夜あるく
彼女は夜の住宅街が大好きで、一緒に歩く僕は誰かに怪しまれちゃいないかと内心ヒヤヒヤしていたものだ。
「ちゃんとした身なりで前を向いて歩いていれば、誰も何も思いはしないよ」
そう言って、カモフラージュにと持ってきた拍子木を叩き落として、月夜に映える素敵な笑顔で僕にキスをした。
最初に夜の街を歩いたときの思い出。
毎週水曜日、最終の電車に乗り込み、彼女の口の中で転がる飴玉が溶けて無くなったら駅に降りる。
「うむ、やっぱり、小梅ちゃんは小さかったわ、次回までに1.5倍くらい大きな飴玉を探しておかなくちゃ」
目当ての町に降りられなかったと嘆く彼女に「もう、それなら好きに行けばいいじゃない」と言うと「それじゃ、何のために飴玉が存在しているか分からなくなる」と意味の分からないことを言うのだ。
改札口を抜けると、彼女は小走りで、街灯に駆け寄り、灯に群がる蝙蝠に目を輝かせた。
「ねえ、ここって意外とレベルが高いわ、小梅ちゃんに感謝しなくちゃ」
彼女は夜を大きく吸い込んでから言った。
夜にレベルがあるというのは初耳だったけれど、辺りを見回すと、彼女の言っている事が少しだけ理解できた。
疎らな街灯は夜道を歩くには心許なく、小路を挟んで駅の向かいにある商店街のアーケードは所々、白ペンキから赤錆が顔を出していて、飾り付けられたビニール製の造花が月光に照らされ鈍く光っている。
携帯灰皿を探す僕の手を握って、彼女は商店街を指差した。
「よし、出発」
返事する間もなく、僕と彼女はアーケードを潜った。
ふっと空気が変わった。
昼間は買い物客で賑やかだったのであろう空間に、二人だけ取り残されてしまったという感覚が胸の辺りを圧迫する。
シャッターが閉まった軒並みが延々と続いている。「永遠と続いていたら嫌だな」と半分本気で言ってみたら、
「もしそうだったら、君とずっと夜を歩くことになるね、離れちゃだめだからね」
と、彼女は笑って言っていたが、僕の手を少しだけ強く握ったのを確認して、彼女も半分本気なのだなと思い、僕は彼女に小さな手の温もりにすがった。
無事に商店街を抜けると、お待ちかねの住宅街だった。
彼女の歩調が早くなり、合わせるのが大変だ。
「あ、おやすみだ…あ、起きてる」
窓から漏れる明かりを数えながら彼女はコツコツと革靴で夜の住宅街を踏み鳴らす。
コツツン、コツツン、彼女の足音がリズムをとり始めた。ああ、スキップだ。スキップをしている。
「ほら、ちゃんと前を向いて普通に歩くんでしょ」
「え、ああそうだね、そうだったね」
彼女は舌を出して、わざとらしく謝った。
もう、何回、夜の街を彼女と歩いただろうか、数えているほどマメじゃないが、夜に慣れてしまうくらい歩いたはずだ。
周囲の目を気にしなくなった。いいことか悪いことかよく分からないけれど、夜の住宅街を歩くにはいい事なのだろう。
だいぶ、心にゆとりが出来たところで、僕はずっと疑問だったことを、スキップを再開する彼女にぶつけてみた。
「ねえ、なんで夜の住宅街を歩くのが好きなの?」
「いまさら?」
「いまさら」
彼女は、住宅に挟まれた細長い夜空を見上げ、少し考えているようだった。
「うーん、住宅街ってすごいよ、だって歩いて回れるくらいの土地に数百人が集まって生活しているんだからさ、それって、数百単位の様々な人生がここで送られているのだよ、それって考えるだけですごいじゃないの」
彼女の言葉をそのままに想像を巡らせると、確かに途方も無く、深い穴に落ちていってしまうような感じになった。でも…
「でも、それなら、昼に行けばいいじゃない」
彼女は口元に持っていった指をメトロノームのように左右に振り「まだまだだな」とかっこつけて言う。
「昼は、つまらないんだよ、みんなさ、誰に見せてもいいような顔しかしないからさ、でも夜は違うよ、夜は本性の時間。みんな、人には見せたくない自分を思い切り出せる時間、いつも笑顔の好青年が溜まった怒りを解き放ち、枕を殴っている、虫も殺さないような優しい母親が夫を虫のように扱っている、強面のおっさんが少女趣味の服を着てうっとりとしている、考えるだけでゾクゾクしちゃうわ…ねえ、今現在、どんだけの人がセックスしているんだろうねえ」
笑顔の彼女に僕は同感できなかった。というか、悪趣味だなあと少しだけ引いてしまった。
それでも、彼女の笑顔は可愛かった。
「そんなもんかなあ」
と僕はふと、横の公園に目をやった。
数本の植栽でさえ、木々の間を覆う闇のおかげで樹海のように見える。
その闇の中に動く人影を見た。その影は、闇よりも濃い気がした。
テルテル坊主のような人影は、くるくると廻っている。
次第に目が慣れてきて、僕は見た。
スカートが広がるのを少女のように喜ぶ中年の男。
声を上げそうになった僕の口を彼女が押さえる。
「ただし、それに干渉してはダメだぞ」
僕らはそっと、くるくる廻る男から離れた。
彼女の足が止まったのはそれから間もない事だった。
彼女は赤い屋根のアパートを見上げ、開きっぱなしだった口を閉ざした。
しばらく、見上げると、踵を返し、「帰ろ」と呟いたのだ。
最後に彼女と夜の住宅街を歩いた思い出。
あれから数年経って、僕は違う娘と歩いている。
ただし、夜の住宅街ではなく、昼間のショッピング街を歩いている。
僕は夜には戸を閉める。
例え、熱帯夜でも、雨戸を閉める。
例え、綺麗な夜空だったとしても、決して窓辺に恋人を連れて行こうとはしない。
もし、僕が住む町の駅の少し前に飴玉が溶けて消えてしまったら、あの時の様に彼女を悲しませてしまうのかもしれないからだ。
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