第94話

「さて、いろは坂に入るよ」


新緑の頃を少し過ぎた爽やかで美しい木々と、そよ風にざわめく木の葉たち。


「上りの第二いろは坂は20カーブ、下りの第一いろは坂は28カーブあるよ」


「標高差は、約500m弱」


「安全運転で行くからね」



「いろは、って、いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ、うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせすん、だよね」


「正くん、よく覚えているね」


「うん。お母さんが小さいころよく歌ってくれてた」


「歌?」


「うん。メロディがあるんだ。平安時代末期の歌謡だったらしい」


僕はあまり音程が良くない、いろは歌を車中で披露する。



「色は匂へど散りぬるを、は、香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。諸行無常のこと」


「我が世誰そ、常ならむ。この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。是生滅法だね」


「有為の奥山、今日越えて。この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて。
生滅滅己のこと」




「浅き夢見じ、酔ひもせず。悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。寂滅為楽」


「ちやんと意味があるんだよね」


大樹が外の景色を見ながら呟く。


「うん。いろは歌は日本古代史の真相解明や、日本文化のルーツを再認識させるための、最も重要な文献の一つなんだ」


「空海、すなわち弘法大師が書いたものと言われている」


「47とも、ん、を入れて48とも言われる文字から成り立つ母歌。日本語の表音文字を1文字づつ含んでいるだけでなく、見事に一貫した文脈を形成している」


「超人的な頭脳の持ち主じゃないと、いろは歌に含まれるような、2重、3重の言葉の意味と、パズルのような文字の羅列の組み合わせを、仮名文字、各1回のみ使って実現すると言う神業のような創作はできない」


「空海といえば、同時期に最澄もいたね。空海は真言密教、最澄は天台宗」


「なんだか、歴史の受験問題を思い出した」


大樹が呟く。


「密教について少し触れると、私費で渡航した空海はただ純粋に密教を求めていたんだ」


「国費で入唐した最澄が密教を修学した動機は、ざっくりいえば当時の日本仏教、天台教団の経営上の問題」


「帰国後、空海と最澄の二人に交友があったんだけど、最終的には決別に終るんだ」


「何それ? 交友? 正くん、聞かせて」


恵ちゃんが興味あるらしい。歩ちゃんもみどりちゃんも耳を立てる。


「俺も、空海と最澄とに、密教で接点があると思わなかった」


大樹も興味ありげ。



「空海は最澄を密教の弟子として受け入れたんだ」


「しかし、空海は最澄の密教観、密教受法などの未熟性についてある程度わかっていた上で、最澄の密教受法の請願を受け入れた」


「ただ、この二人の修学経緯が異なっていたことから決別が始まる」


「天台教学を学ぶために唐に渡った最澄は、天台山での修学の帰途、たまたま密教を学ぶんだけど、それは彼本来の入唐求法の目的ではなかったんだ」


「そして最澄の受法した密教は、空海が長安から相承した正統密教ではなく、いわば二義的な地方密教だった」


「空海と最澄が決別に到ったのは、最澄がなまじ密教をかじっていたために、ある程度学力があると思っていたことと、一方空海は、引き受けた責任上、きちんと教えようとしたこと」


「つまり最澄の雑密的な未完の密教に対して、空海は純密、正密をもって応じたところに両者の食い違いが生じたものと考えられている」


「最澄は空海から密教を習うのに三ヶ月程度で十分と言い、空海は最澄に三年かかると言った」


「食い違いが生じて当然」


「なるほどね。奥が深いね」


義雄が呟く。



「話はいろは歌に戻るけど、遣唐使として中国に渡っていた空海は、キリスト教も学んでいたと言われている」


「このキリスト教の秘密の鍵も、いろは歌の中にあるらしい」


「何、何? それ」


恵ちゃんが聞きたがる。


「ごめん。言い出しっぺの僕も忘れた」


「いろは歌が、イエスのイ、から始まり、エとスの位置にも意味があるらしいことなど……」



「さて、華厳の滝に向かうよ」


明石先輩が最後のカーブをゆっくり曲がる。



ーーーーー



「すごい、すごい! 壮観! 迫力満点!」


「落差97m! 滝幅7mだって!」


女の子たちは、荘厳な滝を眺めて嬉しそう。


「イワツバメがたくさん飛んでる」


「水しぶきを横切ってる。数百羽はいるよ!」


「巣もいっぱいあるよ。崖の所々に」


しばし、自然への畏怖の念を五感の全てで受け取る。



「そう、華厳の滝は藤村操の自殺した場所でも有名だよね」


義雄が話し始める。


「エリート学生の厭世主義的な自殺」


「当時は世間を驚かせ、あとを追う者が多く出たらしい」


「彼の死後、華厳の滝では180人近くの自殺者が出たらしいという噂が立った。実際は警察に止められて40人くらいだったらしいけど大勢だよね」


「それでここが自殺の名所、心霊スポットとして有名になってしまった」


「彼の言葉は軽くはないよ」



「すべての真相は一言につきる、不可解なり」


「恨みを抱いて悩み苦しみ、ついに死ぬことに決めた。岩の上に立ってみたが、心には何か不安があるか、いやない」


「始めて知った。とてつもない悲観はとてつもない楽観と同じなんだ」


僕が、うる覚えの現代言葉を皆に伝える。


「でもね、まだ18歳の若輩者よ。世の真理など分かる歳じゃない」


確かに恵ちゃんのいう通りだ。


「自殺は、第一高等学校の教壇に立っていた夏目漱石に、勉強する気がないならもうこの教室にこなくてよいと言われた2日後の事件だったらしい」


「もちろん、漱石のせいではないけれど、漱石は後年までこの事件のことを深く記憶に留め、小説の草枕の中にも、その若い死を惜しみ一文を書き込んだらしいね」


「余の視るところにては、”かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う”と」


「でも、吾輩は猫であるには、”打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない”、と突き放したりしてる」


「漱石の心の内にあったものは、生存は人生の第一義なり、だからね」


「しかして、彼の残した言葉と死は、神経衰弱にも陥った漱石と漱石の作品に大きな影響を及ぼしたことは確かだね」


僕のいう言葉に皆納得。


誰からとではなく、僕らは並んで、華厳の滝に向かって合掌した。

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