朝焼けと聖女は踊る
神連カズサ
第一章、二人の聖女
一、血塗れの聖女
轟々と燃える灼熱の丘に、少女は立っていた。
刃に飛散した血を拭うこともせず、ただ己に向かってくる奇怪な獣を、斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返す。
「燃えろ。そして塵となれ」
少女が低い声でそう呟くと、緋色に染まった刀身が辺りを眩く照らした。
その後には灰も残らず、彼女の宣言通り、塵と消えた獣が風に煽られて天に帰る。
「……」
呆然としてその一部始終を見つめていたのは、彼女の副官を務める騎士だった。
「帰るぞ」
「……はい」
細腕で倒したとは思えないほどの数の骸を踏み付けながら、少女は彼を引き連れて帰路へと着いた。
「おかえりなさい、マリア」
「ただいま。大聖女(マザー)・ユミル」
出迎えてくれた女性にマリアは抱き着く。
芳しい花の香りに、彼女が今日向かったであろう土地の名前を言えば、くすくすと声が上がった。
「相変わらず、鼻が利くのね。それなら、今日の夕飯が何かも分かるでしょう?」
「もしかして、ビーフシチューか!? そうか! そうなんだな!!」
「ふふっ。その前に身体を清めていらっしゃい。アッシュ、貴方もよ」
マリアの斜め後ろに控えていた騎士に、ユミルが笑いかけると彼はこくりと頷きを返した。
「行きますよ、マリア様。そのような汚れた格好で子供たちの元に行かせるわけにはいきません」
「チッ。つまみ食いぐらいさせてくれても構わんだろう!」
「ご自身の恰好をご覧になってから仰ってください」
「そこまで汚れていないはずだ」
「白い服を着ていらっしゃることをお忘れか?」
アッシュの指摘に、マリアは唇をへの字に曲げた。
別に好き好んでこの色を纏っているのではない。
ただ、次元の獣に気付かれ難い色が白であるために、白で統一された衣装を身に纏っているだけなのだ。
「さ、お早く。夕刻の舞も踊らねばならんのですから」
「分かった! 分かったから、押すな!!」
ぎゃいぎゃいと、二人が帰ってきただけなのに、教会の中は途端に賑やかさを増す。
ユミルは二人の背中を微笑みながら見送った。
配膳の支度に取り掛かろうと、食堂のある建物に向かおうとしたユミルを鈍い頭痛が襲う。
『ユミル』
頭の中で響いた声にユミルの表情が強張る。
「何でしょう? シスター・ナギ」
『その呼び方は止めろと……。いや、今はそれどころじゃない。大型を一体逃がした。悪いが、そちらで対処してくれ』
「分かりました」
『いつもすまない』
頭痛が引いていくのと同時に声は聞こえなくなった。
一昨日から今日まで休みなく働いてくれた二人を呼びに行かなければならないのかと思うと少しだけ憂鬱だったが、ナギが零した『大型』という言葉にユミルは自身を叱咤した
手洗い場に行くと顔を洗い終えたばかりのマリアが、アッシュから乱暴な仕草でタオルを受け取っていたところだった。
「聖女(シスター)・マリア」
ユミルの固い声に、マリアの赤い眼が猫のように細くなる。
三日月のようになったそれに、ユミルが二の句を告げるべく口を開くと彼女は首を横に振った。
「良い。オレもさっき聞いた。直ぐに向かう」
「帰ってきたばかりなのに、ごめんなさいね」
「構わない。それがオレの仕事だ」
二人のやり取りにアッシュの表情が陰った。
宵闇が薄絹を靡かせようとする時間帯に出かけることがどういうことであるのか、知らない彼ではない。
「アッシュ。貴方はどうします?」
辛いようなら、誰か他の者を、と続けられた言葉に、アッシュは溜め息を吐きながら弱弱しく首を横に振った。
「マリア様が行くのに私が行かないわけにはいきません。お供します」
灰色の瞳には疲労の色と、正義感に燃える炎が入り混じっている。
ユミルは満面の笑みを浮かべると今夜の守衛騎士の一人を呼び出し、マリアたちに馬を持ってこさせるように言った。
守衛騎士は厩から上等な二頭を選んで持ってくると、マリアとユミルに一礼して持ち場に戻っていく。
「ビーフシチュー残しておいてくれ」
「ええ。分かったわ」
「じゃあ、行ってくる」
栗毛の馬の腹を蹴ってマリアが先に外へと飛び出した。
「行ってまいります」
「気を付けてね」
「はい」
ぺこり、と頭を下げたアッシュが遅れて彼女に続いた。
「女神サラのご加護がありますように……」
そっと顔の前で十字を切って指を組む。
もはや何度目の祈りになるか分からないそれは、片手を超えたあたりで数えることを止めてしまった。
以前は大好きな姉にだけ捧げられた祈りも、今や数千を超える組織に向けてのものに変わった。
ここは姉が自らを犠牲に守った世界。
ならば、それを守るのが妹であるユミルの責務であった。
ナギが魔王と共にこの世界を発つ折、ユミルは後のことを彼女に任されたのだ。
崩壊した教会を立て直すも、新たな組織を作るも良し。
ただ、お前が笑顔で生きていてくれるのなら、それで俺は充分だと彼女は言った。
その本心はきっと「一緒に来い」と言いたかったに違いない
だが、彼女はそれをユミルには告げなかった。
誰かがこちら側に残って、後始末をつけなければいけないことを分かっていたからだ。
ユミルは姉の心を正しく汲み取った。
『シスターは私を助けてくれた。なら、今度は私がシスターを助ける番だね』
まだ幼かったユミルにはそう言うのがやっとだった。
それから数年の時を経て大人になった彼女は、散り散りになってしまった教会の人間を少しずつ集め始めた。
反魔族的思考は間違いであること、これからは人間も魔族も差別なく生きていこうと、ナギの思想をゆっくりと丁寧に世間へ浸透させていく。
そうして二十年かけてユミルが今の教会を完成させたとき、その声は聞こえてきた。
『ユミル』
懐かしいナギの声に、ユミルは最初疲れている所為で幻聴を聞いたのだと我が耳を疑った。
だが、自分を呼ぶ声は次第に大きさを増し、幻聴ではないことを告げる。
『ありがとう』
たった五文字の言葉に込められた想いに、ユミルは頬を涙が伝うのが分かった。
その時はそれっきりで、ナギの声は途絶えてしまった。
だから、再びその声を聞くことになるとは夢にも思っていなかったのだ。
マリアを教会の前で拾ってから十五年。
ナギの声を初めて聞いてから実に三十五年ぶりに、再び彼女の声を聞いた。
『すまない、ユミル。厄介ごとを任せる』
「え?」
『境界に住まう獣をそちらの世界に逃がしてしまった。悪いが自力で何とかしてくれ』
場所はお前の千里眼を使えば分かるはずだ。
早口で告げられた予想もしていなかった言葉の羅列に、ユミルは暫く呆然とした。
だが、姉が告げた言葉の意味をゆっくりと咀嚼すると直ぐに選りすぐりの騎士を魔物が落ちた場所に向かわせた。
戦況はこちらが圧倒的に不利だった。
今まで戦ってきた魔物が可愛らしく思えるほど、次元の獣は強く、歴戦の騎士も歯が立たない有り様である。
三日三晩の戦いで、負傷者は五十名を超えた。
いよいよ戦えるのは碌に武器を持ったことのない女だけになる、そう思った矢先――奇跡が起こった。
マリアが魔物を一刺しで仕留めたのだ。
それは電光石火の如く、突然のことだった、とその場に居た騎士は言った。
負傷者の怪我を手当てしていたマリアが、不意に走り出したかと思うと、戦場に転がっていた大剣を手に魔物を一閃。
返り血を真面に浴びた凄まじい姿で帰還した彼女と、ナギの姿が重なる。
「……シスター」
気が付けば、彼女のことをそう呼んでいた。
それからのユミルの行動は早かった。
ユミルは彼女を本当に聖女の役職に就けると、その下に優秀な騎士を集わせ「紅蓮の騎士団」を結成させたのだ。
そして、ナギからの言葉を彼女に伝え、獣を討伐に向かわせる。
いつからか、気が付くとマリアにもナギの声が聞こえるようになっていた。
どうやら、獣の血を浴びたことによって彼女の居る境界と縁が結ばれたらしい。
ナギは巻き込んでしまって悪い、とユミルに言ったが、それに対してマリアは顔を顰めて言ったのだ。
「どうして貴女が謝る? その獣は貴女が生んだものではあるまい?」
至極真っ当な意見だった。
だが、獣を異界に放たないことがナギの使命であることを知っているユミルは苦笑を浮かべることしか出来なかった。
今でもあの日のことを昨日のように思い出せる。
ふふ、と一人思い出し笑いを浮かべたマザーは娘のような、妹のような少女のためにビーフシチューを取り置きしてやるべく、食堂へ急いだ。
大型、と告げられていた次元の獣は予想以上に大きかった。
途中で二つの部隊と合流したマリアは、やや表情を曇らせて雪原で我が物顔をするそれを睨む。
「オレが第一部隊で正面を抑える。マーブル卿は第二部隊を連れて後ろへ回れ」
「はっ!」
「行くぞ!」
獣は総じて視力が弱い。
こちらの世界に流れ込んだ獣が十頭目になったとき、マリアはそれに気が付いた。
そして獣が見え難い色が何色であるのかを幾つか試したのだ。
その結果が白だった。
鎧を全て白で揃え、緋色の大剣を背負う華奢な身体は宛ら戦場に咲く百合の花のようだ。
『紅蓮の騎士』から『白百合の騎士』に改名してはどうだ、という案もちらほら出ているようだが、マリアはユミルから貰った名前を変えるつもりはない。
目前に迫る獣を鋭い目つきで睨みながらも、口元には笑みが浮かぶ。
恐らくあの大型は自分の周りに何があるのかもきちんと把握できていないはずである。
そこに白い鎧を纏ったマリアたちが接近しても風の流れが変わった程度にしか捉えないはずだ。
坂道を凄まじい速さで駆け降りるマリアたちを横目に、アッシュは第二部隊を連れて獣の背後へと回り込んだ。
正面からの威圧感に、獣がゆっくりと後ろ脚で地面を探る。
「迦楼羅(カルラ)!!」
マリアの声に、彼女のイヤリングが赤く燃えた。
ゴウッという音と共に、マリアが柄を握る大剣に炎が宿る。
「一気に決めるぞ! オレに続け!」
聖女の号令に、野太い男たちの「おお!!」という叫び声が続いた。
赤い炎が獣へ襲い掛かる。
それを合図に、騎士たちは己が刃を獣の肉に滑り込ませた。
「~~~~!!」
言葉では表せないような特徴的な断末魔を上げて、獣が絶命する。
今宵も殿を務めた聖女はその身を獣の血で染めていた。
「チッ。せっかく着替えたのに、また汚れちまった」
「気休めにしかなりませんが、これで拭ってください。せっかくの美しい顔が、見るも無残なことになっています」
「……一言、いや三言くらい余計だ!」
乱暴な手付きでアッシュから差し出されたタオルを受け取る。
そして顔を拭こうと近付けた段階で、それが先程教会で顔を拭ったものであったことに気が付いた。
「おい、卿(サー)」
「何です?」
「既に汚れているタオルを差し出すとはどういう了見だ」
「時間が無かったので、替えを掴んだつもりが間違えてそれを持ってきてしまったんですよ。汚れているとはいえ、何もしないよりはマシでしょう。我慢してください」
「……」
「そんなに顔を洗いたいのなら、川にでも行けばいいでしょうに」
「オレに凍死しろと!?」
「誰もそこまで言ってないでしょう? サッと洗って、サッと拭えばいいんですよ」
とても手柄を立てた上官に対する態度とは思えない。
マリアはムッと唇を尖らせると、既に帰る支度を始めた彼の背中にべえ、と舌を突き出した。
言われた通り、行軍途中で見つけた小川で顔を洗おうと、真新しい白の絨毯を踏みしめる。
『なあに、その顔。ちっとも可愛くないわよ』
冷たい水の中にいざ手を入れようとしたマリアを、くすくすと笑う声が引き留める。
「煩い。元からこんな顔だ」
『また、アッシュ坊やに叱られたのね。貴女って本当に分かりやすい』
「叱られてない!」
『はいはい。あら、そんな冷たい水に手を入れちゃ駄目よ。ほら、私の火を貸してあげる』
声は笑いながらそう言うと、マリアの手が燃えるように熱くなった。
ありがと、と膨らんだ頬のまま礼を告げると、氷点下の水の中に手を突っ込む。
高くなった手の温度のお陰か、生温かい水がマリアの頬を汚した血を洗い流していく。
さっぱりとした顔を汚れたタオルで拭かねばならないのが、少しだけ気に入らなかったが、マリア自身のタオルは既に赤く染まっていて使い物にならない。
仕方なくまだ汚れが少ない方の面でガシガシと顔を拭いた。
ふわり、と知らない香りがマリアの鼻腔を刺激する。
(……アイツの匂い、か?)
男のくせに、香水でもつけているのだろうか。
存外に良い香りがするタオルをフンフンと鼻を鳴らしながら堪能していると、すぐ後ろに誰かの気配を感じ取って、顔を上げる。
「……皆が待っています」
アッシュが眉間に皺を寄せて、マリアを睨む。
「ああ」
何食わぬ顔でタオルを彼に差し出すと、彼は更に眉間の皺を深く刻んだ。
そんなアッシュの様子にマリアは目もくれず、自分の馬の方へと向かった。
彼が眉間に皺を寄せるのは最早癖のようなものだ。
今更指摘したところで治るはずもなければ、最悪小言が増える場合がある。
触らぬ神に祟りなし。
そう決め込んで無言で鞍に跨った。
「待たせたな。帰ろうか」
教会を発ったときはまだ仄かに明るかった空も、今やすっかり漆黒の闇に染まっている。
黒く分厚いカーテンを見上げて、マリアはスッと目を細めた。
『すまない。助かった』
宝石のように散りばめられた星々の間から声が降ってくる。
「そちらは片付きましたか?」
『ああ。お前たちが昼間に倒した獣が核だったらしくてな。すぐに終わった』
「それは良かった」
姿見えぬ相手と言葉を交わすマリアを見ても、騎士たちは誰も動じない。
唯一、新任の歩兵たちだけが不思議そうな顔をして彼女を見ていた。
「それでは、教会に帰還します。暫くは獣も大人しくなると思いますが、何かあればすぐにお知らせください」
『助かる。いつも悪いな』
「いえ、これがオレの役目なので」
『……そうか』
「ハイ」
それきり、ナギの声は聞こえなくなる。
マリアはふう、と短く息を吐き出した。
ナギと話をするのは嫌いじゃない。ただ、戦闘が終わって間もない時は体力を消耗しやすいのか、少しだけ疲れることがあった。
「ナギ様は、何と?」
馬を走らせて隣にやって来たアッシュに、マリアは肩を竦める。
「いつも通りだ。あちらは片付いたと仰っていたが、酷く申し訳なさそうに礼を言われた」
「また、ですか」
「ああ」
ナギは、マリアが気にするな、と何度伝えても、いつも申し訳ないとその声に悲痛な音を滲ませている。
たった一人で獣の相手をしているナギのことを想うと、マリアの胸は酷く痛んだ。
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