第6話 獏奇(バク)がマルチ燕(ツバ)くらめ

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 私とて最初からあんなよくわからない通称カツブシなんていう明らかに煙たそうな離れ小島に属していたわけではない。簡単に言うと引き抜かれた。選抜の表向きの理由は口の堅そうな新入りということだったが、口の堅そう、と新入り、の間に省略されている言葉があったのだろうと想像に難くない。何も知らなそうな馬鹿な、という。

 私に眼を掛けてくれていた一課長は当然いい顔をしなかったが、一課長の人事をどうのこうのできるそのさらに上からの辞令だったらしく、そもそもこの建物内に異を唱えられる然るべき権利を持った手と足は存在しなかった。

「噂には聞いとったがな」一課長は私にだけ聞こえる声で教えてくれた。「あんま気持ちのいいこたしねぇって。お前さんならどこ行ってもその殺人光線でなんとかなっちまうかもだが」

 通称カツブシには詰所もデスクも存在しなかった。新しい上司が私に顔を見せるのは稀だった。連絡はほとんど電話とメールでやり取りした。やり取りというよりは、一方的に上から下に下りてきた。雨のように、雪のように。

 新しい上司は私に名乗らなかった。コードネームらしきものもないようだった。使い捨てる手と足に名乗る名前なんかないだろう。

 いつだったか。やり甲斐がないわけではなかったが、どうしても気持ちの整理がつかない案件があった。職務放棄ではないが、なんとなく夜の街に出かけた。夜のパトロールと言い聞かせて。

 まともな営業の店舗は軒並み20時には閉店するので、こんな時間に開いているのはまともではないほうの店だ。明かりに群がって若者が屯している。ついつい職業病で彼らの年齢を推し量ってしまうが、結果は別の課に押し付けるとして。

 ふと、眼が行った。職業病に裏打ちされた勘からではないと、信じたかった。

 少女は、

 道に向かって立っていた。

 眼が離せなくなった。

 ずっと見ていたかったが、ずっと見ているには理由が要る。

 私の身分を明かせばおそらく少女を二度とこの場所で見かけることはなくなる。

 考えろ。

 如何わしい目的以外で、私が少女を見続けられる大義名分を。

 考えても考えても。

 如何わしい目的以外が浮かばなかった。

 結局、私は少女を家まで連れて来た。攫ったと言われればその通りだし、如何わしい目的があったかと問われれば否定できない。事実として、少女は私についてきた。

 玄関で靴を脱ぐ前に、少女は服を脱いだ。順番が逆だろう。私はそれを指摘したが、どうせ脱がせるのだから、破られたり汚される前に脱いでおきたいと少女は主張した。理は適っていた。しかし、私側の理にはまるで適っていない。

「服を着なさい」私は廊下の照明を消した。

「がっかりしましたか」少女が言う。「電気も点けてくれていいですよ。見てもらったほうがはっきりしますから」

「服を着て、靴を脱いで上がってきてくれ。電気はそのあとだ」

 しばらく押し問答をしたと思う。少女は譲らない。私も譲らない。

 私が折れるしかなかった。

「わかった。裸のままでいいから上がってきてくれ」

 少女の足の裏が廊下の床をすれる音を聞きながら、私は居間に入ろうとした。

「ベッドじゃないほうが好みですか」少女が言う。

「たぶん」

 いい加減説明するのが面倒になっていた。しかし、如何わしい目的を全否定できるだけの余力が残っていないのも確かだった。なるようになれ。

 私は照明の明かりを限界まで絞ってからソファに腰掛けた。空調は、と思ったが季節柄しばらく全裸でいようと体調に影響ないだろう。

「座ってくれ」正面でも横でも。

「そこじゃなくて?」少女が言う。私の膝の上を見ている。

「どこでも」

 少女は躊躇いなく私の膝の上に乗った。何も身につけていない姿で。後ろ向きに。

「がっかりしたというのはどういう意味だ?」手の置き場がない。ソファの上の空気を握り潰す以外に。

「電気つけたほうがいいですよ」少女が言う。

「説明がしやすくなるのか」

「それか」少女の手が私の手を誘導する。「直接触ってもわかると思いますが」

 なんかもうどうでもいい。いまさら照明を調整するのも面倒くさい。だいたいリモコンをどこに置いたか覚えがない。

「好きにしてくれ」

「何歳に見えますか」少女が私の手の平を自分の胸部で固定する。

「十代だな」

「発育が遅いと思いませんか?」少女が言う。

「人それぞれじゃないのか」できるだけ手の平に感覚を集中しないように。

「何もないでしょう? 僕を」僕?「女だと思って拾って来た人はもともとこうゆう身体を求めているので特に大丈夫なんですが、その逆に、僕を男だと思って拾って来た人はここを」もう片方の私の手を、少女は自分の股に置いた。

 指を。

 内部に挿入する。もちろん、私の指だ。

「見てがっかりするんです。なんだ、女か、って」

 少女の手を振り払う気力が残っていなかった。という言い訳。

 更に奥に。

「がっかりするというのは、そういう意味か」

「がっかりしましたか?」少女は首をねじって私を見る。

 眼が慣れてきた。慣れなければよかった。

 もしこれを誰かが偶然目撃したとしよう。

 私は一発ですべてを失う。

「もういいだろう。離してくれ」

「がっかりしたかどうか聞かせてください」少女の力はかなり強い。「返答を聞いてこのあとのことを考えます」

 この一連の行動はすべて、少女なりのアンケート調査のようなものだったのだろう。やや方法が過激だが。何度もやるうちにこの方法が一番無駄がないと最適化されてしまったのだ。

 無駄がない。少女を拾うような性犯罪者は、この段階で我慢がならない。

 さっさと襲って、さっさと終わる。

「君はどちらに見られたいんだ?」

「どちらだと思います?」少女はまだ私の手を離そうとしない。「あなたが望む方に合わせます」

 指が食らいつかれている。

 指が平板をなぞらされる。

「君は女子の格好をしていたと記憶しているが」玄関に脱ぎ捨てられた服。

 捨ててあるのではない。おそらく、置いてある。

 逃げるときに、持って行きやすいのは玄関に置くこと。

「このほうが、がっかりされにくいので」少女が言う。「ここまで時間をかけるのはおにーさんが初めてです。もしかして、初めてですか?」

 なんと答えたら、両手を解放してくれるのだ。

「がっかりはしなかった」私は正直に言った。「君を見たときに、女だとか男だとかはあんまり意識しなかった。意識というか、何と言えばいいのか。少なくとも、がっかりはしていないよ。がっかりというなら、段取りが一気に飛ばされてしまったことくらいかな」

 両手が解放される。少女の力が弱まった。隙を突いた。

「攫ってきておいて今更だが、私は君にすごく惹かれている。一目見たときから目が離せなくなった。君をもう少し長く見ていたくなって、連れてきてしまった。だからこうゆうことをするかどうかは、言い訳に聞こえるかもしれないが、二の次だった」

「本気で言ってますか?」少女の声は苛立っていた。

「変な男だろう?」私は自分で言っていて多少混乱をきたしていた。「君を自宅に連れ込む目的なんか一つしかない。一つしかないはずなんだ、冷静に考えれば。すまない。期待に添えるかどうか自信がなくなってきた」

「ここは、そうでもなさそうですけど」少女はいつの間にか正面を向いていた。膝に跨って、私の股間あたりの布を触っている。

「君は女の子なのか?」外からわかる範囲だが。「それとも内面は男なのか?」

「確かめてみればいいんじゃないですか?」少女が私の指を舐める。先ほど、少女の内部に挿入っていたほうの。「これよりも、もっと大きいものを入れてみたらわかりますよ」

「そうじゃない。君がどちらに見られたいのか、希望を聞いている。なぜ君が相手方に合わせなければならない?」

 簡単だ。死なないため。生き延びるため。

「君は、君がなりたいものになればいい。私はそれを妨げる気はない」

「おにーさんの目的がわかりません」少女は首を振る。「だって、僕を攫ってすることっていったらフツーは」

 身体目的しかない。

「フツーの人じゃないんですか? おにーさんは」

「どうだろう」私にもよくわからなかった。「服を着てくれたほうが話しやすいかな」

 私自身よくわかっていないことが少女に伝わったのかどうかは不明だが、少女を私の膝から下ろして服を着せることには成功した。

 少女は私の隣に腰掛ける。多少の躊躇いを感じられる動作だった。

「ありがとう。格段に話しやすくなった」照明をどうしようか掠めたが話すだけなら不要だろう。「さっきの質問に戻るが、君は」

 女か。男か。

「親にも誰にも話したことない話なので、初対面の見ず知らずのおにーさんに言ってもいいのかどうか迷っています」少女はしっかりした口調で言った。「なにか、僕が言ってもいいと信用させるような話題を下さい」

「私は警察官だ」

「帰ります」少女は機敏に立ち上がったが、すぐにソファに戻った。「え、ウソ」

「嘘じゃないよ」私はポケットから証拠を出した。「ほら」

「ウソ。じゃないの。え」少女は手帳を一通りじろじろ検分して私に返した。「え、じゃあ、おにーさん、ケーサツの? え、もしかして僕を」

「逮捕はしないよ。家に帰すこともいまのところ考えていない。いま私に一番近いのは警察官というより誘拐犯だ。バレたら私の人生は何もかも終わりだね。というわけで、私は相当のリスクを背負って君をここまで連れて来たことになる」

 少女が黙った。

「どうだろう。話してくれそうだろうか」

「変わってるって、言われませんか」少女が眉を寄せる。「変な人」

 その夜は結局、少女は私の家に泊った。少女は帰るつもりがなかったし、私も少女を帰すつもりがなかった。ベッドが一つしかないので寝室を譲った。私はソファで一睡もできなかった。私の意志が介在しなかったとはいえ、少女に触れた両の手と指とがそれぞれ燃えるように熱かった。何度か水道に冷やしに行ったが無意味だった。

 夏だからだろう。熱いのは、きっと。

 朝になって玄関のドアが開いて閉まる音がしたので帰ったのかと思ったが、しばらくして少女は戻ってきた。両手にコンビニの袋をぶら提げて。

「お腹空いたんで買って来たんですけど、一緒に食べませんか」

 断る理由がなかったので、私は頷いた。

 その日から、少女―――オズ君は私の家に居つくようになった。同棲というやつだろうか。同棲なんかしたこともないからわからないが。

「昨日なんですけど」オズ君が言う。朝食のサンドウィッチを頬張りながら。「僕が寝ている間に変なことしませんでしたよね?」

「変なことというのは?」オズ君が買ってきてくれた弁当を食べる。量が足りないが不思議とそこそこお腹がいっぱいだった。

「変なことですよ。変なこと」オズ君が口を尖らせる。「してないならいいです」

「君を思い浮かべて昂りを抑えることはしたが」

「してるじゃないですか」オズ君が立ち上がる。すぐに座った。「思い浮かべただけですか? 部屋にのぞきに来たりとか、どっか触ったりとかしてませんよね?」

「さすがに君が寝ている間にそんなことはしない」弁当の空箱をゴミ袋に捨てる。

 今日は非番の日だった。カレンダーを見て思い出した。カレンダーに印をしているわけではない。カレンダーの数字の並びを見て思い出した。

「夏休みか」

「学校なんか行ってませんよ」オズ君が言う。デザートのプリンを食べていた。

 コーヒーを淹れてテーブルに戻る。オズ君はプリンに夢中だった。

「着替えが要るんじゃないか」ここで暮らすなら。

「買ってくれるんですか?」オズ君が顔を上げる。満更でもなさそうだった。

「朝食代も払うよ。レシートを見せてくれ」どうせ他の男から身体を対価に受け取った金だろう。そんな命がけのカネを胃袋に収めるだけの鈍磨さは持ち合わせていないと思い込みたかった。

「いいです。お小遣いいっぱいもらってるんで」オズ君が首を振る。「それにレシートなんかレジにポイしましたので」

「小遣いというのは、親に?」別の男に?

「これでもたまに帰るんですよ。そのときに無理矢理渡されるんです。けっこう過保護なので」

「過保護な割にだいぶ放任だな」オズ君の親か。

 あまり想像したくなかった。

「ところで、着替えだが」話題を変えよう。「ちょっと遠出しないか」

「どこですか?」

「西と東ならどちらがいい?」

 夏休みついでに小旅行というのは建前で、本音は、ここいら界隈でオズ君を連れてうろうろしているところを関係者に見られたくなかった。オズ君にはとっくにバレていたとは思うが、特に拒否もなくついてきてくれた。自分以外が全面スポンサなのが気に入ったのかもしれない。

 オズ君が選んだのは西。高速道路を使って2時間程度。微妙な時間帯に出発したせいかそこまで渋滞もひどくなかった。昔住んでいたことがあるので案内くらいはできる。ただし、当時と店の配置が変わっていなければだが。

「ここ、買い物ていうより観光ですよね」オズ君が私を見る。「てゆうか、暑いんですけど」

 いま住んでいる所もたいがいな気温だが、こちらのほうが湿気が高いため、外気に触れるだけで体力が奪われる。来る場所失敗したかもしれない。

「東にすればよかった」オズ君が言う。

 私もそう思う。

 暑さ対策になっているかは不明だが、オズ君にねだられ抹茶ソフトを買った。食べ終わってから地下鉄で移動し、アーケード街へ。ピーク時は行き違いが困難なほどの観光客で埋め尽くされる人気スポットだが、私の身長がそこそこ大きいため、少なくともオズ君からは見失うことはなかった。逆に私からは何度も見失った。

 その対応策として、オズ君は目ぼしい店を見つけるたびに、店の外観を写真に撮って私に連絡をくれた。もう少し到着が早ければ試着に立ち会えたかもしれないが、いつもタイミングを計っている。会計時に財布係として召喚される。係ではない。ただの歩く財布だ。荷物運びもか。荷物が増えるたびにオズ君が楽しそうにするので、特に不満はなかった。汗が滝のように流れてくる以外は。

 オズ君が疲れたと言うので喫茶店で昼食を採った。デザートにオズ君はケーキを、私はコーヒーを注文した。

「荷物どこかに預けて行きたいところがあるんですけど」オズ君が言う。アイスティにあらん限りガムシロップを混入してストローで撹拌しながら。

「どこに行こうか」

 オズ君が指定したのは、鳥居が連なっていることで有名な神社。山頂まで上がらなければ拝観自体はさほど時間を要しない。本当に暑いが仕方ない。駅からのアクセスがいいので電車で移動する。なにせ真ん前だ。

「待ってください」オズ君が後ろから声をかける。

 私があまりに無感動に参道を歩くのが気に障ったのだろう。なにせ何度も来たことがあるのだ。

「すまない」暑くて頭が回らない。「来るのは初めてか」

「修学旅行の代わりです」オズ君が隣に並ぶ。

 ああ、そうか。学校に行っていなければ修学旅行に行く気もないだろう。

 参拝をしてさて帰ろうとしたらオズ君が看板を指をさした。境内案内図。まさか。

「だって、鳥居てこの上でしょう?」オズ君の主張はもっともだ。

 上がって下りてきたら、私は確実に夕立さながらのずぶ濡れだ。着替えもないのに。

「ちょっと待っててください」オズ君が走って行った。

 木陰で待機する。圧倒的に外国籍の観光客の方が多い。日本人を見つけるほうが困難ではないか。カメラのシャッター係になるのが嫌だったので居眠りのふりをした。

「器用ですね」オズ君が戻ってきた。「これ、あげるので上まで行きましょう」

 オズ君はコンビニでスポーツドリンク(1リットル)と発汗シートを買ってきてくれた。半分ほど飲んで、汗を拭ったら多少マシになった。熱中症になりかけていたのかもしれない。

「ありがとう」

「さ、行きますよ」オズ君が私の手を引っ張った。

 昨夜のことが思い起こされて脳神経が放電した。首を振ってかき消す。いまはオズ君の修学旅行(代替)に付き添わなければ。

 あの続きは、いつか出来る日が来るだろうか。

 オズ君が適切な年齢になるまで待てるだろうか。

「なんか変なこと考えてませんか?」オズ君が振り返って足を止める。朱塗りの鳥居が延々と連なっているのが視界に入る。

「君と会ってから変なことしか考えていないよ」

「あのですね」オズ君が溜息をつく。「僕の言い方もいけなかったですけど、いちおこれ、デートなんですけど。わかってます?」

 修学旅行(代替)ではなく?

 デート?

「あれ、違ったんですか?」オズ君が言う。

 そうか。

 デートだったのか。

「引率の先生かと思っていた」

「引率の先生に財布係はさせないでしょう」オズ君が鼻で笑う。「それとも、デートなんかしたことないですか? まさか、そんなわけないですよね?」

「初めてだよ」

 オズ君が何かを言いたそうにしたが、そっくり呑み込んでくれた。人の往来が存外に多い。ほとんど外国籍の顔のような気もしないでもないが。

 山頂まで行くのは、私の懇願で諦めてくれた。中腹で休憩し(主に私が)来た道を引き返した。別のルートもあるのだがオズ君が気づかないので黙っていた。

「本当はもう一つ行きたいところがあるんですけど」オズ君が言う。駅に差し掛かった辺りだった。

「早く言ってくれたほうがよかったな」明日は仕事だ。

「じゃあいいです」

「ちなみにどこだろう」近かったら行ってあげようと思った。

 なにせデートなのだから。

 オズ君の希望は、これまた坂を延々上がった場所にある、飛び降りるだの降りないだので有名な寺院。いっそ私が飛び降りようか。そんな気概で臨まないと明日の仕事を平常にこなせるかどうか。

「本当にいいんですか?」オズ君は道中何度も聞いてくれた。

「引き返したほうが時間の無駄だよ」

 相変わらず観光客でごった返している。ていうか暑い。坂を登る前に自販機で買ったペットボトルはすでに空になった。実はここにも何度も来たことがある。

 舞台に上って見るのは、そこからの景色じゃなくて。

「わー、すっごい」オズ君は嬉しそうだった。

「高いところは平気なのか」

「嫌いじゃないです」

 私のことは。

「そうか。それならよかった」

 自分で疑問を呈して自己完結。

 このデートが終わっても、君は私と一緒にいてくれるだろうか。

「今日はありがとうございました」オズ君が言う。

 車に戻ってきたのは夕方過ぎ。西日がさらに湿度を上昇させる。

「寄り道はもうなしだ」

「わかってます。まっすぐ帰ります」オズ君が口を尖らせる。

 まっすぐ帰る先は、私の家でいいのだろうか。

 高速道路に差し掛かったあたりで寝息が聞こえた。無防備な寝顔だった。助手席を意識しないように運転に集中する。のは至難の技だった。何度パーキングエリアで文字通り休憩してやろうかと思ったが。早く帰らないと結局は自分の首を絞めることになる。

 自宅に着いたのは、夜。オズ君を起こして家に入る。寝ぼけているせいか、オズ君はのこのこついてきてくれた。足元がおぼつかないオズ君をソファに座らせる。

 汗だくの服を脱ぎ捨てる。シャワーを浴びる。

「すみません、寝ちゃってて」オズ君の声がする。半透明なドアに輪郭が映る。

「構わない」

 開けられるか。

 この半透明な仕切りを。

「あの、今日すっごく楽しかったです」オズ君の声がする。「僕、旅行とか行ったことなくて。いろんなところ連れてってもらって」

 水の音がうるさい。

 コックを捻る。

 水滴が垂れる。

「服もいっぱい買ってもらって」オズ君の声がよく聞こえる。

 ドアは、

 開いている。

 手を、

 引っ張る。

 眼が、

 私を映している。

「そのお礼をわかりやすい形で返してくれるとありがたいが」口が勝手に喋った。

「いいですよ」オズ君が服を脱ぐ。服を脱衣場に投げる。「何がいいですか」

 湯気でよく見えない。

 もっと近づけば見えるだろうか。

 浴槽に腰掛けてオズ君と目線を近づける。

「君の名前が知りたい」

「名前だけでいいんですか?」オズ君が言う。「もっと欲しいものがあるんじゃないですか?」

 もっと欲しいもの。

 私が欲しいもの。

 こんなに、欲しいなんて思ったことがあったろうか。

 欲しいものは手に入らない。

 誰だそんな根も葉もない、いい加減なことを言ったのは。

「まずは名前が聞きたい」そうでないと。「このあと君を呼ぶときに困る」

 オズ君は鏡に字を書いた。書いた端から垂れ流れていってしまった。

「読めない」

「だいたいの人は読めません」オズ君が鏡から指を離す。「僕にだって読めなかった」

 読もうと眼を凝らすと水滴がかき消してしまう。

「これが読めたら、いいですよ」オズ君が言う。「昨日の話の続きをします」

「間違えたらどうなる?」

「どうもなりませんよ」オズ君が私の肩に手を回す。細い腕が接触する。「僕の偽名が増えるだけです」

 そのときオズ君が鏡に書いた文字は、『小頭梨英』だった。

 私は、オズ・リエイだと思ったが。

 実際のところはどうやら違っていたらしい。

 なので私は、オズ君が女なのか男なのか、それについて明確な解を得ていない。

 推測ならできる。でもそんなに単純な問題なら、さっさと見ず知らずの私に開示できたのではないだろうか。オズ君は慎重で用心深い。私を一日観察して自分の最も秘すべき核の部分を明かしてもよいか、それに足る人物なのか判断材料にしていたのだろう。

 おそらく、というか確実に母親は知っていた。知っていたからこそオズ君を腫れもののように扱うしかなかった。父親はどうだろう。どちらだろうと今更、死んだ肉の塊に用はない。

「おい、聞いていないだろう、大王」

 先生の声で我に返る。返る肉体が残っていてよかった。

「聞きたくないのか、大王の」

「亡お義父さん、お義母さん。娘さんを僕に下さいってか」自分で言っていておかしかった。狂っているという意味で。「笛の手掛かりは得たか」

「それをいま探っているんだ。いかん、気が逸れた」先生が顔の横の辺りの空気を撹拌する。「やめやめ。休憩だ。トヲル、悪いことは言わん。こんないい加減な男、早めに見限ったほうがいい」

「お手洗い借りてもいいですか」オズ君が立ち上がる。

「ああ、そっちのドアだ。違う、その隣。そう、そっち」先生の発言に切れがない。

 オズ君がドアの向こうに消えた。

「正直に言って、大王の手には負えないと思うがな」先生が小声で言う。

 気づいていたか。

「わざと聞いてなかったろ。とっくに知ってることは興味がないか」先生が言う。「こいつはお前のためにやっているんじゃない。自己開示というのは最も優れた自己治癒法だ。あの娘はかなり防衛が高い。私というか女に対して拒否感というか、生理的な拒絶感が拭い切れていない。ここらへんは尾を引くぞ。文葦に来たところで馴染めるかどうか」

 その件なのだが。

「女に見えるか?」

「どういう意味だ?」先生が言う。言いながら拡大分析してくれたらしかった。「ああ、それは私も気になっていた。肉体的にはどうだ? すでに手を出している前提で聞くが」

 あまり言語化したくないが仕方ない。オズ君がまだ戻ってきそうにないことを確認して。

「個人差かと思ったが、乳房が一切膨らんでいない。昨年の夏から私の家にいるが、生理用品を使った形跡がない。初潮が遅れているんだったらいいが」

「ふむ。ちなみに挿入はしたか」先生が言う。真顔で。

「言いたくない」

「そういう意味じゃない」先生が言う。「大王のその破壊的な巨根を根元まで咥える長さがあったのか。それを聞いている」

 余計に言いたくない。

 私はたぶん、オズ君とは寝ていないと思いたい。

「わかった。そちらが言わないなら、私がここで、大王が見ている前で、あの娘の秘所を開くが?」先生が言う。とびきりの悪人ヅラだった。

「殺すぞ」

「本性が出てきてくれて嬉しいぞ」先生が言う。「ところでトヲルは? 逃げていないだろうな」

 まさか。

 急いでドアをノックする。

「なんですか?」オズ君の声だった。「窓がないのでどうともできませんよ」

 よかった。

「急がせてすまない。無事ならいいんだ」

 特にメールも来ていない。本当に課長は監視を続けているのだろうか。監視はしているが私への連絡を忘れているとか。大いにあり得る。

 フライングエイジヤのサイトを確認しようとした矢先、オズ君が戻ってきた。

「ずいぶんゆっくりだったな」先生が言う。「広すぎて落ち着かなかったか」

「先生、生理中ですか?」オズ君が言う。

「ゴミ箱は開けなくていいぞ」先生が眉をひそめる。「それに、その話題は男がいないところでしてくれ。こんな私でもデリカシイというのがある」

「僕は男です」オズ君が言った。

「どの観点からの話をしている?」先生がいち早く返答した。「身体か、心か」

「さっきその話をしてたんでしょう?」オズ君が私の隣に座る。「僕がいないところでこそこそ話されるのは不快だって、言ったじゃないですか」

「すまない。私に非がある」

「クソジジイとあの女の話は興味がないけど、僕の性別については関心がありますか」オズ君が言う。

「正直に言うと」そうなる。

「先生。三つ目の話ですけど」オズ君が言う。私を見ずに。「僕が男なのでこの人が望んでいるようないわゆるフツーのケッコン生活が送れるとは思えません。なので見限るのは僕じゃなくて」

 その意味のわからない話題をやめさせるためだったら、なんだってした。

 いわゆるフツーの結婚生活?

「帰るぞ」オズ君の腕をつかむ。

「笛の分析はいいのか?」先生が言う。

「次に会ったときでいい。どの道治療には時間がかかるんだろう?」

「そうだな」先生が言う。「きちんとラポール――信頼関係を結んでから、大王のいないところで仕切り直しになるな。私としてもまともな治療をしたい」

「邪魔した」

 オズ君の腕をつかんだまま駐車場に戻る。車に放り込んで自宅に帰る。

 オズ君の声を聞きたくなかった。

 自分の脳の内側がうるさかった。

 いわゆるフツーの結婚生活?

 意味がわからない。

「がっかりしたでしょう?」オズ君が言う。

「説明をしてほしい」本当は聞きたくない。

 とどめをさしてほしくない。

「聞きたくないくせに」

 オズ君を抱き上げて寝室に入る。ベッドに放り投げてのしかかる。

 きっと答えは間違っている。

「奥まで入れたらわかりますよ」オズ君が他人事みたいに言う。

 やめろ。

 いまなら。

 もどる?

 どこに?

 戻れる場所なんかない。何も残さずにはぎとった。

「わかりますか?」オズ君が言う。息が上気している。「その先に何にもないんですよ。あなたが期待しているようなものは何も。例えばあなたがこのまま射精したとします。僕の側にはそれを受け入れる子宮もなければ、あなたの精子と結びつく卵子もない。まだ、じゃないんですよ? この先ずっとない。ただの行き止まりの袋小路です。単なる無意味な穴なんです。胸も一生まっ平らだし、この身体が女になることは万に一つもあり得ない。そんな未来は来ない。僕は、男なんです。ね、がっかりしたでしょう?」

 正直に言って、大王の手には負えないと思うがな。先生の言うとおりだ。

 わかっていた。

 わかりたくなかった。

 あらゆる状況証拠が、私を糾弾していた。

 お前は、未成年を暴行した。と。



     2


 オズ君はたぶん泣いていた。私が泣いていないならこの涙はオズ君のものだろう。

 髪を撫でてもいいだろうか。

 細い身体を抱き締めてもいいだろうか。

「なんで、あなたが泣いてるんですか?」オズ君が言った。「がっかりすぎて涙とか出ました?」

 オズ君の指が私の頬に伸びる。

 水滴が落ちる。

「いや」なんと言っていいのか。「すまない」

 言いたくないことを言わせてしまった。

「私が聞いてよかったのか」

「あなたに聞いてほしかったんですよ」オズ君が言う。「今日初めて会ったわけのわからない女の先生じゃなくて」

「そうか」

「ところで、いつまでこのままでいるんですか?」オズ君の視線が落ちる。

 ああ、そうか。

 つながったままだった。

 ゆっくり引き抜く。オズ君が肩をふるわせた。

「いちおう、性感帯みたいなのはあるぽいので」オズ君が言う。「子作りできないだけです」

「遺伝子的に男なのか?」

「戸籍は知りません」オズ君が言う。「あの女はぜんぶ知ってたぽいので、どういう判断をしてたかてとこなんですけど。あなたはどうですか? こんなよくわからない男の僕でも、ショーガイのハンリョだとか言えますか?」

「女の生殖器官がないから男と言っているのか? それとも」

「僕は男です。そういうことです」

「君を男として扱えということだろうか」

「長らく女のフリしてきたんで、別にそれはどうでも」オズ君が言う。「あなたの中でこのことが処理できるか。受け入れてくれるのか。やっぱりがっかりなのか。そこだけですね」

 どうなのだろう。

 がっかりというよりは、びっくりだろう。

 まさか自分の拾ってきた未成年が、身体と心にそんな複雑な事情を抱えているだなんて。

「僕を攫って来た日の翌日に、あなたは僕を旅行に連れて行ってくれました。憶えていますか?」オズ君が言う。「そのときにあなたはデートが初めてだと言いました。それは」

「本当だよ。見栄を張ったってしょうがない」

「僕の推測なんですが」オズ君が私の首の後ろを撫でる。「童貞でしょう?」

「だった、だな。正しくは」

「僕で卒業しちゃったわけですね」オズ君が言う。「いいんですか? 僕みたいなよくわからない男で」

「よくわからない男じゃないよ。私のだいじな人だ」

 いまの発言が正気だととってもらえるまで、訴え続けなければならない。

 オズ君が欲しい返答は、男だとか女だとかそんな軽々しい慰めではない。

 私が本当に、心からオズ君が欲しいと思っていることが伝わらなければ。

 Xデイは確実に実行される。

 オズ君以外のガキがどうなろうと、私の知ったところではないが、オズ君本人に気づいてもらわなければ、のちのちオズ君の傷になる。それが耐えがたい。

 身体でも心でも届かない。

 我ながら、とんでもない初恋だ。

 初恋は実らない。誰だそんなことを言った奴は。

 Xデイまであと11日。

 オズ君を抱く。理由を考える。

 Xデイまであと10日。

 オズ君を抱く。言い訳が浮かばない。

 Xデイまであと9日。

 オズ君を抱く。以外に特にやることがなくなる。

 Xデイまであと8日。

 残りの日付があっているかどうかわからないが、課長から連絡があったような気がする。

 オズ君を抱く。ことをやめられなくなる。

 Xデイまであと7日。

 オズ君を抱く。

 Xデイまであと6日。

 Xデイまであと5日。

 Xデイまであと4日。

 Xデイまであと3日。 

 Xデイまであと2日。

 Xデイまであと1日。

 Xデイまであと0日。

「僕が女じゃなくてよかったですね」オズ君が言う。「現役の警察官が未成年孕ませてましたよ」

「行くのかい?」

「わかってることを聞かないでください」オズ君の声音から感情を推理できないので、顔を見ようと思ったが。

 見えない。

 目線の角度的に。

 部屋の照明的に。

「さようなら。ケーサツの人」

 ドアが閉まった。

 しまった。

 両手首に手錠のような感触がある。

 困ったことにそれは、ベッド柵につながっていて。

 相当に間抜けな体勢だろう。ほぼ全裸でベッドにつながれているんだから。

 自分で自分が見えなくてよかった。

 課長がのぞけるカメラがもし、私の家にもあったとしたら、これに気づいてなんとかしにきてくれるだろうか。

 体感で半時間ほど経った。

「僕は家族ごっこをしろと言ったんだけどなぁ」課長がひょっこりやってきた。

「夫婦ごっこをしようと思って失敗したらしいです」

 課長は大きな溜息を見せつけて、手錠の鍵を壊した。どうやって壊したか。

 簡単だ。

 力づく。

「残骸は片付けといてね」課長が嫌味を言う。「自宅で壊したとか別の目的に使ったと思われるよ」

 手を開いて閉じる。手首に違和感はなし。

「行くの?」課長が言う。

「わかってることを聞かないでください」

 課長が鼻で笑った。

 なんだ。全部筒抜けじゃないか。

 港まで車を走らせる。

 たぶん、間に合わない。でも行かないわけに行かなかった。

 悪あがき。

 無意味な抵抗。

 寒空の下の海は闇色をしていた。



     3


 よく知った後ろ姿がそこにあった。

 汽笛が遠くで聞こえる。

 ビャクローも黒い男もいない。

 ガキも誰もいない。

 たったひとり。

 海を見ている。

「行かなかったのか?」声をかけた。

 距離を保ったまま。

 近くもなく遠くもなく。

「行ってほしかったんですか?」絞り出したようななけなしの声が波の音に混ざった。

「行ってほしくはないよ」

 オズ君は振り返ろうと思ってやめた。

「帰ろう」私は手を伸ばした。

「どこにです?」

「君が帰りたい家に」

 冷たい風が首元から入って背中に抜けた。

 コートの裾がたなびいた。

 その程度の沈黙。

「僕なんか放っておいてください」

「行けなかった、のかな?」

 なんとなくそう思った。

 遠くで鳴っている汽笛。

 オズ君の言う“ハメルンの笛”とはこんな感じだろうか。

 耳障りではないが、的確に注意が逸れる。

 私のケータイが同じ作用をもたらす。

 平たく言うと、邪魔だ。

「出ていいですよ」オズ君が言う。

「耳がいいね」

「彼らはどうなるんですか?」

 ガキ共のことだろうか。

「捕まえはしないよ。まだ、という条件付きだが」

「首に縄つけて野に放つんですね?」

 連絡は課長からだ。

 何がどうなってこうなったのかを説明しろということだろう。

 ご自慢のカメラがあるじゃないか。

 なぜ手下にカメラ代わりをさせる。

 ああそうか。

 カメラ代わりにしているから、みんな殉職する。

 部下はすべからく取り換え可能なレンズという部品でしかない。

 オズ君の短いスカートが風で揺れる。

「僕は捕まるんですか?」オズ君が言う。

「君にはまず治療が必要だよ」

「頭の?」

「私よりずっと賢いじゃないか」

 オズ君がこっちを向いた。

 目算三歩でその身体を強引に連れ戻せる。

「僕みたいなガキを増やしたくないんです」オズ君が言った。「そのために何かできないかなって思って。僕がしたのは予備軍を作ったことだけ。裏目というか、想定し得ない方向へいってしまった。僕が始めたことです。僕が始末をつけます」

 そう言って、オズ君は。

 後ろ向きに。

 海に落ちた。



     4乗


 何十人ものガキが集まっていた。

 招集をかけた僕が最後らしい。

 一様に海の向こうを眺めている。

 そこそこ大きな船だった。

 これなら全員乗れるだろうか。

 船から声がして、一人ずつ足を進める。

 最後に僕の番になった。

 船から声がする。

 早くしろ。

 違う。

「迷うとるなら、次でええよ」

 女の声だった。

「また来るさかいにな」

 笛が聞こえる。

 いつも。

 いつもいつもいつもいつも。

 この笛が邪魔をする。

 ついて行ってはいけないという警鐘を込めて、僕はハメルンの笛と名付けた。

 子どもにだけ聞こえる笛だ。

 僕が大人になったら聞こえなくなるだろうか。

 船がだんだん見えなくなる。

 ああ。

 なんて。

 ひどい。

 フライングエイジヤ創始者は、怖気づいて結局行かなかった。

 サイトに書かれただろう。

 いまごろ笑い物にされている。

 そのくらいなら構わない。

 裏切った。

 裏切り者。

 サイトは閉じよう。

 始末は自分でつけないと。

 行ってしまった彼らを取り戻すには。

 そういう職業に就くしかない。

 まだ、

 生きないと。

 いけないのに。

 きっとあの人が迎えに来る。

 あの人は僕を責めるだろうか。

 彼らを殺したのは僕だ。

 いやまだ間に合う。

 彼らが生きていないという証拠がどこにある。

 サイトだ。

 サイトに何か。

 真っ赤な字で埋め尽くされていた。

 赤い字は、

 何を意味する?

「行かなかったのか?」

 あの人の言うとおりだ。

 僕もいま行く。

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