第89話

「正。論文のドラフト、できたぞ」


隆が夜8時ころ研究室にやって来た。


「おう、隆。早いな。ありがとう」


「正の研究室、見つけるのに時間がかかった。意外に農学部の部屋多いんだな」


「義雄くん以外、皆んな帰ったのかな?」


「ああ、皆んな帰った」


「義雄はまだ工学部にいるの?」


「うん。みどりちゃんと二人で一生懸命遺伝子取りしてる」



「論文の読み合わせ、大丈夫か?」


「ああ、隆の都合は?」


「大丈夫よ」


「まずは、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)から」


「この論文、全然悪くないよ。よくできていると思う。ただ、CHI遺伝子については詳しく書かれていていいんだけれど、やはりカルコンからchalcononaringenin 2′-O-glucosideになるための、2’GT遺伝子が取れていないから、何だかその部分が控えめに書かれている気がする」


「2’GT遺伝子はもう、大樹くんとみどりちゃんでほぼ取れることが確実だから、僕はもう取れている、に近い感覚で文章を構成した」


「それで、黄色花におけるカルコンの量の連続性、CHI遺伝子の働き、そして2’GT遺伝子の働き、この三つを、どれも同じように重きを置いたイントロダクション、ディスカッションにした」


「もちろん、Result、すなわち結果ではまだ2’GT遺伝子は記述できないけれど、イントロとディスカッションでは、存在するであろう2’GT遺伝子云々、と記載できるからね」


「うん。隆の言う通り、本報での二つの発見と2'GT遺伝子の重要さが同レベルで淡々と語られ、論文全体が引き締まり、分かりやすくなっている」


「ありがとう。これなら、教授と打ち合わせできるレベルのドラフトだよ」



「次は、オレンジ。Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)」


「これはちょっと複雑だね。論文全体も、話があちこち行って分かりにくくなっている」


「黄色と赤色色素の共存と、遺伝子の働きの記述がごちゃ混ぜになっている」


「まずは、色素は色素、遺伝子は遺伝子としっかり分けた」


「最初に黄色が溜まること。次にアントシアニンが加わること」


「それでオレンジになる」


「これを、既知のアントシアニン生合成経路で説明するんだ」


「これには生合成経路の模式図を使い説明する」


「それが、色素レベルでの話ね」



「そうすると、理屈に合わないことが出てくる」


「ここから遺伝子の話」


「アントシアニンができると言うことはCHI遺伝子とDFR遺伝子が正常。なのに、蕾や開花の段階で黄色色素ができている」


「ここで、Variation in chalcononaringenin 2′-O-glucoside content in the petals of yellow carnations (Dianthus caryophyllus)と同じく、CHI遺伝子が部分的に壊れていることが確かめられたことを再度示す」


「そうすると、壊れ方の少ないCHI遺伝子を通過した色素はDFR遺伝子でアントシアニンとなり、黄色色素と共存してオレンジ色が生成されると言う話の辻褄が合う」


「まずは、ここまで」


「これで論理とストーリーがすっきりする」


「色素は色素、遺伝子は遺伝子」



「ただ、大切なのはディスカッション、考察だね」


「ここでも、未知の2’GT遺伝子の話を織り込む」


「蕾の段階から黄色い素材では、早い時期から働く2’GTの存在が示唆される。もう一つは、開花と同時に働く2’GTの存在、これも想像だけど触れておく」


「2’GT遺伝子は二つあるであろう。仮説だよ」


「早い時期から働く2’GT遺伝子があれば、CHI遺伝子が動く前に黄色色素が溜まる」


「そして、CHI遺伝子が働き始めると、アントシアニン生合成経路に従いアントシアニンができる」


「つまり、黄色と赤が共存しオレンジ色になる」


「開花時期、CHI遺伝子と同じ頃に動く2’GT遺伝子があれば、それは前報で述べた通りのCHI遺伝子の壊れ方の機構でオレンジ花となる」


「これを考察に加える」


「さらに、黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの組み合わせだけではなく、黄色色素と、紫色素シアニジン3、5ジグルコシド、鮮ピンク色素のペラルゴニジン3、5ジグルコシド、暗赤色素シアニジン3マリルグルコシドと共存する花色の存在も示唆される」


「このことも、考察に入れれば面白いと思うよ」


「ありがとう、隆!」


「すごいね。さすが生命工学研究室の秀才」


「隆、晩御飯まだだろ?」


「うん」


「牛丼でもおごるよ」


「ああ、行こうか」


「そうそう。この前こずえちゃんを牛丼と一緒にお持ち帰りしたんだって?」


「あのさ……、どこからそう言う情報広まる?」

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