第69話

「おう、正、こずえちゃん」


「皆んなどこ?」


水野が帰って来た。


「レストランにいるよ」


「何で二人だけでここにいる?」


「それは……、まあ……」


「怪しい関係なんです」


「まあ、その冗談はいいとして」



「おっ、隆」


「おう、水野。勝ったか?」


隆とみどりちゃんもレストランを出てくる。


「いや、負けた。一万三千」


「最初はすぐに出たんだ。でもあっという間に飲み込まれ、その先に当たりが来ない」


「結局すられたよ」


「こんなところまで来て打つからだよ」


「いや。大学に戻ったら取り返す。いつもの店で」



「少し腹減った。ここ、レストランあるよね?」


「ああ。でも負けたんだからこずえちゃんとみどりちゃんの作ってくれた朝食の残りにしたら?」


「無駄使いはしない」


隆が優しく話す。


「いや、バナナジュースだけは飲みたい」


「ここまで来て、木で完熟した本物のバナナを口にしなくてどうする」


「ここまで来て、パチンコ打つ方がどうかしてる」



僕らは水野がバナナジュースを飲んでくるまで、また園内を散歩。


こずえちゃんが、モンステラのところでおどける。


「ばあっ!」


「何、何? こずえちゃん」


みどりちゃんが驚く。


「これ、モンステラと言って、ラテン語でモンスター、日本語で怪物です」


「でも、お化けや怪物、出てくることはありません」


「ただ、恋愛事故はこういうところで、稀に起きます」



「こずえちゃん、何を言っているのかわからないよ」


隆にはもちろん理解不能。


「正先輩に聞いてください」


「正、このモンステラに何かあるのか」


「ああ、女神様が降りてくるという伝説がある」


「本当ですか?」


こずえちゃんは目を輝かせ興味津々。


「いや、それは嘘」


「な〜んだ……、つまんない」


「ただ、花言葉に、壮大な計画、深い関係、というのがある。


「それ! それです! 降って来たんです。どっちも」



「まあ、それはいいとして、そろそろ帰るか?」


「帰りに海鮮丼。正のオススメの店に行かなきゃ」


こずえちゃんは、まだ一人で盛り上がって、友達にモンステラの写真を入れてLINEしている。余計なことを打たなきゃいいが。オケでは噂がすぐ広まる。


「あのね、みどり先輩。私、モンステラの花言葉も何も知らなかったんです。なのに、壮大な計画や深い愛が降りて来て……」


「まあまあ。こずえちゃんに何かあった、ということね」


みどりちゃんは、つかみどころのないこずえちゃんの話をお姉さんらしい笑顔で軽くかわす。



「そろそろ帰るとするか。どうする? 海に寄る?」


水野の後先を考えない皆への伺い。


「海はパス。東京湾の海は大学からでも遠くはないから、わざわざここで行かなくても……」


僕がそう言うと、こずえちゃんが、


「私、行くです。海、行くです」


「でもさ、大学に戻る時間が随分遅くなるよ」


隆の助け舟。


「そうですか……、正先輩と行きたかったのですが、諦めます」


僕はホッとする。恵ちゃんとの思い出の場所は聖地にしておきたい。


「じゃあ、藤沢に向かおうか」


「4時半頃には着くかな?」



僕らは車に乗り込み、藤沢へと向かう。



「そう、こずえちゃんとみどりちゃんの作ってくれた朝食の残り頂戴?」


「何、水野。これから海鮮丼食べに行くんだぞ?」


「大丈夫、大丈夫。俺の胃袋は宇宙だから」


こずえちゃんのおにぎらずと、みどりちゃんの卵焼きなど皆綺麗に平らげる。


「まいう〜っ」



「何か聴く?」


「そうだね、来るときは交響曲だけだったから、帰りは室内楽にしようか」


「いいね」


「みどりちゃん、何がいい?」


「ベートーベン、弦楽四重奏曲ですかね。後期の」


「後期の作品は、神への祈り。音楽となった祈りなんです」


「音楽において、バッハは神、モーツアルトは神の子、ベートーベンは神にできうるだけ近づこうとした人。神との会話はしてました」


「何番がいい?」


「そうですね、13、14、16番かな?」


「聴く順番は13、16、そして最後に14番がいいかな。14番はまさに神との対話です。異なる世界からの啓示だと、ワーグナーも称したらしいです」



弦楽四重奏曲第13番が流れる。本来の終楽章の「大フーガ」は別演奏で聴く。


「後期のベートーベン、弦楽四重奏曲。ベートーベンは時折涙で書き進めている譜面が見えなかったようです。もちろん耳も聞こえない……。叫びたくなるような孤独感、貧困、そして言葉じゃなく、ものでもない、神との音楽での対話」


「同時代を生きたゲーテは、彼の後期の作品を、訳のわからない、取り返しのつかない恐怖だと言い、19世紀においては演奏することが避けられていた部分もあったみたいです」


「しかし、20世紀に入りストラビンスキーが後期弦楽四重奏を、絶対的に現代的な楽曲、永久に現代的な楽曲と支持し、日本でも宮沢賢治はベートーベンの第9交響曲以上の傑作だと褒め称えていたようです」


みどりちゃんはとても詳しい。ベートーベンの弦楽四重奏曲を全曲弾いたことがあるらしい。



「さて、海鮮丼食べて14番が終わる頃には大学に着きますね」


「そこには、正先輩の、苦悩を超えて歓喜に至れ、があるでしょうか?」


「こずえちゃん。苦悩のきっかけはこずえちゃんだよ」


僕は小声でこずえちゃんの耳元で話す。


「あら? そうですか?」


こずえちゃんは、つら〜っとした顔をする。


「歓喜はあるよ」


僕は、ぽつんと呟く。


恵ちゃんを信じているし、彼女も僕を信じている、はず。


「私は正先輩の何でしょう?」


「取り返しのつかない恐怖かな」


「あら、絶対的に永久的に現代的ですよ、私」


「ねっ! 正先輩」


「はいはい」


こずえちゃんの香水の香りが、自分でもわかるくらいまとわりついている。


大学に戻り、シャワーと着替えだ。

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