっと通った鼻筋、流麗な瞳、とても美しいのです。そして、なによりモヤがかかっていませんでした。
「・・・真由華さん、大丈夫ですか」
すらっと、言葉が出ました。きっと、戦闘で気が大きくなっていたのでしょう。
「何故、私の名前を・・・もしや、あなたは・・・ま…」
「それ以上は、言わないで下さい」
僕は、真由華さんを制して、背を向けた。
すいません、僕はあなたが思っている人物ではありません。しかも、その人物だったモノを私は殺してしまった。
しかし、あなたがそれで希望を持てるのであれば、私は喜んで自分を殺しましょう。
そして、あなたが悲しむことを忘れたとしても、あなたに危険が及ぶなら僕は馳せ参じ、その危機を打破しましょう。
あなたが笑顔なら、僕はそれで満足なのです。
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