ハムスター漂流記
セルコア
第1話 荒野の出会い
ハムスターは可愛すぎるので、野生では絶滅してしまったという……
「うんち」
今荒野を走っているのは、絶滅を免れた数少ないハムスターの生き残りだった。しかし彼は、緊急事態に陥っていた。
「うんちっち!」
ハムスターは決められた場所以外ではトイレをしない。そう、裏を返せば、トイレ以外の場所では用を足せない……そういうことになる。
「でもまあ、いっか!」
そんな自然の摂理もナレーションも無視して、そこら辺の岩場で盛大にウンチを漏らすハムスター。いや、彼の頭の中では、漏らしているのではない、いまや自然そのものが彼にとって巨大なトイレそのものなのだ。この瞬間だけ、世界はデッカいトイレと化したのだ。そういうものだ、世界とは。生命はいつか死体となる。世界だっていつか遺体安置所になったっておかしくないだろう?
「そういうむずかしいこと、よくわかんないや」
無制限かと思える量の糞を、無感情に垂れ流してゆく。その瞳には無情なる荒野の光景以外に映ってはいない。
「やっべ……気持ちいい……」
虚ろな目の表情に全く変化はない。しかし、見るものには何となくその表情・感情が分かってしまうのだ。排泄の快感に酔いしれていたからだろうか、彼の背後に忍び寄る影に、全く気づけなかった。いきなり何者かが排泄中の彼を掴み取る。
「うわ〜、かわいい!!」
なんだ、アホガキかよ、一瞬蛇か猫かと思って本気でビビったけど、損したな――むろん、そんな心の思いを顔に出したりしない。目の前の少女がこのハムスターの本心に気づくことは一生ないだろう。
そう、ハムスターには表情を人間に読まれないだけでなく、人間に対して強制的に好意を抱かせてしまうという魔力に近い魅力があった。これによって、人間による乱獲が開始、ハムスターはその数をペットとして増殖させるも、野生のハムスターはほぼ絶滅にまで追い込まれることになったのだ。
ハムスターはペットとして人間に飼育される日々を過ごしていたが、ただ単に漫然と過ごしていたわけではなかった。ハムスターと言えば回し車だが、人間の与えた暇つぶしの道具が、ハムスターに驚異的な進歩をもたらしたのだ。
かつて人間が道具を発明したことにより、道具が人類を進化させたように。今度の道具は、ハムスターを進化させたというわけだ。
ハムスターの驚異的な回し車の回転力は、やがてハムスターの中に‘‘知性’’と呼んでいいものを生み出した。しかし、ハムスターのあの無表情から知性を読み取れるほど、人類はハムスターのことを意識していなかったし、ましてやそこまでの知能を持ち合わせていなかった。
変化は知性だけではなく、ハムスターの肉体にも起こっていた。回し車の限界まで高められた回転力にさらされ続けることで、ハムスターの体内にエネルギーの渦が生じた。これは最終的に背中付近に集中し、やがてそこから脊椎を痛めるものが続出した。そう、まだハムスターは回し車の環境変化に対応できずに、その屍をさらした。しかし、ハムスターの寿命が短いことが、ここでハムスターの進化を推し進めた。人間にとってはわずかな時間であっても、ハムスターにとっては長い世代交代が可能だった。人類がハムスターをペット化して1世紀頃――100年という時間は人間にはさほどの遺伝的変化をもたらさなかったが、ハムスターはその間に、人間なら10万年単位の進化を遂げた。その結果、肉体が回し車に完全に適応した。回し車で発生した巨大なエネルギーの渦は、ついに頬袋に備え付けられた進化の最終産物――マイクロ・ブラックホールに完全に吸収されることで、無害化のみならず、いつでもマイクロ・ブラックホール内に蓄えられたエネルギーを引き出すことにより、強力な技を身につけることが可能となった。それは人間が直立二足歩行したおかげで、両手が使えるようになったことに等しいくらいの多様な技をハムスターにもたらすことになるのだが……
歴史とは皮肉なものだった。あれだけ隆盛を誇っていた人類だったが、その絶頂のさなか、急速な黄昏を迎えることになってしまった。今や人類の文明は、廃墟の山を残すのみになった。代わりに地球上を支配したのは、凶暴化したかつての動物たちだった。保護者がいなくなったハムスターは、たちまち絶滅の危機に瀕してしまった……彼らはまだ、自分たちが進化して身につけた力を、うまく使いこなせなかったからだ。ハムスターには爪も牙も毒もない。美味しそうに太ったお尻をフリフリさせているハムスターは、捕食者たちにとってはコンビニの弁当ほどの気軽な餌でしかなかった。
「う〜ん、ほら、かわいいね〜!」と言いながら、少女の顔がハムスターに押し付けられる。
勘弁してくれよ! 彼は心の中で叫んだ。さっき毛づくろいしたばかりなのに……
「ふにゃふにゃふにゃ〜〜〜〜!!!!!」
そんな彼の願いも虚しく、少女の手の中でもみくちゃにされるハムスター。毛並みが乱れるどころの騒ぎではない。きっとお気に入りのメスからは臭い体臭を嫌われるだろう。こいつのせいでフラれらたら、こいつをぶっ殺してやる、そう思っていた。少女がお菓子のクッキーを取り出すまでは。
「ねえねえ、これ食べる?」
少女が一日中廃墟の中を探し回って探し出したのが、この缶詰のクッキーだった。瓦礫の中の隙間に埋もれていたので、少女が入り込むまでは誰も手をつけられなかった。クッキーというよりカンパンというものだ。だが、《大崩壊》以降に生まれた少女にとっては、クッキーでも何でもよかった。
そそくさと逃げ去ろうとしていたハムスターだったが、 少女の指先にあるものが、何やら栄養価のありそうな美味しいそうな食べ物であるかもしれないと知ると、もはや食欲を抑えきれない。鼻をひくつかせながら、クッキーのかけらに首を伸ばす――どうやら、毒はなさそうだ。特に臭いはしないが、穀物のパサパサした感触は伝わってきた。ハムスターはパサパサした食べ物が大好きだ。
とりあえず、少女の差し出したものを軽く嚙る……なかなか美味しいかった。気がつくとなくなってしまった。そして気がつくと少女の指を夢中で嚙っていた。
「イタタタ! それはクッキーじゃないよ、指だよ!」
ハムスターはハッとして指から口を離した。
「もう食いしん坊なんだから……」
テヘッ、という表情を醸し出しておく。無論、実際の表情筋などが動くわけではなく、これもそういうイメージを空気中に漂わせることでそれとなく人間に伝えた。
待っていると、次のクッキーのカケラが差し出された。
そうだ、人間ども……俺に餌を差し出せ……!
むろん、この感情は人間には送信しないでおく。代わりに「かわいい僕は、おなか空いてたんだ❤」という雰囲気を放出しておく。
その努力あってか、しばらくの間、少女とハムスターの一方的な贈答関係は続いた。
しかしその関係は、“クッキー”がなくなるより早くに訪れることになる。空から急降下してきたソイツは、ハムスターだけをかっさらっていった。
変異した、かつてはスズメと呼ばれていた生物だったが、今では小型の鷹くらいの大きさにまで巨大化していた。
通称、ハゲ雀。《大崩壊》の影響で精神的ストレスを受けた雀は、頭が禿げてしまった。また、体が大きくなったが食欲は変わらなかったせいで、非常に貪欲な生物へと変貌、死体やゴミなど何でも漁る性格から、人類は崩壊前の世界にいたハゲワシを連想してそう名付けた。
今やそのハゲ雀のかぎ爪にガッチリと掴まれたハムスター……かぎ爪に攻撃しようとするが、口は届かない。手は届くが、ハムスターの爪で引っ掻いたくらいでは、ハゲ雀の分厚い鱗は何のダメージも受けないだろう。
(まだ死にたくないっち……)
かつての鳥類はハムスターの天敵であったが、今の完全進化を遂げたハムスターの前には雑魚に過ぎなかった。普段なら全く問題なく対処できたが、あのクッキーに気を取られていたせいで、不覚を取ってしまった……
マイクロ・ブラックホールにエネルギーが渦巻くのを確認したが、エネルギー波を放出してもハゲ雀に命中しそうになかった。口が完全に下を向いている。これではハゲ雀には当たらない。何とか口を持っていこうとするが……
「おい、おとなしゅうしとれや」
わき腹にさらに鉤爪が食い込んだ。あまりの痛みに、思わずさっき食べたクッキーを吐きそうになる。
だが、このまま黙ってエサになるわけにはいかない。何せまだ抱きたいメスがいるのだから。ここでハムスターは最後の手段に打って出た。
「ね、君、取り引きしようよ」
話し合いである。ちなみにこれは動物共通語(アニマリッシュ、通称A語)で行われているため、設定的に矛盾はないと断言しよう。安心して読んでくれていい。
「……」
ハゲ雀は何も答えない。ひょっとして聞こえなかったのかも……
「ねえ、君にとってもいい提案があるんだけど!」
わき腹を押さえられているため、かなり声が出しづらい。しかし聞こえる程度の音量は出せたはずだ。
「……」
いや、絶対に聞こえていたはずだ。
「ねえってば!」
「……何やねん」
やっと答えが返ってきた! 無視されるとどうしようもないから、まずは第一歩といっていい。
「取り引きしよう。君にとっても悪くない話だよ」
「何やねん、ええからはよ死ねや」
(エサ的に考えて)マズい返答だが、まあ最初はこんなものだろう。
「僕よりも、もっとおいしいエサがあるよ」
「……」
「ねえ、食べたくないの?」
「お前の頬袋の中にあるやろ。引き裂いて食ったるわ」
「やだな、そんなのもうなくなってるよ」
「じゃあ、どうやってそのエサ食うねん」
「僕はその場所……正確にはエサを所有している動物を知ってるよ」
ハムスターから見れば、人もまた動物の一種に過ぎない。ハゲ雀からの返答はないが、確実に喰らいついる。興味があるゆえの、催促の沈黙に過ぎない。所詮、“全ての”動物は食欲で動いているのだ。
「人間の小さいメスガキが、“クッキー”というエサを持っているんだ」
「人間からどうやって奪うんや。お前は戦力にならんし、ワイも人間相手にできるほど強かないで」
確かに、体重差でいうといくらハゲ雀でも人間を相手にするのはキツい。
「別に、戦うだけが手段ではないんじゃないかなぁ」
「どういうことや?」
フヒヒ、こいつ完全に喰らい付いてんじゃん! 楽勝っぽいね!――心の中でひとりほくそ笑むハムスター。
「僕には人間を虜にする魅力がある。つまり、人間から見れば僕はかわいくて仕方ないというわけさ」
「自慢じゃ腹は膨れへんで」
「まあまあ、ここからだよ。僕がかわいさで人間を引きつける。とびっきりの“カワイイポーズ”で目を釘付けにするから、その隙をついて君がクッキーをかっさらう! どうよ、この作戦!?」
「まあまあええんちゃう」
よっしゃああああああ!! もうあともうひと押し!
「よし、それじゃあ、決まりだね。さっきの人間のところへ戻ってよ。それと、掴む力をちょっと緩めてもらえないかな。お腹のあたりが窮屈なんだ」
言った瞬間、さらにキツい力でかぎ爪が食い込んできた。
「ちーーっ!」
ハムスターは思わず素の叫びを発した。ハムスターはびっくりした時などは本当にこのように鳴くので、本当かどうか気になる方はハムスターに嫌われない程度にビックリさせてみよう。
「ゴメンやけど、今日は焼肉の気分やねん。スイーツはもうええんや。なんか口の中が焼肉モードになってしまうこと、あるやろ? 今日はそんな日や。それにな、子供らもおるし、立派に育って欲しいから、甘いもんばっかり食わして甘やかすわけにもいかんやろ?」
「ちーーーーーーーっ!!!!!」(約束が違うじゃないかーーーーーー!!)
「約束なんか何もしてへんで。ホンマかどうか、今までの会話読み返してみい」
確かに、まだ約束はしてなかったけど……これはあまりにも酷い仕打ちだ。
(ハゲのエサになって死ぬとか、いやだ……)
すでに涙が溢れてきて、荒野の光景に悲壮な潤いが戻った。蜃気楼より虚しい潤いが。
「悪いな」
その声は全然悪びれた様子もなかった。
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