6章
【6章】
謎の結晶の力を利用して、時間を取り戻す方法を発見したことで、私はこの手段に
しかし、現実問題。たとえ元の時間に辿り着いたとしても、本物の体が死体となって処分されていたら終わり。
それでもやるしかなかった……。「もう一度、あの場所に帰りたい」
¶
最初にシュウの部屋で発動したジャンプから数えて二十回目の成功。
だいぶ要領もよくなって、結晶が発する閃光や直後の状況変化にも慣れてきた。
この日は、去年の七月二十五日。高校では夏休みにはいり、その序盤といったところ。
去年の夏はえらく暑い日が多く、日本中で猛暑日が続き最高気温の記録を何度も更新したのを憶えている。
ここは適度にエアコンが効いていて、いまはそれなりに快適だ。
ここというのはシュウの部屋。前回は七月二十三日の朝、シュウが自室で目覚めたところを見計らって発動させたので、そこから五十時間先の午前九時に、私は跳んできたのだった。
(えっと、シュウはどこかしら? もうどこかに出ていたらまた面倒ね)
部屋のドアから頭を出して、家の中の状況を観察してみる。
肝心のシュウはといえば、夏休みだというのにこんな時間からバタバタとせわしなく何やら準備を整えている最中のようだ。
部屋に戻って来ても、中に私がいるというのにお構いなし。
まぁ、相変わらず体が見えていないのだから、あまり無理をいっても仕方ない。
ちょっと足を止めたところを捕まえて、さっさと次の時間へ跳んでもよかったけれど、いつもなら見られないシュウの行動パターン。何をそんなに慌てているのかちょっと興味が湧いてきた。
ベッドに腰掛けて、その動向を注視する。
(かなりいろんな物を準備してるわね、由那とデートにしては荷物が多いか)
すでに中身がいっぱいになったリュックが用意されている。
着替えたのは制服ではなく、夏らしいカジュアルな私服。
(やっぱり出掛けるつもりらしいわね、午前中からどこに行くつもりかしら?)
それならあまりおかしなタイミングになると面倒なので、やっぱりいますぐ跳んでしまおうか……と迷ったりもした。そんなとき、それを遮るように玄関の呼び出しチャイムが鳴って、シュウは振り返った。
シュウはその訪問が予め申し合わせどおりといった感じで、前もって準備してあったリュックを床から拾い上げ、エアコンなどの部屋の電気を消して部屋を出てしまった。
(あら、見失ったら帰宅するまでホントにタイミングが無くなっちゃうわね)
そうなるとやっかいだと、私もすぐ後を追って玄関に出た。
玄関ドアを開けて入ってきていたのは、彼女となった由那と、それについて来たこの時間世界の『ミナ』。姉妹ふたり組だった。
ふたりの服装はといえば、由那は清楚な白のワンピースにつばの広い麦わら帽子。ミナのほうはちょっと大胆なノースリーブのキャミソールにショートパンツと、これまた夏全開という
自分自身のことでもあるので身に覚えがあるはずだ。この格好と、このシチュエーション。
(えっと、たしかこれは――)
ああ……そうか、忘れていた記憶がおぼろげながら甦った。日付からもっと早く思い出すべきだったかもしれない。
去年の夏休みの七月二十五日、私達は海水浴に出掛けて行ったのだ。
本来ならシュウと由那、付き合いだしてから間もないふたりだけのデートでもよかったところ、由那がふたりっきりは恥ずかしいと言うので、気が乗らない私を半ば強制的に連れ出すかたちで同行することになって、それならマリアも一緒にという
すっかり失念していたというのは私らしくもないが……。実は、この日のことは途中から憶えていなのも事実だ。
それは私が遊んでいる
しかし、これはまたとない機会なのかもしれない。この日、私が溺れてから意識が戻るまで何があったか、自分の目で実際に確かめることができる。
私は、この時間にしばらく滞在し、事の真相を知ることにした。
マリアとの待ち合わせは最寄りの駅と約束していたので、三人はシュウの家を出てその場所へと歩きだした。私は姿が見えていないことをいいことに、三メートルほど後方からのこのことついて行く。
シュウのほうは変に
(それにしても暑い……)
まだ午前中だというのに、照りつける日差しで熱せられたアスファルトから
海水浴日和というには限度を超えていそうな気もするけど、夏休みという開放感が若者達を駆り立てるのかもしれない。
私のこの体の感覚神経がまともに機能しているとは思えないが、とにかく目は見えているし音も聞こえている。だからというわけじゃないが、真夏の気温が暑いこともエアコンの風が涼しいことも、なぜか肌で感覚として感じられていた。
たぶん予想にすぎないけれど、これは脳が時間を作り出す。という現象に似ているのだと思う。
一気圧で沸騰するお湯が、どれぐらい熱いかは計らなくてもわかる。
燃えさかる炎が熱いかどうかなんて触れなくても脳でわかるのだ。
それを理解したことのない幼児なんかは、炎の消えたばかりのストーブなどに手を置いたりして、火傷を負って熱いことを身をもって体験したりもする。
人間の脳が知識と経験で感覚を再現していることは、最近のVR《バーチャル・リアリティ》技術を見れば疑う余地はない。
たかだかゴーグルからはいる視覚情報と音情報だけでも、あたかもそこに現実があるように錯覚してしまう。
いずれ、これがもっと進化するならば、脳に直接ダミー信号を送って、熱い・寒い・痛いなどの感覚までも支配するようになる時代がきても、なんら不思議はない。
それから、毎度利用している駅前に到着すると、こちら(といっても私自身のことは含まない)の三人を見つけたマリアが大きく手を振って迎えていた。
「おはよう。マリア」
「おはようございます! みなさん遅いですよー!」
「シュウがぐずぐずしてるからよねぇ」
「変なこと言うなって、時間どおりだろ」
「えへへ、待ってないです。実はマリアもいま来たところでした!」
仲良くからかい半分で、シュウをいじり合っている。いまとなってはそれも羨ましい光景だった。
合流した四人は改札を抜けてホームに上がると、間もなくはいってきた予定の電車に乗り込んだ。
私は構わず後からそれに続いて、車内で邪魔にならないように注意する。
(確かこのときは、他県の海水浴場まで足を延ばしたんだったわよね)
二時間半ほど電車に揺られて目的の海水浴場にやって来ると、もうお昼近くになっていて、ビーチはすでに大勢の人でごったがえしている。
長い砂浜が続く美しい海岸で、遠浅の海辺は天気のいい日は波も穏やか、海の家やレジャーも豊富。この時期は若い男女の他に、ファミリー・海外旅行の観光客からの人気も高い。
四人も早速近くの更衣室を利用して、水着に着替えるとビーチに繰り出した。
みんな昨日そろって買いにいった水着を身に着けている。
シュウは無難な膝上丈のサーフ型水着ながら鮮やかな色使いの柄で、選んであげた私達のセンスの良さが光る。
(なかなか似合ってるわね)
ミナの水着は……大人っぽい黒のヒモビキニ。我ながら若い肢体がはちきれんばかりに眩しい。
どうやら久々の海で気合を入れすぎていたらしい。
こうやって客観的に見るとかなり刺激的だ。いまにも胸がこぼれそう、見ているこっちの顔が赤くなるくらいだった。
(これは……やりすぎだわ)
シュウも目のやり場に困ったように視線をそらしているのがわかる。
一方、由那は持ち前の長い黒髪をトップで纏め、大きなお団子が仕上がっている。それに合わせるのは、上下のフリルが可愛らしい控え目な白ビキニ……のはずが、元々私と変わらぬボリュームのポテンシャルを隠し切れていない。
(これは由那にしてやられたわね、周りの男どもの注目をあたしに向けさせて自分から注意をそらす計算だったのね)
当時、気に留めていなったことが、いまこの視点だからこそわかることもある。
それは、最後に登場したマリアのことがそうであったようにである。
長いツインテールを半分に折り曲げて、頭の後ろでひとつに合わせて留めている。
そして、マリアに至ってはあまり胸が目立たないタンキニのレディースビキニの装いだった。気になる下半身は付属のパレオスカートで隠れていて、ちょっとやそっとではバレることはない。
なんてことだ、あのときはあまりに違和感がなくて完全に無防備だった。当然のように女性用更衣室を使用して、私の体も見られていたということに……。
それにしても、男ひとりに美女三人(?)の組み合わせなので、周囲の男達の妬みの視線をシュウは一身に受けてしまっていた。
「シュウくーん! こっちで遊びましょうよー!」
水を得た魚のようなマリアは、海水浴の定番ビーチボールを準備して、がっつり海を満喫する気満々だった。
「しょうがないな、ここまで来たんだ。相手してやるぞ」
めずらしくシュウのほうも少年のようにやる気を出して、肩をぐるぐると回している。
「未那ちゃんと由那ちゃんも早くー!」
ミナと由那のふたりも強引にマリアに引っ張られて、海の中へと連れ込まれてしまう。
(ああ、確かにこんなこともあったわね。うん、ここは記憶にも残ってる)
砂浜にひとり残された私は、離れてその遊びを傍観するしかない。
(にしても、暑い! 暑すぎる!)
死ねない法則が存在するおかげで、体は熱中症になったりはしないはずだが、脳内の感覚を容赦なく苦しめる。
一応は靴を履いているので、焼けるような砂の熱はがまんできるけど、どうにもこの場に不釣合いなブレザーの制服は見た目にもつらい。
水の冷たさを求めて、あまり深く考えもせずに波打ち際に近づいていく。
そこに小さな波が足元に押し寄せて、私の足さらった。
(……!)
次の瞬間。波のかかった足首より下が、ごっそりまるごと削られて粒子と化して分散していく。
(あっ、やばいっ!)
粒子の再生が追いつかない。足元の踏ん張りを失って、バランスを崩した拍子にしたたかに尻もちをついて転んでしまう。
(イタタッ……)
そのまま第二波をくらうのは危険な気がして、両腕を使って下半身を引きずりながら乾いた砂浜まで
(ちょっと油断しすぎたわ)
失った足首は、それでも粒子化した霧達が本体を追って、瞬く間に再構成してしまった。
(はぁ、せっかく海まで来たっていうのに、あたしだけはいることもできないなんて、おもしろくないわね)
ひとり、陸で拗ねていると、ビーチボールで遊んでいたみんなも休憩を取るために海からあがってきていた。
「ふーぅ! 楽しかったですね!」
「マリアが元気すぎるんだよ」
「ほんとよ、高校生にもなって真剣にビーチボールさせられる身にもなりなさいよ」
「うん……、わたしも疲れちゃったよ……」
昔っからマリアの遊びに付き合うとこうなることはわかっていたので、余力を残すように心がけている。
だから言うほど三人とも苦にしてはいないが、放っておくとエスカレートするので注意していた。
四人は売店で買ったかき氷を食べて、疲れた体と喉を潤す。
「さて! 次はいよいよアレいってみましょうか!」
けれど、この日のマリアはこの程度でとどまることなどなかったのだった。
そう言ってマリアが指さした先には、大きめのバナナボートが停まっていた。
少し前から他の若者グループが海面を爽快に走らせているのを見て、目をつけていたらしい。
「んー僕はべつに構わないけど、未那と由那はどうする?」
「あたしは大丈夫よ、せっかく海に来たんだからいろいろ楽しみましょう」
「わたしも……一度乗ってみたいと思ってたから……いいよ」
「じゃあ! 決まりですねっ!」
全員の意見が一致したところで、ボートの係留場所へ向かって砂浜を歩いた。
ボートは二列繋がった形状で、三対三の六人乗りのものだったので、四人で乗ると二席余る計算だった。
「あたし達だけだと余っちゃうわね」
「そうですね!? ちょっともったいないですけど!」
「でも……しかたないんじゃないかな……」
みんながボートに乗る席順などで相談をしていると、そこへ、まだ若い大人の女性と、見た感じ小学校高学年ぐらいのスクール水着を着た女の子を連れた、親子と
「あのぅ、すみません」
四人に向かって、上品で物腰の柔らかい女性から、何か用があり気に話しかけてこられた。
「はい。なんですか?」
ミナが気さくにさらりと受け答えすると、女性はそれに続けた。
「えっと、大変ご迷惑とは思うんですが、よかったらこの子も一緒に乗せてあげてもらえませんか? どうしても乗りたいって聞かなくって」
つまり、一緒に遊んでほしいというお願いだ。
「ひとりなの……? それはちょっとかわいそう……」
「今日は家族だけで来てまして、友達がいないんですよ」
母親は水着ではなかったので、最初から女の子ひとり遊ばせるつもりだったらしい。
「うん、そういうことならいいんじゃないか」
「そうですね! 席も空いてることですから!」
この四人の中に無下に反対する者などいるはずもなく、快くお願いを受け入れる流れとなる。
「いいですよ! お姉ちゃん達と遊ぼう」
ミナが笑顔で話しかけると、女の子もぱあっと明るい表情に変わった。
「ありがとうございます。お代は……」
「いいえけっこうですよ、そんなの気になさらないでください」
「じゃあ! 早速、行ってみましょう!」
精神年齢が一番近いマリアが女の子の手を引いてボートに駆け寄って行く。
「それなら、女の子はあたしが面倒みてるから、あんた達三人はそっちのほうで一緒に乗ればいいわよ」
「そうか? ということはマリアの面倒はこっちがみることになるか」
という経緯で、片側のボートにはマリア・由那・シュウの順で乗って、もう片方には女の子・ミナの順で乗ることになった。
(ここまでは、まだどうにか思い出せる……)
この先の途中から記憶がすっぽり抜けている。今回はそれを確かめるのが本来の目的だったはずだ。
(ボートの上ならちょっとぐらい波がかかっても、再生が追いつくならたぶん大丈夫よね?)
そう勝手に理屈づけて、この後で当時何があったのかこの目で確かめるために、私は女の子とミナが乗るボートの最後尾に乗り込んだ。
バナナボートはジェットスキーに引かれて動き出した。
どんどんボートは加速して、海の上を跳ねるように進む。
「わぁーっ! はやいですよコレ! やばいです!」
「おいっ! マリアそっちに傾くなって、あぶないぞ」
マリアと女の子は、これでもかというほどボートの上で大はしゃぎ、由那もいつものキャラを忘れているのかというぐらいキャアキャアと歓声をあげている。
私はといえば飛んで来る水
「ねぇ、大丈夫? 怖くない?」
「はい! 大丈夫です。すっごく楽しいです!」
ミナの問いかけに、女の子は満面の笑みで答える。
五人のリアクションが良かったからか、ジェットの運転手もついつい調子を出してスピードを上げていっているようだった。
そのうえサービスで派手なターンを繰り出した。その波を受けて、ボートは大きく上下する。
「キャァッ!」
突然大きくバウンドした衝撃に、女の子は堪えきれず手を離して振り落とされてしまった。
その体は宙を浮いて、後ろにいたミナに直撃。ゴツンと骨どうしがぶつかる硬い音が周囲に響く。
すると、ミナも両手を離して、女の子もろとも海に落ちていった。
…………!
しかし、落っこちたふたりはなかなか動きを見せない。
そうか、これがこの日、私が溺れた原因だった……。
一瞬の出来事だったので、何が起こったのか把握できていなかった。
その後の記憶が抜けているのは、このとき頭を強く打って気を失ってしまっていたからに違いない。
「未那ッ!」
シュウは落下したふたりを追って即座に飛び込んだ。
真っ先に、預かった女の子に向かって泳いでいく。
全員ライフジャケットを装着していたので沈んでしまうことはなかったが、運悪くうつ伏せで顔をつけた状態のまま、ふたりとも力なく海面を漂っている。
――――!
勝手に体が動いて、私もボートを飛び降りていた。
それはあまりに無謀すぎた……。波があっという間に足元をすくって、足首が簡単に
(あっ……!)
これはどうみても完全にしくじった。
条件反射で飛び出したとはいえ、後悔しても時すでに遅かった。
なんて馬鹿なことをしてしまったのか、ちょっと前に波打ち際で失敗したばかりなうえに、冷静に考えてもみれば、いまの私の存在ではこの世界の人間を助けることなど到底無理だった。
理屈を正せば返す言葉もない。だけど、目の前に危険な目に遭っている自分がいたら、もう合理などなしに行動してしまったのだ。
水には入れない法則があるので体は沈んでしまわないが、波の影響で残る足の先からも容赦なく散ってゆく。
再生が追いつかず、脚を踏み出すたびに確実に削られて、ミナの体にあと一歩手が届きそうな距離に近づいたときには、太腿まで失っていた。
(ミナ! しっかり!)
体勢を崩しながらも最後は精一杯飛びついて、浮かんでいるミナの体にしがみついた。
頭を抱いて必死でそれを海の中から持ち上げようとしても、当然のことながらびくともしない。
(駄目ッ、誰か早く!)
誰にも届くはずのない声で叫んだ!
(…………!)
直後、ひと際大きな波が私達を覆った。
私の頭部と体は丸ごとバラバラの粒子の欠片となって波にのまれた。
――――。
終わった――。この方法なら死ねるんだ……?
いやだ。ここまで来て、みんなにさよならも言えず本当に消滅するなんて――。
――――。
…………?
……意識がまだ途絶えない。
それだけではなく、脳裏を巡る感覚が異常だ。
……痛い。……辛い。……寒い。……苦しい。
危険信号が鳴り響く。
胸が潰されるような圧迫感。
首を絞めるような窒息感。
一体、何がどうなってしまったのか。
目で確かめようにも開けない。藻掻こうにも手足が動かせない。
苦痛からくる死の恐怖が絶えず脳を支配する。
生きている人間なら、とっくに気を失っているであろう激苦が延々と襲い続ける。
気が狂いそうになりながら、かすかな理性の片隅で考えた。
もしかして、これは……いま命の危機に瀕している『ミナ』の感覚!?
憑依なんてオカルトっぽいことを真に受けたくはないけれど、今の状況を表現するにはそれが一番近い気がする。
しかし、自分の意思で指一本も動かせないのでは、そんなに都合のいいものではない。
早く、助けて……。
「……未、……未那!」
かろうじて聴覚は機能しているのか、だんだんとシュウの呼び声が耳にはいってくる。
「しっかりしろ!」
すぐ傍まで来たシュウに、上体を抱き起こされた感触も伝わってきた。
それでも、しこたま海水を飲んでしまったらしく、空気が吸えないままだった。
苦しい……。脳が酸素を要求する。
だけどそれは私自身ではなく、ミナ本体が実際に味わっている感覚だ。
¶
シュウは私の体を抱えたまま泳いで、どうにか砂浜まで泳ぎきったようだ。
「お姉ちゃん……。お願い目を開けて……」
「未那ちゃん! ケガは?」
あぁ、由那とマリアの声も聞こえてきた……。
どうやら、女の子を先に引き上げてから、いち早く陸に引き返えさせたらしい。
ケガ……? 去年の記憶ではぶつけた頭に小さなコブができたぐらいで、大したケガをした覚えはない。
それよりも、息ができなくて苦しいという感覚がまだ脳内を充満している。たぶん心臓の動きも少しずつ弱くなっている。
「君、その子は大丈夫か?」
知らない男のひとの声。おそらく連絡を受けたライフセーバーの男性がここへ駆けつけたようだった。
そのひとがこれから蘇生を試みる。そして一命を取り留める……。
まぁ、おおかたそんな展開になったことだろう。
「おい! 未那に触るな!」
……!?
シュウがいままで聞いたことのない厳しい声で怒鳴った。
「いや、しかし……」
言うまでもなく、ライフセーバーの声は困惑している。
「スミマセン……でも、こいつを助けるのは僕なんです。それよりあの女の子のほうを、どうかお願いします」
シュウの口からそんな
よくわからない理由だった。けれどその時、私もシュウに助けてほしいと心から思った……。
それで、もし失敗しても、それなら納得して死ねると本気で思ってしまった。
シュウは
慣れていないので少しぎこちないところはあるが、懸命に息を吹き込む。
キスなんていうロマンチックなものではないことは重々承知している。
けれど、もう触れられないかもしれないと思っていたシュウの唇の感触と体温を、直に感じられて嬉しかったのは確かだ。
心臓マッサージで胸の辺りも強く押されているとわかった。でも、そこにやらしい気持ちなんて微塵もあるはずがなく、触られていてもまったく嫌じゃなかった。
それから数度目の人工呼吸の後。
(助かった……)
そう感じ取ったとほぼ同時、私の意識は幽体離脱さながらミナの体から追い出された。
すると、空中で大きな輪っかを形作りながら舞っていた粒子の塊が、再び未那の容姿と衣服を驚異の再現性で形成してゆく。
魂ともいうべき私の意識は、その復元した体にあっけないほどすんなりと吸収されて、またもやあの状態を取り戻してしまった。
…………。
(戻っちゃった……)
指を曲げ伸ばししたりして、末端までの感触を確かめてみる。
さっきまで感じていた息苦しさも、ぶつけた箇所のうずく痛みも嘘のようにそこにはない。やはり完全にミナの感覚はシャットアウトされているのがわかる。
「あっ! 未那ちゃんが動きましたよ!」
「よかった息をしだした」
「お姉ちゃん……もうすぐ救急車が来るから、もうちょっと我慢してね……」
とりあえず持ち直したことで、三人は一様に安堵している。しかし、ミナ本人は頭を打ったショックからか、まだ目を開けられないでいた。
「未那ちゃん……?」
「もう大丈夫だ。脈もしっかりしてる」
そう。確かに死ぬほど苦しかったのは体験できたけど、今日の件で無事だったことは私自身が証明している。
これが、この日、私が意識を失って記憶も無くしてしまったことの真相だった……。
(でも、いまのは何だったの?)
私の意識がミナの体に乗り移った。
発動条件はおそらく、たまたま私のこの体が完全分解してしまったこと、更にその場に意識を失ったミナが居たことが、奇跡的に同時に重なって
(これをうまく使えれば、あの日の事件を止められる!?)
そうやって安直に目論むも、実際には相当ハードルが高いことは明らかだった。
第一、さっきのように体ごとすべてを失える状況は限られている。
第二に、ミナが意識を失う状態を任意で作り出すことはできないし、そもそもこの先には意識を無くす事故にも遭ったことはない。まさに奇跡のタイミングだったと言わざるを得ない。
第三には、たとえまた乗り移れたとしても、指先すら動かせもせず口がきけるわけでもないので、意思を伝える術を持たなかったことだ。
あれこれ虚しい思索をしていると、近くに救急車が到着して、ここへ担架を持った救命士達が現れた。
「由那が付いて行ってあげてくれ」
「うん……。病院がわかったら、すぐにメールをいれるから……」
「あぁ、僕とマリアもここを片付けて、後で向かうから」
そう告げてシュウとマリアは担架で運ばれるミナと付き添う由那を見送った。
こうなるとミナのことはプロと由那に任せることにして、私もこの場に残ることにした。
「シュウ君ごめんなさい……。マリアが調子に乗ってアレに乗りたいなんて言うから!」
「何言ってんだよ、マリアの所為なわけないだろ、ちょっとツイてなかっただけだ」
申し訳なさそうにしょんぼりするマリアの頭を、シュウは優しくポンポンしてなだめる。
その後、ふたりは女の子と母親を探して謝りに行ったが、女の子のほうは案外平気そうで、逆に母親と女の子から謝られてしまった。
¶
由那からの連絡を受けて、近くの大きな病院へ急行すると、待合室で由那は待っていてくれた。
「由那ちゃん! 未那ちゃんの容態はどうですか?」
上半身、汗でびっしょりになったシュウとマリアは由那の顔を見つけて詰め寄った。
「大丈夫……。少し前に意識も戻ったところだよ……」
「そうなんですか! よかったですねシュウ君!」
「そっか、本当に何ともないんだな?」
「うん、今は疲れちゃって眠ってるけど……。ちょっと話した感じ、けっこう大丈夫そうだったよ……」
そうだ、次に目が覚めたのは翌日の朝だったのは覚えている。
「あー寝ちゃってるんですか、それじゃあ起こすのも悪いですね?」
「とりあえず……、今日一日は病院で様子をみて、明日精密検査らしいんだけど……」
「そうだな、もしもってこともあるから、今日は無理だよな」
命に別状がないことがわかってひとまず安心しながらも、それでもミナの実物の姿が無いことで、そこにぽっかり空いた存在が、みんなの心の不安定を
「シュウ君。マリア達はどうしますか?」
「明日までここで待つっていうのも大変だな」
「それだけど……、家にも連絡したらね、お父さんとお母さんが代わりに病院に来るから、わたし達には帰って来なさいって……」
そうだった……。次の日、検査でも異常のなかった私は、両親とともに車に乗って帰宅したんだった。
ほどなく三人は、そっと病室にミナの寝顔を見に一度訪れたあと、声はかけずに病院を出ると、由那の言葉に従っておとなしく帰る次第となった。
また電車で二時間半。行きとはうって変わってみんなの口数は少ない。
¶
朝待ち合わせた駅から途中までの帰路は同じ。
やがて、マリアと別の道になる地点までやって来る。
「じゃあな、マリア。またなんかあったら連絡くれよ」
「ハイッ! でも、これでも受験生なのでずっと遊んでもいられないですよ!」
「へぇ、いい心がけじゃないか」
「来年は、みなさんと同じ高校に行けるようにがんばってるんですよ!」
「それなら……いつでもみてあげるから家に来ていいよ……」
「そうですか? 由那ちゃんに教えてもらえれば完璧ですね! でわ、今度お願いします! さようならー!」
たぶんマリアもミナのことが気にかかっているに違いないけれど、精一杯明るく振る舞って帰っていった。
そこから、シュウと由那のふたりは黙ってトボトボと歩き続けて、私達の自宅前まで足を進める。
「そんじゃ由那、未那のことだからきっと大丈夫だ。あんまり気を落とすなよ」
そう言いながら手を振って去ろうとするシュウは、逆に自分に言い聞かせているようでもあった。
「うん……あっ、シュウちゃん。暇ならアイスでも食べていかない?」
由那は、なにか思いついたみたいにシュウの背中を引き止めた。
「……? そうだな、べつに急いで帰る用事もないし、ひとつもらっていくかな」
両親はもう家を出て病院に向かったようで、玄関しっかりと施錠されていた。
由那は荷物から自宅の鍵を抜き取って、鍵穴を回して扉を開けると、ふたりは家の中に入って行き、私もそれに続いた。
お母さんが窓まできっちり戸締まりして出ていったおかげで、
「ふぅ……ちょっと準備していくから……、シュウちゃんはわたしの部屋で待っててよ……」
「うん」
短い相づちだけ残して、自分の家みたいに慣れた足取りで階段を上っていく。
由那の部屋は私の部屋の奥隣。
シュウがドアを開けると、日差しを遮るためのカーテンが閉められていたので、室内は若干薄暗い。
それでも、記録的な猛暑の前では気休め程度の効果しかなく、息が詰まるような熱気がこもっている。
「アッチィな……」
シュウは遠慮なくエアコンのリモコンを操作して冷房をつけてから、冷たい風が当たる真ん前で服の襟をパタパタと広げる。
…………。
「どうしたんだろ、意外と遅いな」
首をひねるシュウにも思い当たるフシが見つかったようで、鼻の頭を掻いた。
事故のゴタゴタでちゃんとシャワーを浴びれていなかったので、家に帰ることができたいま、シャワーを使っているのだと理解したらしい。
特に何かするようでもなく、手持ち
本人の見かけによらず由那の部屋は案外可愛い物が少なく、無駄のないシックな感じでまとめられている。
視認性のよいデジタル時計は、もう少しで十七時に変わろうとしているところだった。
今日はいろんなことが一遍にあったので、思ったより時間が経っていない気がする……。
数分間ただぼーっとしている間に、ラフな格好に着替えた由那が両手にカップアイスを用意して戻ってくると、シュウにひとつを手渡した。
恋人らしくふたりはぴったり並んで座ってバニラのアイスを食べ始める。
シャワーあがりの由那の顔は、ほんのり上気してやたら色っぽく見えた。
「ねぇ、シュウちゃん……」
「ん?」
由那が不意に話しかけると、シュウの手も止まった。
「キスして……」
…………!
シュウと私が動揺するほど、予想外で爆弾的な一言に自分の耳を疑った。
ドクンと自身の心臓が高鳴るのもわかったけど、きっと由那本人はそれ以上のはずだ。
「い、いきなり何言ってるんだよ!」
「……お姉ちゃんとは、したよね……?」
どうやら溺れたときの、あの一件を言っているようだった。
「あれはそんなんじゃないだろ」
「だって……」
「由那やマリアでも同じ状況だったら助けたさ」
マリアでもというのは幾分引っかかるが、たぶん嘘じゃない。シュウならきっとそうしたような気がする。
「怖いの……」
「怖い?」
「あのときのシュウちゃん……好きとか……愛情とかとは違う……べつの雰囲気があって……」
由那は考えながら、がんばってひとつひとつ言葉を吐き出す。
「何か……もっと強い……運命みたいなもので、やっぱりお姉ちゃんを選んじゃうんじゃないかって……」
「…………!」
シュウは言葉を失った。
由那は、そんなシュウに正面からにじり寄って、下から顔をじっと覗き込んだ。
「わかった」
シュウはつぶやくと、手にあったアイスのカップをテーブルに戻して、由那の両肩を掴んで唇を合わせた。
最初は優しく短い。二度目は長い……お互い息継ぎを忘れてしまったのかと心配になるほど続く。
眼鏡の奥で瞳が潤んで、全身はアイスよりも溶けてしまっている。
やばい……本来ならばふたりっきりの空間。
エアコンが効いているはずなのに、イヤな汗が流れる。
このあとに何が始まるのか……。そんなに子供じゃないから私にだって想像ぐらいできてしまう。
(そんなところなんて見たくない!)
そう願って、いまできるせめてもの抵抗だったかもしれない。
結晶を手の中に準備してから、ふたりが唇を離した隙に間に割ってはいって、シュウに私の存在を認識させた。
目と目が合う。次の瞬間。
ひとたび空気を震わせて凍てつく世界――。
この七月二十五日という過去に滞在したのは八時間。ここまでの合計滞在時間は六十九時間十分を刻んだ。
したがって、腕時計の針を九時十分にセットする。
放出される光とともに私の意識は五十時間先に跳んだ――。
「帰りたい……本当の気持ちを伝えたい」
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