第70話

「おかえり、正」


「おかえり、正くん」


「恵ちゃん、まだ残ってたの?」


「はい。正くんのお帰りをお待ちしておりました」


おどけた振りして研究室の机の上に三つ指をつく。


こずえちゃんの予想通りだ。恵ちゃん、待ってた。


恵ちゃんは先日の伊豆の夜と同じ、オレンジ色のワンピースに着替えている。



「くんくん。おい、正。女の子の匂い、全くしないぞ」


大樹と義雄が舐めるように調べる。


「あら? どうしてかしら。車、すし詰めだったんでしょう?」


「お隣さん、誰だった?」


恵ちゃんが僕に聞く。


「こずえちゃんと……、みどりちゃん……挟まれて」


「あら? 変ね」


恵ちゃんが首をかしげる。


「運動部のシャワー室でシャワー浴びて来た」


「証拠隠滅ね」


「いや……、その……、汗もかいたし」


「こずえちゃんの口紅だけは落ちなかったのね」


ズドン、と心臓に突き刺さる言葉。


慌てて唇を手で拭う。


「冗談よ」



「恵ちゃん。ハイビスカスみたい」


「あら? カーネーションじゃなくて?」


「うん。ハイビスカス」


慌てて僕は話を逸らす。


「私、このオレンジのワンピ、気に入ったの」


僕を焦らせるようにフフフと微笑む。


「ハイビスカスの花言葉知ってるわよね?」


「うん。私はあなたを信じます、でしょ」


「そう」


恵ちゃんは実験室に僕を招く。


軽いキス。


「私を信じさせてね」


研究室に戻ると、大樹と義雄が僕たちを見て、何かものを言いたげ。


薄々僕らのスキンシップに気づき始めている。



「さて、正くん。色素研究会のプレゼン資料と書きかけの論文、目を通して」


「うん」


よく出来ている。さすが恵ちゃんだ。


プレゼン資料は必要最低限な図表、必要最低限な文書でシンプルにまとめられている。


カーネーション黄色花の色素量の連続的な分布。そして、黄色花の3つのタイプの特徴。


オレンジ色花のカルコンとアントシアニンが生成され共存している機構も、蕾のステージと開花ステージの写真を載せ分かりやすくまとめている。


「恵ちゃん。オレンジ花色のできていく過程の写真の下に絵を入れれば?」


「絵?」


「うん」


僕はスライドの写真の下に塗り絵のような図を入れる。


黄色、赤、それが混じってオレンジ。


「あら、シンプルな図を加えるだけで分かりやすくなったね。さすが、正くん」


義雄が英語で書いている、黄色花、オレンジ花のカルコン及びアントシアニンの生合成遺伝子の発現機構はまだ筆の途中。


「正さ、スライドの英文のところ頼むよ。俺、どう書いていいかよく分からない」


「義雄、まずは日本語で書いて。俺、英訳するから」



「恵ちゃんのプレゼン資料は分かりやすくていい出来だと思うよ」


「うん。私的にも上出来」


「もう浅野教授と有田先生に見てもらうレベルだね」


「うん」


「論文の方は……」


「論文は正くんにお願いよ。私、マテメソと結果のドラフト書いたけど、イントロダクション、考察含め正くんのお・し・ご・と」


「あた〜っ」


「一ヶ月はかかるね」


「浅野教授におんぶに抱っこしてもらえば?」


「そうしようか。でも、最低限のドラフトだけは書かないとね」


「伊豆には2度行くし、夏は合宿、秋は定期演奏会。目白押しだもんね。浅野教授に頼まなきゃ」


恵ちゃんはクリクリした目で僕をからかう。



「私、そろそろ帰るね」


「そうそう、恵ちゃん。レッサーパンダのぬいぐるみ、買って来たよ」


「貧乏なのに、ありがとう」


「そういうお礼のされ方、生まれて初めてだよ」


「毎日、抱いて寝るからねっ」


「あっ! 浅野教授」


「なんだ、レッサーパンダか」


「誰か伊豆にでも行って来たか?」


「あの、先日の……」


「今日行った正くんからのプレゼントです!」


恵ちゃんがハッキリと言う。


「そうか、余裕だな」


教授は顔を見せただけで教授室に戻っていく。


「余裕だな」


ニコニコして恵ちゃんは家路につく。

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