第114話
「この蒸し暑い梅雨時期の朝っぱらから、そのスキーウエアは普通の人が見たら気が違っていると思われるレベルだね」
義雄が研究室に来るなり一言。
「仕方ないよ。サンプルが5日分溜まってる」
「おはよう」
恵ちゃんがやって来る。
「あら、正くんこんな早くから?」
「うん。いつもより1時間前に来て実験開始」
「今日は、これから4時間の電気泳動2回、8時間強の試練だよ」
「明日も、明後日も……」
「大遊びした後だもんね〜」
恵ちゃんが僕をおちょくる。
「でも、スタミナは十分よね。私知ってるよっ」
恵ちゃんは昨日の夜に素敵に乱れた。満面の笑み。
義雄はこの場に居づらそうな顔をする。
「じゃあ。マイナス10℃の世界に行くよ」
酵素抽出であれば、室温2〜5℃くらいでいいものを、丁度いい温度の実験室が農学部には無い。
室温29℃。低温室との30℃差の温度差は正直きつい。
「私は、極楽の花園、蝶よ花よのラン温室に行くからね〜」
恵ちゃんが昨日の夜を思い出させる仕草、ポンポンお腹を叩いて外へ出る。
おいおい、昨日は付けるもの付けたじゃないか。
お腹の中に僕の分身はいないよ。
女の子って、いや、恵ちゃんって可愛い。
義雄も培養室に向かう。
「ゴリゴリ、ゴリゴリ」
乳鉢に入れた石英砂と乳棒の擦れる音。
バラの葉からの酵素抽出。単純作業だが、コツがある。
数mm以上の塊は乳鉢では潰れないので、バラの葉を鉄板上に置き、金づちで1~2mm以下に砕いておく。
乳鉢に試料を入れ、リン酸バッファーを小さじ半分程度加えて抽出液が飛び散らないように乳棒で磨り潰す。1サンプル、約3〜5分。手際よく。
意外に簡単そうで、慣れが必要。
約1時間半、この低温室。夏場に寒い不思議な感覚。
「ただし〜っ」
大樹の声だ。弱々しい。
低温室の二重扉を開けて入って来た。
「どうした?」
「いや、教授が日光にすぐにでも行きたいらしくて……」
「正抜きでいいから、来週にでもと……」
「ちょっと待って。後30分後。研究室でな」
「分かった」
ーーーーー
「で、どうする?」
「僕抜きで行きなよ。水曜日ならオケの連中が行く予定をもう組んでいる」
「昼食の中華料理屋も、20数人入れる席を抑えてあるみたい」
「教授は歩く植物図鑑以上だよ。世界の植物を知っている人だ」
「大樹にもいいし、オケの連中になんか、もってこいの勉強の場になる」
「でも気を使うだろ? 教授だよ。しかも、イノシシのような……」
「イノシシは失礼だよ。精々、ウルフのような、くらいのレベルに上げて」
「こずえちゃんに聞いた?」
「ああ。こずえちゃん、教授様が来るなら植物園の正はいらないって」
「なんて現金な子だ。ただ、植物園の、に限定している返事はクエスチョンだな」
「どうしよう……」
大樹が頭をかかえる。
「簡単だよ。食事と植物園の時間だけ、研究室の連中とオケのメンバーと予定を合わせて、それ以外の観光は別々に行動する」
「そうか。そうするか」
「ああ。いいかい、僕は抜いといてね」
「約束だよ」
「そう、恵ちゃんはどうしよう?」
「恵ちゃんは連れて行ってあげて。美味しい料理、食べて来て欲しいから」
「うん? 私がどうしたって?」
「ああ、恵ちゃん」
「日光行き、来週の水曜日になりそうだよ」
「あら、そんなに早く?」
「色々あって……」
大樹はまだ決め切れない。
「正くんは?」
「僕は行かない」
「じゃあ、私も行かない」
「何、何? 俺と義雄だけ?」
「そういうことになるかな」
「でも、歩ちゃんやみどりちゃんを誘えばいい」
「教授だよ。教授付きだよ、イノシシだよ」
「なんだ、お前たち。暇してるのか?」
教授が突然研究室に入って来る。
「大樹。来週、いつでも大丈夫からな」
一言残し、すぐに去って行く。
「気をつけようね。壁に耳あり、柱に……」
恵ちゃんのギャグに、笑えない大樹の顔が少し緩んだ。
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