モンスターへ乾杯!

夢月七海


『今年はハロウィンパーティーをしないか?』


 シャンから、そんな内容のメールが届いた。

 俺はすぐに、返信を書こうと、ラップトップのキーボードを叩く。


『いいよ。どこで?』


 画面にそう出た直後、はっとする。あいつ、日本で留学中じゃねーか。

 慌てて消して、怪しみながらも、ある可能性にかけて尋ねてみる。


『お前、こっちに帰ってくるのか?』


 しばらくして、ユーラシア大陸を横断したメールが、すぐにイギリスの安アパートの一室に届いた。


『いや。トマーズがこっちに来てほしいなーって』


 ああ、やっぱり。毎度のことに、俺は薄汚い天井を仰いだ。

 あいつはただ単純に、思い付きで行動しているだけだ。


『俺にはそんな金も、時間もない』

『お金なら、こっちが負担するよ。ライブなら仕方ないけど、入っていなかったよね? バイトなら、融通が利くんじゃない?』


 怒りを込めて打った文章も、すぐにそんなとぼけた返信で斬られる。

 シャンは超の付くほどの金持ちだ。俺の旅費くらい、何とでも出来る。


 ご丁寧に、俺のバンドの予定まで、フェイスブックなどでチェック済みだ。確かにバイトも、自由が利く。

 ただの思い付きに、こうして後付けをするのが上手いから、俺は余計に腹が立ってくる。


 日本語が話せないと返そうとしたら、『言葉はこっちで何とかするから』と先手を打ってきやがった。

 そして、一方的に、一泊二日の計画や、彼のマンションに世話になることまで決められてしまう。


 もうここまで来たら、断り辛いとため息をついた時、最後のメールが届いた。


『あと、三十一日は半月だから、大丈夫』


 その一言で、俺は完全に傾いた。

 まあ、もともと日本には興味あったし。あいつもどんな生活してるか気になるし。ぶつぶつと頭の中で言い訳しながら、返信を打って、送る。


『そこまで言うなら、行くよ』






   □






 十月三十一日木曜日。

 俺は巨大生物に吐き出されるように、東京駅から外へ出た。


「マジで人が多い」


 第一声はそれだった。

 ロンドンの駅前でも、こんなごった返しているのは見たことが無かった。しかも今日は平日だ。

 見渡す限りの人の群れが、誰ともぶつからずに動いているのが不可解だった。


 デジタルの腕時計を確認する。十五時。

 あと一時間で、シャンの授業が終わると言っていた。それまで、適当に時間をつぶしてくれとも。


 時差ボケで頭がくらくらするが、あんまり時間がないので、大人しくはしていられなかった。

 日本語は全く分からないが、シャンの実家から送られた水晶付きネックレスのお陰で、聞いたり話したりできる。


 これは一体何だと、電話でシャンに訊くと、魔女が作った魔法の翻訳機だという。ちなみに日本語対応版。

 なんでそんなものがあるかと訊けば、シャンの母親の友達の魔女が、抹茶を送ったお礼にくれたという。


 あいつの生まれ、グランギニョル家は、由緒正しい血筋らしくて、非常に顔が広い。

 それに加えて、あいつ自身も社交的だ。だから、俺には思いよらない人脈を出してくる。


 かつては王様にも取り入って、爵位もあった。しかし、大昔に城は焼失してしまったという。

 「グランギニョル城を復活させる!」……そんな馬鹿げた夢を持って、あいつは大学で建築を学び始めた。いや、復活って、そっちかよ。しかも、日本で耐震構造を学ぶという本格ぶりだ。


 俺だって、売れないバンドのギターだから、あいつを笑うことは出来ないだけどな。そんなことを考えながら、地図を片手に歩いていた。

 ラグビー部だったの? とよく尋ねられる俺を、向かいから来るやつらはぎょっとして、さっと避けてくれる。


 適当に、CDショップを探して歩きまわる。

 シャンが勧めた、狼の頭をしたバンドグループの曲が気に入り、日本限定のCDがあるかもしれないと、探してみるつもりだ。


 しばらくして、CDと楽器を売っている店を見つけた。それなりの大きさがあるが、イギリスから持ってきた俺のリュックが通路を塞いでしまう。なんだか申し訳なかった。

 CDコーナーでお目当てのバンドのアルバムを買ったり、買う金はないがいくつかのギターを試し弾きしたりした。そうこうしている間に、気が付けば四時半になっている。


 あいつは一体何をしているんだ。眉を顰めながら、無言を貫いているスマホを取り出す。

 すぐに、シャンヘメールを送った。『今何してんだ』と。


 十五分後、返事がやっと届いた。


『ごめん。授業の後、ゼミのメンバーに誘われて、仮装パーティーしている』


 こっちのことを何だと思っているんだ。怒り以上に、疲れが出てきた。

 半分諦めているのは、悲しいけれど、あいつとの付き合いが長い証だ。なんだかんだで、出会って十五年の幼馴染だから。


『俺はどうすればいいんだよ』

『六時には何とか抜け出すから、それまで、ここで待ってて。僕の行きつけだから、名前出したらよくしてくれるよ』


 本音を送ったら、そんな返事だった。

 添付されている地図を見る。そこは、『面面』という名前の店らしい。ここから、大分離れた所にある。


 楽器屋を出て、丁度目の前を通りかかったタクシーを止めた。運転手に場所を説明する。

 金は必要最低限しか持ってこなかったが、お代はシャンに請求するつもりだった。これくらいの出費、あいつにとっては屁でもないから、嫌がらせの意味がないけど。






   □






 タクシーは、三十分くらい走って、急に止まった。

 しかし、地図上の現在地を見ると、面面はこの向こうの道にある。


「そこの真ん前は、車が進入禁止なんですよ」


 運転手が、申し訳なさそうに説明した。代わりに、今目の前にある路地を抜ければ、目的地に着けると教えてくれた。

 腐れ縁のシャンとは全く違う、見ず知らずの運転手のおっちゃんの親切が身に染みる。


「ありがとう。釣りはいらないから」


 驚く運転手に、それだけ言って、タクシーから降りた。

 このチップ代も、シャンに請求するつもりだ。


 頭上は夕焼け色に染まっていたが、辺りは高層ビルに囲まれて、日が沈む様子はどこにも見えなかった。

 ここは商店街のようで、人通りも多く、飲食店もあちこちに建っている。意外だったのは、日本でも仮装している人が、ちらほらと見受けられることだった。


 目の前の路地は、人が三人くらい通れるくらいの狭さだった。俺とシャンなら、すぐに埋まりそうだ。

 そこを抜けると、商店街とは全く違う光景が広がっていた。俺は思わず足を止めてしまう。


 屋根のあるこじんまりとした家々が、路地裏では並んでいた。塀の中で洗濯物がはためいていたり、道の前に植木鉢が置かれていたりと、すごく生活感がある風景だ。

 左手側を見ると、ビルとビルの間に、ゆっくりと太陽が沈んでいくところだった。オレンジ色が眩しくて、俺は目を細める。太陽から零れ落ちた光が、薄れた色のアスファルトの上で反射していた。


 顔を前に向けると、運転手が話していた通り、目的地の居酒屋があった。

 日本語の看板は読めないが、スマホの地図で示しているから間違いないだろう。


 周りの家屋に比べても、その店は一際小さかった。きっと中も、それほど広くないだろう。

 屋根は黒色の瓦で、窓は無かった。日本語が書かれた四枚の布が、横にあけるタイプのドアの外側に、ぶら下っている。風でふわふわ揺れていた。


 ドアのくぼみに手を入れて、がらがらと開く。

 その瞬間、自分の体が強張っていて、初ライブの時のように緊張しているのが分かった。


「いらっしゃい」


 一番奥のカウンター内にいるマスターが、気安い調子でそう声をかけた。

 しかし、俺はその顔を見て、思わずぎょっとした。体が止まってしまった。


 そのマスターには、顔が無かった。

 正確には、頭と髪の毛があるのだが、目口鼻の顔のパーツが無い。つるつるのゆで卵のようだ。


「お客さん? どうしたの?」


 そう言って、不思議そうに、マスターは首を傾げる。

 先程の「いらっしゃい」は聞き間違いだと思ったが、やはりマスターの声だったらしい。どこで声を出しているのか分からないけど。


「いや、何でもない」


 俺は首を振って、背後のドアを閉めてた。

 きっと、精巧なマスクなんだ。間違いない。シャンが紹介する店だから、マスターもお茶目で、ハロウィンの仮装をしているのだろう。


 店内は、思ったより広かった。俺の左手の方には、少し高くなっていて畳が敷かれて、二つのローテーブルが縦に並んでいる。

 右にはテーブルと椅子が、二セットある。その奥に、四人掛けのカウンターがあり、内側ではたくさんの酒瓶を背後に、バンダナを巻いたマスターが立っていた。


 畳のローテーブルには、一組の老夫婦、父親と子供、女性が二人、一緒に食べて飲んでいた。

 服装は全員和服だが、あまり似ていないので、家族とは思えない。ご近所同士なんだろうか?


 一方、他のテーブルとカウンターには誰も座っていなかった。

 一人飲みも味気なかったので、カウンターの、マスターの前に座る。


「お兄さん、もしかして、シャンくんのお友達?」


 ハリウッド顔負けのマスクだなと、無遠慮にマスターの顔を眺めていると、そう尋ねられた。

 すでに連絡が来ているようだと思いながら、頷いた。


「あいつ、ここで迷惑かけていないか?」

「迷惑ってほどではないけど、いいにぎやかしだね」


 俺が一番の懸念を尋ねると、マスターは高らかに笑った。

 それはギリギリセーフなのか? と考えあぐねていると、マスターは俺の前に、メニューを出した。


「ごめん、日本語は読めないんだ」

「じゃあ、説明するよ」


 初対面の外国人にも優しく、マスターは一つ一つの酒や料理を説明してくれた。ここでもチップをはずませたい。

 折角だから、日本の酒を飲もう。マスターが、強いけれどお勧めだと言ってくれた、サツマイモの酒を注文した。


 料理は、鯖の味噌煮というやつを注文した。

 すると、マスターは酒をコップに注ぎながら、苦笑していた。


「これ、人気だけど、バイトくんがいるときには出せないんよねー」

「鯖が苦手なのか?」

「そうそう。食べるどころか、見るのも嫌がるくらいでね。はい、どうぞ」


 俺の目の前に、イモジョウチュウという酒と、四角くて深さのある、小さな皿が差し出された。

 皿の中には、かぼちゃとカブの漬物が入っている。


「これ、注文していないけど……」

「お通しって言ってね、日本の酒場での定番サービスだよ。今日はハロウィンだから、かぼちゃとカブにしてみたんだ」

「おお……!」


 俺は、マスターの気遣いに感心していた。

 ハロウィンのジャック・オー・ランタンと言えばカボチャが世界中で定番だが、スコットランドでは、カブのランタンを持ったお化けが起源である。それを知っているなんて、異国で知り合いを見つけたような、嬉しさがあった。


 これは、サービスだと言っていたが、チップをさらに積まなければならない。

 正直金が心配だが……。それは、シャンからのタクシー代を余分に取ればいいだろう。


 どちらの漬物も、非常にシャキシャキとしていて、異なる味わいが全く飽きなかった。

 酒も、甘い匂いが気になったが、味は意外とフルーティで、飲んだ瞬間に喉が熱くなるのも、唸ってしまうほどうまかった。


「あー、うまい! 最高だよ、マスター」

「そうかいそうかい。気に入ってくれて、何よりだよ」


 コンロで料理をしているマスターは、こちらに背を向けているが、声は嬉しそうに弾んでいた。

 最初は奇抜なマスクでビビったが、このマスターは本当にいい人だ。シャンは、いい店を見つけたんだな。そんなことを考えながら、ゆっくりとかぼちゃの漬物を噛む。


 その時、後ろの引き戸が空く音がした。マスターが振り返って、「いらっしゃい」と声をかける。

 シャンが来たのか? まだ六時にはなっていないけど。俺も、ドアの方を向いて、そしてまた、固まってしまった。


「あれ? 見ない顔だね」


 入ってきたのは、三十代くらいの男だった。普通のスーツ姿だ。

 顔つきも、ぱっとしない……しかし、その額には、眉間の少し上には、もう一つの目があった。三つの目が、俺のことを見つめている。


「こちら、シャンくんのお友達」

「へえ。じゃあ、イギリスから?」

「あ、ああ……」


 マスターの紹介を聞いて、男は自然の流れで、俺の隣に座った。

 俺はじっと、男のもう一つの目を見てしまう。これも良く出来たマスクだ。いや、本物のようなメイクか?


「当のシャンくんは?」

「あいつは、大学の仲間と、楽しく飲み会している」

「待ちぼうけを喰らっちゃったんだ。遠くから来たのに、散々だねえ」


 ふてくされた俺を見て、男は盛大に同情してくれた。

 そして、マスターの方を見る。


「大将、彼の酒代、俺が肩代わりするから」

「あいよ」

「え! 悪いよ、初対面なのに、そんな」

「いいって、いいって。わざわざ旅行先で、嫌な思いをしてもらいたくないからさ」


 慌てる俺に、男はからからと快活に笑った。

 なんていい人たちなんだろう……。今まで会って、話してきた人たちの親切が、身に染みる……。それに比べて、シャンの野郎は……。


「はい、鯖の味噌煮、お待たせしました」


 マスターの元気な声と一緒に、注文した一品が目の前に置かれた。深さのある青い皿の中に、銀色の皮の魚の切れ端があり、味噌のソースがかかっている。

 ふわんと漂う湯気の、味噌の匂いを嗅いで、俺は一緒に差し出されたフォークを手に取った。箸が使えない俺への、マスターからの配慮で、鯖の身をほぐし、口へ運ぶ。


「……うまい」


 そうとしか言えない俺に、隣の男はにやにやしながら話し掛けてきた。


「お兄さん、ラッキーだったねえ。今日は飛丸くんがいないから、鯖が食べられて」

「鯖が苦手なバイトだっけ?」

「苦手というか、見たら泡吹いて倒れるね」


 男は「あっはっは」と盛大に天井を仰いで笑う。

 俺も、大袈裟だと思いながら苦笑していた。


 俺が鯖を肴に、酒を飲むのを再開すると、マスターと男が話し始めた。

 マスターが注文を聞いて、酒を注ぎ、お通しを出して、料理を準備し始める。


「そういや、三助さん、みっちゃんのところ、行かないの?」

「まだ時間があるからね。ここで飲んでからいくさ」


 マスターから三助と呼ばれた男は、掌に乗るくらい小さな陶器の椀で、ちびちびと酒を飲んでいた。湯気が上がっているから、中身は温めているらしい。

 二人はそんな、ありきたりなやり取りをしていたが、マスターの「最近はどう?」という言葉が、何故だか興味を引いた。


「いやー、全然。最近は明るくなりすぎて、いけないねえ」


 三助は困ったように首を横に振る。

 明るくなりすぎ? 何の話だ? 俺は気になって、聞き耳を立てた。


「大将の方はどうよ」

「……実は、一週間前にね」

「ええ? 本当に?」


 マスターが親指を立てると、三助はからかうような視線を投げた。


「意地張ってない?」

「いやいや。あの、三本隣の裏路地があるだろ? あそこで、茶髪のサラリーマンを一人、驚かしてやったよ」

「おお。大成果じゃないか」

「うずくまっている所を話しかけられてね、顔を上げたら、悲鳴を上げて逃げていったよ。こちらが申し訳なくなるくらいの慌てぶりでねえ」

「そんな古典的な手に引っかかるやつも、まだいるんだなあ」


 俺は、「そうなんだよ、いるんだよねえ」としきりに頷く、マスターの滑らかな顔を見た。

 そして、今度は隣の、三助の方を見た。丁度、目が三つ同時に、瞬きをする瞬間だった。ハリウッドだって、合成なしにそんなことは出来ないだろう。


 俺の背中から、ぶわっと汗が噴き出してきた。こいつら、本物だ。

 あの会話は普通の人間のものじゃない。彼らは仮装した日本人じゃない。本物の、怪物だ。


 なんだかずっと感じていた違和感が、するするとほどかれていくような気持ちになれた。

 シャンがここに辿り着いて、彼らと仲良くなれた理由も、はっきりとわかってしまう。


 じゃあ、彼らは、俺のことはどう思っているのだろうか? 

 そんな疑問が胸に湧いた時、背後の座敷から、だん! と何かを叩くような音がした。


 振り返ると、父親と一緒に来ていた五六歳くらいの男の子が、テーブルを叩いて立ち上がった所だった。

 その子は、入った時にはなかったが、茶色い耳と太くて茶色の尻尾が付いていた。どう見ても、作り物じゃない。


「団五郎、落ち着きなさい」


 そう言って子供を座らせようとする、父親にも、同じような耳と尻尾が生えていた。

 しかし、子供は涙目になって首を振る。


「でも、お姉ちゃんだけずるい!」

「そうは言っても、呼ばれたのは女の子だけなんでしょ?」


 子供の向かいで、困ったように笑っている、真っ白な着物の女性は、信じられないくらいに真っ白な肌の色になっていた。

 その隣で、茶色と黒と白の斑模様の着物の女性が、同じ色の猫のような耳と長い二つの尻尾を生やして、深く頷いている。赤ら顔で口を開く。


「今は素直に、みどりちゃんを応援した方がいいにゃー」

「みけさん、また語尾がにゃーになっているのう」

「そうさのう。そのいめいじは困ると言っていたのにのう」


 黒い着物の老人は、目が一つになっていて、その隣の老婆の額には、一本の角が聳えていた。

 二人とも、非常にのんきに頷き合っている。


「あれー、またそうなってるのかにゃー? ゆきにゃーん?」

「語尾どころか、『ちゃん』まで『にゃん』になっているわよ」


 白い着物の女性が、暑苦しく絡んでくるもう一人の女性を、煩わしそうに引き離した。

 それを見て、子供以外の全員が笑い合っていた。


「もう! 僕の方が、お姉ちゃんよりもずっと、化けるのが上手だと言っているのに!」


 子供が、悔しそうに悔しそうに、何度も地団太を踏んだ。

 父親が、なんだか慣れた様子で、肩をすくめて、店の出入り口を指差した。


「じゃあ、またみんなに見せてくれるか?」

「うん!」


 力強く頷いた子供が、今度は急にこちらの方を見た。

 現実離れしていて、まだ理解を追い付いていない俺の顔を、びしっと指差す。


「お兄ちゃんも一緒に見て!」

「え……なんで俺が……」

「外国の兄ちゃんが見ても、すごいんだってところを、お姉ちゃんに知らしめてやるんだ!」


 そのお姉ちゃんっていうのは、どこにいるんだ?

 訳の分からない理論に眉を顰めると、三助が軽い調子で背中を叩いてきた。


「いいじゃないか。折角の機会、狸の妖怪変化を見るくらいはさ」


 だからなんでわざわざ……。

 正直、そう思っていたが、まだシャンが来る様子もないし、暇つぶしにと、俺は渋々立ち上がった。


 座敷の奴らがぞろぞろと出ていった後に、俺も続いていく。

 外はすっかり日が沈み、暗くなっている。東からは、半月が昇っていた。


「よ―し、何でも化けるよー」


 月を背中にして、少年は威勢良く叫ぶ。

 すると、他の奴らが、「はい! はい!」と、まるで教室の子供たちのように手を上げた。


「カラフトマスがいいにゃー!」

「雪だるまはどう?」

「父さん、今の月九に出てる女優に会ってみたいなあ。あ、母さんには内緒な」

「ここは王道に、信楽焼はどうかのう」


 女性たちと父親と老婆が、当てられていないのに、勝手に話しかけてくる。

 すると、自分の顎髭をのんびりさすっていた老人が、一つだけの目を細めて提案した。


「人物や、物になるのは、団五郎にとっても簡単だろう。それよりも、自然のものに変化するのは、どうかのう。……例えば」


 老人は空を見上げて、白い月を指差した。


「いい夜には、半分だけの月じゃあ味気ない。満月になるのは、どうだろう?」

「えっ、満月は……」


 まずい! と俺が言い掛けたが、少年は「よーし」と気合を入れて、大きく飛び上がると、空中で一回転した。

 少年の体から、白い煙が黙々と立ち上り、彼の姿を隠してしまう。あまりの煙たさに咳込んだ。


 それが晴れた時、俺たちの頭上には、もう一つの月が、真ん丸の黄色い月が、浮かんでいた。

 俺は目を見開いて、その月を見つめてしまう。光まで、浴びてしまい……。


「あ、ああ……、あ……」


 心臓が、早鐘を打つ。体全体が、熱を帯びていく。しかし汗は出ない。

 ざわざわと皮膚が粟立ち、そこから、茶色の毛が生えてくる。頭が割れるように痛い。


 ごきごきと音を立てて、膝の関節が逆になる。指がぐんと短くなり、掌には肉球が出来る。

 耳の位置は頭上に、鼻と口は一緒に前へ伸びていき、歯は全て牙に変わる。


 最後の仕上げにと、パンツとズボンを引き裂いて、ふさふさの尻尾が生えた。

 ああ、着替えは最低限しか持ってきていないのに。


 らんらんと輝く金色の目を開けると、驚いた顔の彼らと目があった。あの少年も、変化を解いてしまっている。

 当たり前か。彼らだって、狼男を見るのは、きっと初めてだろうから。


 俺は、内側から湧き上がる衝動を堪えきれずに、月に向かって遠吠えをした。

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