ピクロコル大王
イヌヒコ
大王はなぜ死んだ?
武功絶倫、勇名轟き渡るピクロコル大王がある日のこと、立派な馬車を一台仕立てて、レルネ街道を移動中でした。セミの鳴く夏の平原の真ん中を進んで行きます。
大王は何気なく生のアンズの実を齧り、偉大なひげの中でむしゃむしゃと半分それを食べたところで、風を入れるために開け放たれている馬車の窓からポイと投げ捨てました。
大王の馬車には盲目の女占い師、カサンドラも一緒に乗っていました。カサンドラは、突然はっと美しい顔を起こして言いました。
「今、大地に何かが落ちた音」
「なんと耳のいい奴。それはわしがアンズの実を投げ捨てたのだ」
「いいえ、もっともっと大きな音ですよ。そして遥か彼方から聞こえる恐ろしい音」
「ふむ例えば何かね。雷か」
「例えば大王さまのお国が落ちたような音」
「何だと? それは大ごとだ」
ピクロコル大王は笑い飛ばしました。
「いいえ、これはきっと笑いごとでは済みますまい」
壮麗な馬車は都に向かって飛ぶように進んで行きます。
ぽつんと道端に転がったアンズの実は、夏の日に照らされながら、しだいに発酵してゆきました。
ハエが一匹それに取りつくと、まもなく酔っ払ってしまいました。ふらふらと風に流されて漂って、やがて道沿いの安料理屋の中に舞い込みました。
テーブルの上のスープ皿の中に、ポチャンと頭からハエが落っこちました。固いパンの皮を頬張る客は、それをスプーンで掬って無造作に床に捨てました。
床の上には別の客が連れていた雄ネコが寝そべっていて、運悪くそのしっぽの先に熱いスープのしずくが降りかかりました。
ネコは飛び上がって驚いて、首の毛を立てながらあたりをきょろきょろ見回しました。そしてこの料理屋で飼われている黒いむく犬の寝姿が目に付くと、ともかく今必要なのは八つ当たりだとばかりに、ウニャア! と鳴きながらその顔をひっぱたきました。
目から星が飛び出た犬は、きゃんきゃん鳴きながら店中を駆け回ります。気を良くしたネコは、図に乗ってそれを追いかけ回します。そのさまぐるぐるとトロイア城の周りを駆け巡り、ヘクトルを打ち殺さんとするアキレウスの如し。靴屋に鍛冶屋に煉瓦積み職人、客はみな、この見ものに手足を打ち鳴らして大喜びです。
むく犬の飼い主である店のあるじは、客商売にしてはかなり気の短い男でした。
「なんだこの野郎、うちのワン公に何をしやがった!」
ネコの飼い主である行商人に、かんかんになって詰め寄ります。
「見ねえ顔だが表に出やがれ! ワン公が侮辱された仇を取るんだ」
「よしよし分かった、おやじどの」
まだバッタみたいに暴れるネコを掴み上げて、皮袋に押し込めながら行商人は言いました。
「おれはいくらでも相手になってやるよ。しかし、今お前の商売を邪魔しちゃ悪いと思う。決闘は明日の夜明け、この店の前だ。ではいったんおれは出て行くが、お前、時間が経って、しまいに怖くなったからって、逃げるんじゃないぞ。いいな、男同士の約束だぞ」
「ちぇっ言いやがるよ。夜が明けてからたっぷりとお星さまを拝みたがる間抜け野郎はてめえだい!」
行商人は料理屋を出ると夜が更けるのを待って、予定よりもずっと早くにこの町を切り上げて、レルネ街道を次の町へと向かってすたこらさっさと逃げ始めました。口八丁のこの男は、もとより一文の得にもならない決闘なんか、するつもりはありませんでした。
真夜中、この地方一帯を突然のはげしい嵐が襲いました。明け方行商人は、川の底をくぐったようなずぶ濡れになって、次の町の門までたどり着きましたが、おかげで何やら悪寒がしていました。背中の売り物の荷物には、十日ほど前に初めて買い込んだ、フォントブローの森の炭焼き人が『万能薬』と呼んでいるものも入っていましたが、根っからのけちであったのと、そもそも彼自身その丸薬の効き目をぜんぜん信じていなかったということで、使う気にはなりませんでした。
やれやれこうなったのも、お前が犬なんかにケンカを売ってくれたからだぞ、とぼやきつつ、真っ青な顔色で広場の大木の下に腰を下ろしていると、ふと目の前に質素ななりをして、それでもどことなく立派な容子の男が立ち止まって、やがて話しかけてきました。自分は医者だと言い、お前さんどうも具合が悪いようだ、自分のところで休んでいきなさいと申し出てくれます。ネコくんにも食べ物をやろう。何かと疑り深い行商人でしたが、相手がネコ好きなので信用することにして、ついてゆきました。
医学博士は実際に親切な人物で、行商人は二晩博士の家の厄介になり、すっかり元気を取り戻しました。さすがのけちんぼもそこを去るにあたって、何かささやかなお礼をしたいと思いましたが、博士はそんなもの要らないと言い張ります。結局行商人は炭焼き人から仕入れたばかりの『万能薬』の一部を贈ることにしました。人格高潔な博士は、一面錬金術の心得もある人で、案外とこういう世にも怪しげな代物を喜んだのです。そうして双方が気持ちのいい取引の後で、行商人とネコはまた旅の空へと出て行きました。
博士はその偶然手に入れた、フォントブローの森で採れる薬草を練り上げた丸薬を慎重に調べてみました。するとだんだんとそれには、実際にすぐれた解毒や整腸の力が備わっているということが分かってきました。博士はすっかり取り憑かれたように、ふかく研究に没頭してゆきました。丸薬に出会って三年ののちには、いよいよフォントブローの森の奥に住み着くほどになりました。そして更に大なる努力と歳月を費やして、よりすぐれた薬草の調合法や栽培法を見つけてゆきました。
さて今や博士は大した金持ちです。しかしもとより一身の富貴を望むような人間ではなかったから、その金をなるべく広く役立てる道はないかと考えました。そして新たに貧しい人間でも無料で利用できる施療院というものをつくるために、その認可を求めて都のピクロコル大王の下へと赴きました。
・・・
大理石と黄金にきらめく謁見の大広間で、いくぶんひげに白いものが混じり始めた寛仁大度のピクロコル大王は、たいそう親しく博士に声を掛けました。
「まことにそなたのような心掛けと行いの者こそ、我が王国の宝と呼ぶにふさわしいのだ」
十二人の家来の手を経て認可状を受取った博士がうやうやしく大広間から引き下がると、大王は傍らに立って控える盲目の女占い師カサンドラに、改めて満足げにささやきました。
「どうだいあれは見事な奴だ。な?」
「確かに博士は立派なお人柄の方ですわ」
カサンドラのはかなげな美貌は、むかしからちっとも年を取っていません。
「でもそれとは別に、あの方は何やら不吉な『音』をまとっておられました。それはどうやら、むかしどこか遠いところで放たれた矢が、だんだんとこちらに向かってその距離を縮めている音ですよ」
「ああ、お前は何かといつも心配ばかりしている。哀れなものだ!」
世の尊敬を一身に集めた博士も、いよいよ老いの果てに亡くなる日がやって来ました。ところが彼の莫大な遺産を相続した一人息子というのは、その親とはまったく似ても似つかない、ぼんくらにして小悪党でした。華やかな都で遊び呆けることが我が仕事と心得ているような手合いです。彼はただ都の貴族の若い子弟たちに悪い影響を与えることにおいてのみ、天才というべき才能を有していました。彼の末路は悲惨でしたが、その時には、自分に大きな財産を残したということで、親のことを呪っていたそうです。
そんな博士の息子の毒牙にかかって堕落させられた一人に、近衛軍の百人隊長の息子である十八歳の青年がいました。彼は酒色と賭け事に溺れた挙句、友人たちからの借金ですっかり首が回らなくなってしまいました。ある夜更け、ベッドの中で怪しい物音を聞きつけた百人隊長が階下に行くと、まさに宝石箱を懐に抱えて持ち出そうとしているドラ息子の姿を発見しました。しかも取り押さえようとした父親は強か頭を殴りつけられて、以来すっかり耳の聞こえが悪くなってしまいました。しかし隊長はその職を失うことが怖いので、屋敷内での出来事も自分の耳のことも外に漏らすことはできませんでした。
ほどなくして、さる大貴族と大貴族の家の間で結婚式が執り行われることになりました。そもそも貴族というものは、それも大貴族というものは、王権にとっては自らに挑戦しがちなやっかいなものです。それでも優渥なるピクロコル大王は、その宴の警護のために、自分の近衛兵を差し向けてやることにしました。そこに呼び出されたのが、この耳の悪い百人隊長です。そしてあろうことか隊長は、ケイゴせよというのを、タイホせよと聞き違えてしまいました。贅を尽した華やかな宴会場は、一転修羅の巷と化しました。
・・・
貴族の兵と大王の兵がぶつかる内乱に突入して、決着の時が来ないまま五年が経ちました。その間たいへんな量の血が流され、多くの村や町が灰になりました。
ある春の日、王宮のテラスに出たピクロコル大王は、かつては豊かで美しかった国土を眺めやって、とりとめのない考えに耽っていました。その時城外の貴族の陣営から放たれた一本の矢が、白髪の大王の額を貫きました。続いて隣に立っていた若々しいカサンドラの胸も。二人は折り重なって倒れました。
大王がレルネ街道にアンズの実を捨ててから二十五年が経っていました。
終
ピクロコル大王 イヌヒコ @fukutarou
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