アクアリウムの魚

@araki

おかしな出会い

目の前には一際巨大なアクアリウム。白い魚の群れが渦を巻いている。

その一糸乱れぬ泳ぎは優雅で美しい。水底に光が淡く降り注ぐ中、照り返す白い肌が時折、稲妻のような煌めきを放っていた。

おとぎ話のワンシーン。

そう形容したくなるような光景と僕は対照的だ。締まりのない顔。傍から見ればさぞかし間抜けに映ることだろう。写真には収めたくない部類の人間だと自分でも思う。

ただ幸い、平日の水族館は入場客がほとんど見られない。小さな子供に本気で身を案じられることも、高校生カップルに後ろ指を指されながら嘲笑を贈られることもない。目の前の水槽はここのメインの展示物のはずだが、小一時間ほど長椅子に腰掛けていても咎める人間は誰もいなかった。

主役を引き立てるためか、周りの照明は極力抑えられている。辺り一帯を水の青が染め、心から夏の気だるさを奪い去ってくれる。加えて、耳に届くのは時折弾ける水泡の音のみ。電子機器の普及でそこかしこに喧しい電子音が鳴り響く今では、ここは非常に希有な環境に思えた。

ここが一番の避暑地であることは間違いないが、僕にとってはそれ以上に避難所という意味合いが強かった。

僕がここに来たのは退屈を忘れるためだ。

もっと言えば、退屈という『感覚』を忘れるためだ。

日常は退屈に満ちている。同じ場所、同じ人、同じ会話、同じ感想、そして同じ後悔。延々と繰り返される時間の浪費は耐えがたい苦痛だ。しかし、生きていくにはその苦しみを受け入れなければならないことを僕も理解している。明日の平穏を手に入れるため、その毒を飲み干す必要があることを。

ただ、退屈は段々と心を蝕んでいく。全てが平坦に、全てが同じように思えてくる。価値を差異と同じであるとするならば、それは自分の価値観が死んでいくのと同じだ。強靱な精神を持つ人間ならその限りではないかもしれないが、若輩者である僕にはとても耐えられそうにない。つまりは、日常の毒を洗い落とすためにここにいるのだ。

などと、大層な言い訳を考えてしまうのはまだ未練があるからだろうか。

現在大学生である僕はその身分を大いに活用し、暇を見つけてはここへ足繁く通っている。開始のチャイムぎりぎりで教室で滑り込んでくる僕に担当教授は度々白い目を向けてくるが、その分積極的に講義に参加するようにしているので大目に見てもらいたい。

誰にも邪魔されず、ただ自分の感覚のままに世界を感じることができる。この空間が提供してくれる時間は入場料以上の価値があるように思えてならない。外界から切り離された特等席。そんな子供じみた優越感を覚えるほどに満ち足りた場所だった。

この環境がそばにあり続けますように。僕はそれだけを切に願っていた。

 しかし、それが叶わぬ夢だということを最近知った。

ちらりと視線を横に向けてみる。

「………」

――今日も、か。

隣の長椅子。そこに一人の少女が腰掛けていた。

 制服姿と背丈から判断するに、身分は高校生といったところか。地元の高校には詳しくないため、どこの生徒かなどは全く分からない。今の僕に言えるのはせいぜい、そこは生徒一人校舎から抜け出しても気づかない大らかな学校であるということくらいだ。

「………」

定規を背中に入れているようにまっすぐ背筋を伸ばした少女。その視線はまっすぐ水槽に向けられている。その揺らぐことのない眼差しは精巧なフランス人形のようだった。

 美しい。端的に言い表すならばその一言に尽きる。ただ、人間に本来あるはずの雑味の一切が彼女からは極限まで排されてしまっているように思えた。不気味の谷。それと似たような感覚を受けずにはいられなかった。 

 ――……置物と考えよう。 

人に公言するのは憚られる暗示をいつものごとく自分にかけ、僕は真っ当に美しい目の前の光景に視線を戻す。触らぬ神に祟りなし。それだけを心に留めておけば今日も平穏無事に過ごせるはず。

数分間だけ、そう思っていられた。

「質問があります」

 突然聞こえた声。静かな空間においてそれはやけに大きく聞こえ、まるで雷鳴のようだった。それほどまでに唐突で、それほどまでに脈絡がない。

 声の高さと聞こえた方向から判断するに主は恐らく隣の少女だ。しかし、謂われがない。お互い一度も話をしたことがない赤の他人。前世の因縁も恐らくないはずだ。

――もしかして他に人がいるのでは?

今までずっと僕の意識は水槽に向けられていた。その間に別の人間が現れ、その第三者は奇遇にも彼女の知り合いだった。ありえない話じゃない。

あくまで確認。僕は目だけをそっと隣に向けた。

そしてすぐ、視線を元に戻した。

 ――嘘だろ……。

思わず口から出そうになった言葉を僕は必死に留めた。

「………」

 少女はじっとこちらを見つめていた。気のせいでは済まされないほどに、はっきりと。

 僕たちがいるのが水族館ではなく道端、もしくは彼女がカメラを片手に持っているならまだ良かった。僕が何をすれば向こうが満足してくれるかが何となく分かるから。しかし、そんな都合の良い要素はどこにも見当たらない。厄介なことこの上なかった。

僕はあれこれ頭を悩ませたが、結局、ひどくシンプルな結論に至った。

 ――聞かなかったことにしよう。

幸い、僕は少女に何のアクションも返していない。今も変わらず僕と彼女はお互い見ず知らずの客。その距離感を保っていれば、この場をやり過ごせるかもしれない。

 しかし、僕は大事なことを忘れていた。事なかれ主義が通用するのは相手に了解がある時だけ。その単純な事実を。

「……よし」

 視界の端で、少女がすっと立ち上がったのが見えた。

つかつかと彼女は僕の方へ歩み寄ってくる。やがて僕の目の前までやってくると、

「もしもーし」

 僕の顔の前で手を振り始めた。顔色一つ変えず、乱れのない一定のリズムで。

 ――……お手上げだ。

これ以上、ポーカーフェイスなんて続けられない。

「……なにかな」

 あからさまに不機嫌な顔で僕は答える。最後の抵抗。それで引き下がってくれることを願ったが、その思いは一片たりとも彼女に届かなかったようだ。

「よかった、やっと気づいてくれましたね」

「無視していたんだ。分からなかったのか?」

「そうだったんですか? ごめんなさい。私、空気を読むというのが苦手で」

 険のある僕の声に動じた様子は一切なく、悪気もなく、少女は綺麗なお辞儀で頭を下げてくる。非常に洗練されたそれは訓練された接客係のようで、憤りを一方的に押さえつけられた気がした。

「それで何の用? こう見えても忙しいんだけどな」

 傍からは冗談のように聞こえるかもしれない。けれど、僕は本気だ。本気でここに癒やされに来ている。断じて面倒事を背負い込むためじゃない。

「質問があるんです」

 先と同じ言葉を繰り返すと、彼女は目の前の水槽を指さした。

「あの魚たちはなぜ、ああも統率のとれた動きができるのでしょうか?」

「………」

 何も言えず、呆然とするしかなかった。質問の意味が全く分からない。いや、内容自体は分かる。けれど、質問した少女の意図が掴めない。何をどう答えるべきか全く見当が付かなかった。

 控えめに言って困惑、正確に言えば、思考を放棄していた。しかし、そんな僕を見て少女は何やら勘違いをしたらしい。

彼女は僕の耳元に顔を近づけた。そして、

「あの! 魚たちは! な」

「聞こえてるから! 耳元でそんな大声を出さないでくれ!」

 たまらず耳を押さえた僕は慌てて少女を止める。その声量を今までどこに隠し持っていたのか、そう首を傾げたくなるほどの喧しさだった。

「すいません、てっきり耳の遠い方なのかと」

 この少女は僕をいくつだと思っているのだろうか。

「絶句していたんだよ。なんなんだ、その質問は?」

「えっと、そのままの意味ですが……」

 少しばかしの困惑顔を見せた後、口元に手を当てた少女は思案する素振りを見せる。やがて、顔を上げた彼女は言った。

「私、不思議なんです。あの魚たちがなぜ一切の示し合わせもなく、あのような一糸乱れぬ行動がとれているのか。その訳が知りたいんです」

 淡々とした声。凪のように静かな瞳のまま、彼女は言葉を継いだ。

「ずっと眺めていたあなたなら、その答えを知っているのではと思いまして」

 ――学者にでも訊いてくれよ、そんなこと。

そう言って突き放したい気持ちは十二分にあった。事実、あと少しで口から漏れてしまいそうだった。

しかし、僕は彼女の瞳から目を離すことができないでいた。僕自身、不思議で仕方ない。突拍子もないことを口にする相手を警戒しているから? それとも、獲物を狙う鷹の目に縫い止められているから? 

……いや、どちらかと言えばもっと、能動的な感情が働いている気がする。

「……近くの説明板は確認した?」

「しました。側線器官が云々とありましたが、どうもしっくりこなくて」

 とりあえず少女は生物学的な答えを望んでいるわけではないらしい。僕は内心で小さなため息を吐く。そして、質問の内容に考えを向けることにした。息が詰まるこの状況から逃れるにはそれが一番のように思えた。

目を閉じ、思考に集中する。そして、最初に浮かんだ答えをそのまま口にした。

「生きることに必死だからじゃないかな」

「………」

 反応がない。返事もない。少女は黙りこんだまま、じっとこちらを見つめている。答えが間違っていた? いや、この質問にそもそも正解なんてない。もっと言えば、彼女と言葉を交わした時点で僕は間違えている。

もうどうにでもなれ。僕は捲し立てるように、残りの言葉を吐き出した。

「水槽の中はどうだか知らない。けれど少なくとも野生の彼らが生きる世界は常に危険と隣り合わせだ。一つ選択を間違えれば死に直結する世界だからこそ、彼らは僕らのように余計なことは考えない。どうすれば命をつなげられるか、それだけを本能的に求めて行動した結果があの無駄のない動きなんじゃないかな」

 理路整然とは言い難い話。加えてあまりに感覚に寄りすぎている。言い終えてすぐそんなコメントが頭に浮かぶ。とっさに答えを求められたのだから仕方ないが、もっと分かりやすく話すべきだったのでは。

そんな思いに突き動かされてもう一度言い直そうと口を開きかけた、その時。

「……つまり」

視線をこちらに固定したまま、少女はおもむろに口を開いた。

「生存本能に後押しされた無意識の効率化。それが個々を集団にまとめ上げる原動力。そういうことでしょうか?」

「……無駄のないまとめをどうも」

 高校生らしからぬ少女の言葉に、僕は思わず舌を巻く。どうやら彼女は少しばかし抽象化された世界に生きているらしい。

僕は再び水槽を見やる。無数の魚がさながら一つの生命体のように躍動している。その光景に目を奪われながら、ふと、心に浮かんだ感想が口から漏れた。

「まあ、生に対するその必死さが僕らの目には美しいと映るのかもしれないな」

「………」

 少女の方を向き直れば、案の上、驚きで目を見開いていた。

「……大の大人が口にするべき言葉じゃなかったな。忘れてくれ」

苦し紛れの僕の言い訳に、少女は首を横に振った。

「いえ、大変参考になりました」

「……それはよかった」

彼女の顔から遠慮や嘲笑は見てとれなかったが、どうしても慰められているとしか思えなかった。非常に居たたまれない。とてもじゃないがこのまま鑑賞に戻れる気はしない。 

早々に話に蹴りを付けてここを出よう。

「……質問の答えとしてはこれで?」

「ええ、十分です。ありがとうございます」

「そう、それじゃ――」

 話が終わったと思った僕は挨拶もそこそこに腰を浮かせた。しかし、それは少々早とちりだったらしい。

「もう一つだけいいですか」

 ――まだあるのか? 

出鼻をくじかれたことに理不尽な苛立ちを覚えてしまう。僕は大人。彼女は子供。大人の対応を。そう自分に言い聞かせながら、少女の方へ視線を戻す。

 まだ何か? 微笑みと共にそう口にしようとして――できなかった。

 少女の顔を見た瞬間、僕は息を呑んでしまっていた。

「あなたには今の私がどちらに見えますか?」

 相変わらず感情の見えない少女の左目。だが対する右目には、

「人間ですか? それとも――」

鈍色に輝く金属の球がその眼孔を埋めていた。

「アンドロイド、でしょうか?」

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