第90話

「誰でもいい。牛丼買ってきてくれるか。大盛りで」


研究室には、僕と恵ちゃんと義雄。


「正くんがいいと思います」


「正しくん、お持ち帰りが得意なので」


「恵ちゃん。余計なこと言わない……」


「何でもいい。買ってきてくれ」


教授が机の上に、無造作に千円札を置いていく。


教授は、隆と一緒に修正した論文のドラフトが気に入ったらしい。


あとは自分で手を加えるということで、朝から教授室に閉じこもっている。


「じゃあ、僕が買いに行くね」


「正の自転車、ペタルがもう取れそうだぞ」


「ああ、直しながら、だましだまし乗るよ」


「正くん、だましだましが得意だから」


「僕は素直に生きてるよ。だましだましするような事なんてないよ」


「はいはい」


ところで、大樹は?


「さあ? 朝一で生物環境工学研究室に行ったきり」


「ああ、きっと明石先輩と歩ちゃんと打ち合わせだ。日光の」


「そうね」


「まあ、牛丼屋行ってくる」



「正? 正は居るか?」


教授の鼻息が荒い。


「きょ……、教授に頼まれた牛丼を買いに行ってますが……」


義雄が恐る恐る答える。


「全く、肝心な時にいない」


「論文の著者と謝辞に入れる氏名・所属が知りたい」


「全く……」


教授は自分で用事を頼んでおきながら、ブツブツ文句を言って教授室に戻って行く。



「さて、買ってきた。教授に届けてくるよ」


「教授、気が荒いからね。気をつけてね」



「全然、大丈夫だったよ。著者と謝辞だけの用事。済ませてきた」


「著者は僕ら4人と教授と有田先生とみどりちゃん」


「黄色花の論文のファーストオーサーは僕。オレンジ花の論文のファーストオーサーは恵ちゃん」


「コレスポンデンスオーサーは両方とも教授。今後の論文の審査状況、査読者のコメント、最終決定を含めすべての通知をジャーナルから受け取らなきゃならないから僕らは無理」


「謝辞には、隆、材料を採取してくれた歩ちゃん、あと色素を精製してくれた三年生の2人、色素を同定してくれた薬学部の人」


「あら? お持ち帰りのこずえちゃんは入れないのね」


「冗談でも入れないよ」



「しかし、とうとう出来たというより、黄色とオレンジ花色の論文化、かなり早かったね」


「教授が僕らの尻に火をつけたこともあるけど、僕らも頑張ったよね」


「いや、正の貢献度が高い」


義雄が真面目顔で話す。


「正。お前、天才だよ」


「褒めても何も出てこないよ」


「いや、正くん凡人らしく頑張ったよ」


「恵ちゃん。その褒め方は変」


「足手まといな事も結構あったのにねっ」


「とにかく皆んなで力を合わせると、物事スムーズに運ぶね」


「うん。卒業論文みたいな孤独な戦いより全然楽チン」



「何が楽チンだ?」


「おい、正。お釣りは?」


浅野教授がいきなり研究室に入ってくる。


「きょ、教授の机の上に置いてきましたけど」


「そうか、やはり引用文献に埋もれたか。まあいい」



「そう、論文は今日中に英文校閲に出す」


「そのあと雑誌に投稿して、多分、二、三度やりとりしてアクセプトされると思う」


「色素研究会の資料も上出来。皆、よくやった」


「一杯やるか? 関係者集めて」


「いやいや、教授。日光だけで僕らは十分です」


「あら、私たちは不十分よ。ねえ、義雄くん」


「いや……、僕も……」



「義雄。飲み会企画しろ。関係者集めて」


「はいっ!」


教授は機嫌よく教授室に戻る。


「幹事さん? どうします?」


「大学生協で済まそう。8時閉店だし」



「8時閉店は早すぎます」


「えっ? こずえちゃん? 何でここに?」


お昼なので、迎えに参りました。


話し、盗み聞きしてましたです。


「二つの壮大な論文が出来上がったんですよ」


「ここは、扇谷にでも行って、深夜まで最高のつくね鍋でも突っつきあいましょう」


「どこから、そんな飲兵衛の言うような言葉が出る?」


「正先輩に盗まれたことのある、この唇からです」


「あら、私からは上品な言葉しか出ないわよ」


恵ちゃんが軽くかわす。


「私には、淫らなんです。正先輩」


「そうなの?」


「僕は嘘を言って、だましだまし生きるような人間じゃないからね」


「二人ともわかった?」


「I see. (わかりました)」



「私と恵先輩。間接キスなんですね」


「百合みたいなことにならなければいいんですが……」

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