第4章

第61話


「じゃあさようなら! 楽しかったね!」


「バイバイ!」


「バイバイ!」


箱入り娘の恵ちゃんが、ちぎれるほど手を振って帰っていった。


箱入り娘。開けてみたら、爽やかで、異性を素敵に受け入れてくれる。


本当に可愛い爛漫の女の子。


カルコン色のワンピースが小さくなっていく。



「さあどうする?」


大気が腕を組み呟く。


「何が?」


「色々と」


「順序としては、まずは来週の植物検定に向けて、猛烈に暗記作業に励む」


皆んなでうんうん頷く。


「恵ちゃんは植物同好会出身だし、暗記力も高いから200属の3級は簡単に取れる。場合により、いきなり300属の2級もありうる」


「正は、植物はあまり詳しくないけど暗記力は抜群。科名とラテン語属名くらいすぐ暗記する」


「問題は、俺と義雄だ……」


「二人とも3級は大丈夫だよ。八ヶ岳に行ったときも、二人の植物の詳しさには驚いたよ」


「いやいや、ラテン語属名の暗記の方だ。それは話が違う。スペリングのミスもダメらしい」


「そんなに厳しいの?」


「ああ、有田先生が言っていた」



「僕は実物テストが心配だよ」


「実物テストは、農場と温室に表札あるものから持って来るらしい」


「和名、科名、属名の看板がついてあるものからしか出ない」


「ランだけは別。名前も何も分からないものも覚えなくちゃならない」


「ランも、恵ちゃんに分がありそうだな」



「ところで、何だか恵ちゃんの匂い、しないか?」


大樹が突然言い出した。


「そんな感じ、するね」


義雄も同意する。


「僕は何も感じないよ。残り香じゃない、恵ちゃんの」


「いや、残り香じゃなんかない」


二人して僕に冷ややかな視線を浴びせる。


「これは、恵ちゃんの肌か服についている香水が衣に移った香りだ」


「そんなこと無いって」


「僕は席を立ち、コーヒーを入れに行く」


「ほら! 正が遠ざかると恵ちゃんの香りがしない」


僕は、大さじ一杯のスプーンを持つ手が震え、粉をこぼす。


「そうそう、車で隣だったし、大仏さまの中に入る時、服が擦れ合ったりしたから」


コーヒーを入れ、適当に誤魔化すように二人と離れた机の椅子に座る。


「正。そのまま、そのままだぞ! 動くなよ!」


二人が近寄り、僕の首筋や頬のあたりを舐め撫でるかのように、顔を近づけクンクンと匂いを嗅ぐ。



「何してるんですか? 男同士で?」


有田先生が微笑んで来る。


「あっ、先生。正から、甘い危険な香りがするんです」


「まあ、そんなのはいいとして、植物検定ですが、教授が来週と来月を間違えたようで、来月すなわち6月からでいいとのことだよ」


「よかった。3人して胸を撫で下ろす」


「その代わりに注文があって、カーネーションの黄色花、オレンジ花に関する研究、まとまり次第論文化せよ、とのこと」


「これは面白い! 帰国後の第一声だったよ」


「論文はもちろん英文。秋の学会発表前に、つまり7月末までにどこでもいいから海外雑誌に投稿せよとのこと。うまく書けなければ俺が書くと浅野教授が言っていたよ」


「先生、物事の力の入れようの順番、どうしましょうかね?」


僕が有田先生に尋ねる。


「全部大事だね」


「それ、答えになって無いですよ、先生……」


「ペーパーの投稿の件については、教授から指示を受けてね」


「あと、色素研究会の原稿締め切りは6月末、秋の学会の原稿締め切りは7月末だから。よろしく」


有田先生が、いつもの癖を見せながら自分の研究室に帰る。


「まあ、いずれにせよ忙しいに変わりない」


僕の言葉に二人頷く。


「俺、気分転換にサークル行ってドラム叩いて来る」


「そう、大樹、学校祭に出るんだもんな、無理するなよ」


「正には言われたく無いよ。正のオケよりマシだろ」


「そうなんだよ、8月には合宿もあるし……」


「まあ、8月でよかったじゃないか。7月末まで、皆で地獄を味わおう」



「ところで、残り香の件だけどよ、正」


「その話は、お・わ・り」


「いやいや、終わらない。俺と義雄で、恵ちゃんを正から守る」


「何を守る?」


「貞操を」


「僕がそんなことする訳ないじゃない」


心とは全然違う言葉。神様、僕は嘘をつきました。



「まあ、大樹よ、僕もオケの部室に行くから一緒に行こう。音楽練のお向かい同士」


「義雄は?」


「俺、ここで勉強してる。CHI 遺伝子とDFR遺伝子のノーザンのスライドなど、タイプごとに綺麗に分かりやすくまとめておくよ」


「それ以外にもやることあるし」


「工学部にでも顔出せば?」


「ああ……、それもありかな」


研究室を出たところ、


「あっ! 歩ちゃん」


「こんにちは」


「ごめんね、これから僕たちサークルなんだ」


「余裕ありますね。伊豆のすぐ後サークルですか」


「いや……、あの……、余裕なんて全然無いんだ。だからサークルに向かう的な……」


「大樹さんたちの余興のビデオ見ました。仲のいい後輩が送ってくれて」


「ほんと、抱腹絶倒ですね。皆んな面白い。明石さんにも大受けしてました」


フフフ、と上品に微笑む。


「ビデオまであるの!? 怖い世の中だね。悪いことできない」


「なあ正、影で悪いことできないんだよ」


「私、大樹さんのドラム、見に行っていいですか?」


「えっ? あの……、いいよ……」


「ビデオに撮るかも」


だんだん歩ちゃんも誰かさんに似て小悪魔的になって来た。


「まあ、行こうか」


3人してサークル練に向かう。


オケの部室の外に隆、こずえちゃん達がいる。


「やあ、こずえちゃん」


「あっ、正先輩」


こずえちゃんが近づいて来る。


「くんくん。女の匂いがするです」



「正。晩飯がてら飲みに行かないか?」


隆の誘い。


「飲みに行かないか?」


「こずえちゃんも行くの?」


「行くです。伊豆のビデオ見ました」


満面の笑みのこずえちゃん。


「あた〜っ。ほんと、表でも影でも悪いことできないね」


僕はふと、恵ちゃんとの伊豆の夜の海を思い出す……。

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