4章

【4章】

 ――――。


 目蓋の裏に薄っすらとした明るさを感じて、ゆっくりと上下のまつげを離そうとする……。


(――朝……?)


 ……頭の中がぼんやりとして状況を掴めないでいた。

 記憶が曖昧で結びつかない……。


(夢? ……ひどい夢)


 睫どうしが濡れていて、うまく開けなかった。


(あたし……、泣いてた……?)


 頬を流れ伝った痕があって、それが涙だとわかった。


(腕が、痺れる……)


 イスに座ったままの体勢で、机に顔を伏せて寝ていたのだとようやく理解できた。


 顔を少しあげて、手の甲で涙をぬぐった。


「ここは……? 部室?」


 眼の前の光景を忘れているほど寝ぼけてもいないらしい……けれども。

 あきれた……。学校の部室で朝まで熟睡するなんて、どれだけ疲れていたんだろう。


「昨日……帰らなかったんだ? 由那、心配してるわよね……」


 まだ頭のもやは晴れないでいた。


 ケータイに連絡が入ってないかと思い、右手を伸ばして届く範囲やポケットの位置を探る。

 ……? 周辺にはそれらしき物が触れられない。


 でも、左手の中に何か握られている感触を覚えて、そっと指を伸ばしながら視線を向けた……。


「…………!」


 瞬間、ぞわっと鳥肌が立つ。その手にあったのは……、正真正銘あの結晶体。


「これって、まさか。なんで……」


 夢じゃない……!? どこからが夢だったのか?


 これが手の中にあるってことは、依然重大な事態は継続しているということになる……。

 呆然としていた頭を左右に振りながら上体を起こした。


 …………?


(あれっ、なんか……、おかしい?)


 部室の様子にあれこれと違和感がある……。記憶と一致しない。

 昨日、放課後ここに戻って来たときには部屋の明かりを点けたはずが、いまは消されている。


「停電?」


 違う、そんなことはない……。照明のスイッチはオフのほうを向いている。

 しかも、机の上に置いたはずの荷物や工具も、さっぱり見当たらない。


「なんで、もしかして寝てる間に盗まれた!?」


 そんなことにも気付かないなんて、眠っていたというより、何者かに気を失わされていたと捉えるべきか。


「やだっ、ケータイも……?」


 立ち上がって周囲を調べようとしたとき、更なる異変に気付く。


「…………?」


 イスが後ろにずらせない……。まるで強力接着剤で塗り硬められたかのようにびくともしない。

 犯人のイタズラか? 仕方がないので体を向き変えて席を立った。


 部室内をぐるっと見回しても、ケータイの影も形も無い。


「もぅ……、困ったわねぇ……」


 いまや必需品ともいえるケータイが無くては不便すぎるし、内部の情報が他人に漏れれば知り合いにまで迷惑をかけることになりかねない。


 問題はほかにもある、この手に握っている謎の結晶。持ち主だったマリアとの関係を解決するのは気が重い。


「時間は……?」


 振り向いて部室の掛け時計を見ると、針は六時十五分を指している。学校が始まるまでには、まだいくらか余裕があった。


 少し考えを整理したい。


 寝覚めのコーヒーでもたしなんで、人心地着くことにするのはいい思いつきだった。

 そうなると、手の中の結晶は邪魔になるので、制服の左ポケットに仕舞っておく。


 お気に入りのマイカップを収納してある棚の戸に指をかける。


 …………!?


 戸は固着して、力をこめても開けることができない。


「なんなのよもう……。調子狂っちゃうわ!」


 さっきのイスといい、いくら何でもおかしすぎる……。


「なんか、イヤな予感がするわね……」


 部室の窓ガラス越しに外の景色を観る。

 そこにある現実に、強烈な目眩を覚えた……。


(まだ……夢なの……?)


 夢であってほしいというのが本心だ。

 なんでもっと早く気が付かなかった? 私の姿が、あらゆるガラスというガラスには映りこんでいない。


「これって、相当やばい状況なんじゃないの……!?」


 あまりの異常事態に脚の震えを止めることができなくなり、ぺたんと床に座り込んだ。

 私に何が起きているのか? パニックになりそうな頭にブレーキとアクセルを同時に操って無理やり答えを捻り出す……。


「昨日の出来事はたぶん夢じゃなかったんだわ。そうよ、いまの有様はきっとそれが原因としか……」


 『私』という意識と身体は、確かに今も尚、残されている。けれど、死んでいるとも生きているとも、まだ判断はつけられない……。


 身に着けているのは……。服、腕時計、学校の内履き、ポケットに入っていたハンカチと最低限の物しか無い。あと、忘れてはいけない例の謎の結晶。


 左手首の腕時計を覗く、針は六時五十分を指して秒針ごと止まっている。昨日の事件があったのはのそのあたりだった気がするので、そこで停止してしまったのだと考えられる。


「役立たず。こんなんじゃ、時計として意味ないじゃない……」


 おそらくは、時計の電池から電子の移動、つまり電気を作るといったことができなくなったのだろう。リューズを引いて回すと針を機械的に動かすことは可能だった。


 再び、部室の掛け時計を見返し、あることを確認する。六時二十二分……秒針もしっかり動いていた。確かに時間は進んでいるらしい。


「どうやら、あたし以外の時間が止まった閉鎖空間。ってことはなさそうね」


 時間が経過しているなら日付も変わっているはず……。今がいつなのか、壁掛けの日めくりカレンダーがある場所に視線を移した。

 

 …………?


 けれど、そこにあるはずのカレンダーは跡形もなく、いまは白い壁がえる。


「あれ? どこいったかしら」


 やはり記憶との齟齬そごがみられる。


 案外冷静になれたことで、震えが止んで立ち上がれるようになると、その付近を見回す。


 代わりに、窓際の物置台に小さな卓上のカレンダーを発見した。けれどそのカレンダーは、どこかで見覚えがあった物で、それが何だったのか近寄って確かめる。一番上に記載されていた西暦と月は……。


 ……!


六月?」


 思い出した。この卓上カレンダーは、私が二年生のときにここにあったカレンダーだ。

 あると思っていたはずの壁掛けの日めくりカレンダーは、私達が三年になってから由那が掛けた物だったはずだ。


「こんな馬鹿なことって……」


 やっと、私の身に何が起こったのか、おおよその予想がついた。


「過去への時間移動……。タイムスリップね」


 それなら昨日と異なる部室内の状況変化にも、すべて納得ができる。ここは去年の六月の光景だ。


「それも、あたしのおかれている体の状態からして、限りなく幽霊理論に近い時間移動だったみたいね」


 幽霊と違うのは、重力を受けているにもかかわらず、床をすり抜けずに自らの足で立てていること。

 これが、すり抜けできる幽霊ならば、重力に引かれた身体は地面を貫通して、底なし沼にはまるように地球の核へと向かうだろう。

 日本の幽霊が浮遊しているイメージで描かれることが多いのは、重力を無視するための合理的な設定だ。


「自分からはこの世界の物に触れても動かすことはできないのね、やっかいだわ」


 こちらに身に着けて持ち込めた以外は動かせない。たぶん、物としての概念がすでに違うのだと思う。


「ちゃんと着ていた服を持ち込めたのは不幸中の幸いだったわ……」


 もしこんな場所で全裸だったら恥ずかしすぎて、幽霊だったとしても死にたくなるところだった。

 けれど、物を動かせないというのはとても不便だ。部室の扉を開けれなければここから出ることさえできない。


 状況を分析してみたものの、問題は山ほど思いつく。

 まず最初に思い浮かぶのは……よくある話、この世界に『別の過去の自分』が存在するのかどうか? ということ。


 謎の結晶の力が時間を巻き戻す力なら、私自身も巻き戻された存在で、過去の自分は存在しない可能性が高い。

 それとは別で、私の存在を過去に送る力だったなら、過去の自分がほかに存在する可能性のほうが高い。


「んーいままで部室に朝までいた。なんて経験がないから、巻き戻されてはいないはずよね?」


 私の現状を踏まえて考えるなら、おそらくは後者と推察できた。


 次に、元の世界に無事に戻れるのか? という、もっとも重大な問題。

 まったく保証となりえるものは無い。ここでの時間の流れと、元の世界の時間の流れの速度が同じなら永遠に追いつくことはできない。


 の天才理論物理学者、スティーブン・ホーキングの論に従えば、光速の九十八パーセントに達する速度のロケットに乗って移動すれば、ロケットの中での一日は地球の一年にあたる。


「うまく調整すれば……って、ロマンはあるけどそんな乗り物はこの世界にもないでしょうね」


 ただひとつ希望があるとすれば、この謎の結晶だけが最後の頼みの綱だ。


 私は、この『過去』という時間の世界で、謎の結晶の秘密と、マリアの正体を知る必要があるのかもしれない。


 卓上カレンダーからは、いまが去年の六月ということまでしかわからない。


「ちゃんとした日にちまで知りたいわね、それにはまず、この部屋から出るしかないけど……、誰かが扉を開けるのを待つしかないのかしら?」


 時刻は六時四十五分……。この時間にこんな辺鄙へんぴな場所まで誰かが来るはずもない。


「まいったなぁ、ヒマすぎるわね……」


 逼迫ひっぱくした事態との反面、何もやれることが無いというのは間が持たない……。

 部室の机の周りをアテもなく、ぐるぐると歩き回る。


「こんなことしてる場合じゃないんだけど」


 すぐに歩き回ることにも飽きて、部室の扉に背中でもたれかかる……。


 ――――!?


「キャッ!」


 また、おかしな現象が起こった。

 扉は私の体を受け止めず、するりと背中からとおり抜け、私は廊下へ飛び出した。


 意表を突かれ、完全に重心を背中に預けていた所為で、バランスを崩して危うく背面から倒れそうになった。


 反射的にバックステップで転倒を堪え、廊下の壁にぶつかって体は止まった。


「……なんなのよ? 今のナニ!?」


 こっち世界の物体は固定されたようにしか接触できないのかと思って完全に気を抜いていた。

 驚きのあまり目が丸くなる。


「すり抜ける物もあるっていうの? どういうことよ?」


 またしても、大きな疑問が湧き上がる。

 部室の扉は抜けられて、廊下の壁は抜けられない……?

 扉を指で慎重に押してみると、抵抗すら無くいともあっさりと中へ貫通していった。

 次に、隣の壁を押してみても、びくともせずまったくすり抜けることはできなかった。


「――? よくわからないわね。なにか特別なルールがあるってことかしら……?」


 だが予期せぬかたちで、部室から脱出するという最初の目的は果たせていた。

 現象の原因を究明するため、廊下へ移ると、窓ガラスに指先を触れながら、ゆっくり歩いて進む。


 …………!?


 そのうちの一枚のガラスが手をすり抜けた。


「……あっ」


 それで、すり抜けられる窓ガラスと、そうでない窓ガラスの違いは、ひと目で判断できた。


「鍵がかかってない……」


 校舎三階廊下の窓ガラスの戸締まりが、きちんとされていないなんてのはよくあることで。

 部室である理科準備室の扉も、普段から鍵なんてかかってなどいなかった。


 科学的な根拠では解釈できないけれど、私のいまの状態は概念的な影響を強く受けるみたいだった。

 この事例で例えるなら、鍵がかかっているという事実が、そこに閉鎖的な壁を構成し、反対に鍵がかかっていない場所は開放されていると自動認識されるようになっているらしい。


 一見、そんなことはあるはずがないと思えそうだけど……。

 もし、その法則が無いという逆のパターンで考えるなら、物を動かすことができない私のこの体で、誰かが開けた自動ドアや回転ドアに私が挟まれたとき、この世界の住人からみて、そこに不可解な怪奇現象が起こったように見えてしまうことになるだろう。


「よしっ、これなら行ける場所が格段に増えるわね」


 日常生活において扉で閉ざされている場所は数多い。

 その都度、足止めされては不都合すぎて、あのままだったらこの先どんなトラブルに巻き込まれるかも、わかったもんじゃなかった。

 すり抜け《スルー》の法則が把握できたので、私はそこから一番近い教室の中へ入った。


「なかなか慣れないわねぇ」


 痛みなどは感じないが、自分が普通の存在じゃないことをまざまざと思い知らされるのだ。


 教室内の前方にある黒板には、チョークで書かれた昨日の日付が、まだ消されずに残っていた。


「昨日が十二日みたいだから、今日は六月十三日ってことよね……」


 ついでに教室の時計を確認すると七時を過ぎていた。このぐらいの時間だと部活の朝練で登校して来る生徒もいるはずなので、学校からは出られるようになっているだろう。


「けど、もっと情報がほしいわね……」


 教室を後にすると、まだ誰の声もしない朝の廊下を通り、一階の生徒用玄関に場所を移す。


「そろそろ誰か登校して来てもいいころよね?」


 側で五分ほど待機していると、校門の先からひとりの女生徒が現れる姿が見えて、その子は当たり前に玄関を開けて入ってきた。

 あまり会話したことはなかったが、その顔に見覚えはあった。確か……吹奏楽部の当時、二年生。つまり同級生の女子だ。


「おはよう」


 と、何食わぬ顔で自然に挨拶をしたつもりだけれど、彼女は完全にノーリアクション。

 それは、私のことをわざと無視したのではないようだ。

 彼女は、こちらを振り返ることもなく、平然と内履きの靴に履き替えて廊下の奥へと歩いて行ってしまった。


 わかったことは私の声は届かないということ、声は空気を振動させて伝わることはなく、自分自身で声を出していると錯覚させられているだけ。


「やっぱりね、本当に見えてないんだ……。あたし」


 窓ガラスに姿が映っていなかったことで、それなりに覚悟はしていたけれど、この世界で誰からも認識されない存在になったのかと思うと、結構ショックだった。


 しかし、開き直って考えるならメリットもある。誰にも認識されないというなら、自由に調べ物ができるということだ。

 もし、この世界に過去の自分がいたとしても『ドッペルゲンガー』的なパラドックスは起こる心配もない。


「この時間なら『』は、まだ自分の家ね」


 いつもの通学路を辿って自宅に向かえば、途中で入れ違いにならずに確かめることができるはずだ。


 生徒用玄関の扉を目前にして、念のため指先で軽くさわってチェックする。

 まるで、そこに見える扉は元々ホログラフィックか何かの偽物とでも思わせんばかりに、法則どおり何事もなくすり抜けられる。

 常識はとっくに通用しなくなっている。いつまでも同じことで驚くのはやめた。


「はぁ……こんなの、体が見えてたら間違いなく幽霊だと思われてもしょうがないわよね……」


 足元は内履きの靴のままだけれど、裸足よりはかなりマシなので、それもこれ以上はもう気にしないことにした。


 校庭を抜けて自宅へと急ぐ。途中で何人かの通行人と出会ったけれど、存在感が薄いなんてレベルじゃない。やはり誰の目にも止まることはなかった……。


 周囲の人間から察知されないってことは、相手から避けてもらえることがなく、ときには自転車にぶつかりそうになったりと煩わしい。


 それでも、自宅の玄関までは無事に着くことができた。玄関前で耳をそばだてると中からは生活音が漏れ聞こえてくる。


「大丈夫、まだ居るみたいね」


 そして、ドアに人差し指をたてると、例によって鍵はすでに開いていることが判別できた。


「絶対、気付かれないわよね……?」


 我が家に入るのにこれほど緊張することがあるとは、いままで思いもよらなかった。

 ドアを通過すると見慣れた光景に、不思議と安堵の息が出た。


 行儀が悪いと思ったけれど、どうせなんの影響も無いだろうから靴は脱がず、そっと家の中へと上がる。

 リビングのドアは開けられたままだったので、廊下まで話し声が響いていた……。

 こっそりとドアの影から様子を覗き見る。


 ――居た。過去の『』。というのはややこしいので、彼女のことは『ミナ』と呼ぶことにする。

 ミナは確かにそこに存在した。


 それと、由那とお母さん……。大学教授のお父さんはもう出掛けているのか、この場には居ない。

 何気ない普段どおり、日常の場面がここにある。


「由那……。お母さん……」


 きっと、元の時間世界では私がどうにかなってしまったことで、みんな心配しているはずだ。

 堪らなく申し訳なくって、涙がこみ上げてきた。


 …………!


 涙を手で拭いている、その時だった。

 ソファでテレビを観ていたミナが、リビング入口のドア方向に視線を逸らした。


(……!?)


 咄嗟に、出していた頭を引っ込める。


(ひょっとして……見えるの?)


 もう一度、おずおずと顔を出して確かめる。

 ミナは勘違いだと思ったのか、またテレビのほうを見入っている。


「まさか……ね」


 とりあえずは、。そのことを確認する目的は達成した。

 これで注意するべき点がひとつはっきりした。

 あの、『ミナ』の未来が変わるような行動を執ってはいけない。

 ようするに、自分の過去を改変した結果、ここに来る原因(因果律)が無くなることで、私自身の存在が危うくなりかねないからだ。


「ここで、あまりのんびりもしてられないわよね」


 何故なら、元の世界の私がどういう状態になっているかわからない。


 もしも、体ごと消失していた場合、謎の行方不明となって数日で失踪人扱いになる。

 たまに、ワイドショーなどで行方不明になった子供が数日後にひょっこり発見されたりするが、その真相は語られないなんてことがあるけれど、ちょうどそんな感じになってしまう。


 最悪のパターンは、体が現場に残っていて息を引き取ってしまっていることだ。

 当然、葬式まで行われることで、本体が焼かれてしまえば無事に戻れる術は無い。


 助かれるパターンがあるとするなら、体は残っていながら、意識不明の昏睡状態のようなものになっていてくれれば、発見され次第に病院へ搬送されて生命維持はしてもらえる。


 私は急ぎ足で玄関を突き抜けて、家から飛び出した。


 ……!


 自宅を飛び出した私の前に、ひとりの男子生徒が現れた。

 その顔をけっして見間違いなどはしない。 


「……シュウ」


 去年、一年生だった時の少し懐かしいシュウだ。身長は、いまよりちょっとだけ低く、やはり顔つきもどことなく幼く見える。


 シュウは私の家を訪れた。

 そうか、この日の朝はシュウがふたりを迎えに来た日だったらしい……。


 …………!?


 そのシュウの足取りが、どうしてかぴたりと止まった。

 そこから私が立っている前方を見据えている。


「……?」


 それが今、完全にシュウと目が合った……!


「ウソ……」


 さっきのミナと同じ? この姿は誰にも見えてはいないはずなのに……。

 シュウがまた前へ踏み出したので、私はそれにぶつからないよう、二歩右へ引いてたいをかわした。

 今度はその動きを、僅かに目で追われた……。


 けど、それだけだった。シュウは真っ直ぐ玄関前へと進んで、インターホンのボタンを押す。


「やっぱり、見えてるはずないわよね……」


 その間に、私はその場から走り去った。


「何だったのあれは、偶然……? それにしては」


 実験では、『ゴーストイメージング』という光情報を検出・再構成する技術を用い、人間には通常可視覚できない空間映像を実際に見ることができるようになるという現象があるらしい。

 その原理が関係しているのかはわからないけど、さっきのシュウにはそれに近いことが可能だったのだろうか?


 しかし、私がこんな状態だということを、シュウや私に近い人間に認識されるのはまずい気がする。

 これも、シュウのこの先の行動が変化などして、未来が改変することによって、何が起こるか想像がつかない。





 それより、私が次に調べなければいけない重要なことがあった。

 マリアの正体を確かめること、この謎の結晶の秘密を解き明かすには必要不可欠になってくるはずだ。

 しくもいまの状態なら、マリアに知られずに接近することができるので、捜査にはうってつけだった。


 まずは、この時点で中学三年生のマリアを探すことにした。

 急いでマリアの家へと足を運んだけれど、もうそこに姿はなく登校したあとのようだった……。昔、マリアが通学路にしていた道を追って、母校でもある中学校へと目指して移動する。


「見つけた!」


 学校に入る手前で、なんとかマリアの背中に追いついた。

 マリアの容姿は後ろからでもひと際目立つので、そこは容易でなにかと助かる。


「マリアはあまり変わらないわね」


 この頃からすでにアニメキャラのようなツインテールに、懐かしいセーラー服が一段と萌える。


「マリア! ちょっと待って」


 念のために声をかけてはみるが、やはり反応は返ってこない。


「もしマリアだけには私が見えるなら、それだけで証拠がつかめると思ったのに残念だわ」


 そこからはマリアに張り付いて、怪しいところがないか徹底的にチェックすることにした。

 マリアは基本的にはいい子だから、学校では男子からも女子からも人気があるようだ。女の子の格好をしていることで、一部の生徒からいじめに合っている様子もなくて安心した。


 私も……、こんな事件さえ起こらなければ、マリアを疑うことなど一生なかったはずだ……。


 ――授業中。マリアは勉強はあまり得意ではないはずだけれど、受験生という自覚があるためか、まじめに授業を受けていた。

 休み時間や、お昼休み。女子達の輪に入って、たわいもない世間話で終始盛り上がっていた。

 そして、その日の授業が全て片付くと、部活動をしていなかったマリアは早々に帰宅した。


「ここまで一部始終を観察してみても、学校じゃ何の異常も感じなかったわね」


 私の知っている、マリアという人間そのものだった。


 帰宅してからは、自室でひととおりテレビを観たり漫画を読んだりとリラックスしている。

 さすがに、トイレとお風呂は少し躊躇ちゅうちょはしたけれど……。


「悪いけど、私も自分の運命がかかってるんだから引けないのよ」


 肝心なところなので、しっかり観察させてもらった。


「本当にびっくりするぐらい女の子みたいな躰ねぇ」


 あいにく、胸だけはぺったんこだけど、やわらかそうな躰の丸み、細いウエストに手足のバランス。

 女の目線からみても見惚れるほどキュートだった。

 これぞ完璧な男の娘。なんでこんなことになっているのか、今更ながら不思議でもある。


 マリアはそのあと、夜遅くまで宿題やら受験勉強をやって就寝した。

 正直こんなに勉強しているとは思いもよらなかったので、予想外すぎてなんだか見直してしまった。

 しかし、一日中、見張っていたにもかかわらず、ここまでは何ひとつ不審な箇所は現さなかった。


「おかしいわね、本当にマリアは何も知らないのかしら……?」


 もしかしたら、マリアは偶然にもあの話題をきっかけに、家にあった装置を持ち出しただけで、結晶の秘密を知らなかった可能性もゼロではない。


「それだとアレを所有していた家族が怪しいってことになるわね」


 私は念のため、マリアの両親と、この世界に元からあるはずの原子時計を調べることにした。

 とはいえ、物体を動かすことのできないこの状態では、夜中の暗い現場での探し物は困難だった。


「でも、あれほど貴重な物が放り出して置いてあるはずもないっか」


 やっぱり一旦、原子時計を探すのは断念するしかなかった。

 だから、マリアが眠っている間、両親を見張ることにした。



 それから朝を迎えて、マリアと両親が寝床から起き出して、朝の準備が始められるまで、何事もなかった。ごく普通の人間の営みがあるだけだった……。


「甘かったかなぁ、そんな簡単に正体は明かさないってことか」


 けれど、それとは別に判明したことがふたつあった。

 ひとつ目は、徹夜で見張っていたというのにぜんぜん眠気がやってこない。

 眠る必要が無いということは、活動できる時間が長く。ある意味、得した気分になれる。


 ふたつ目は、これだけ活動したはずなのに、いまだに空腹も感じない。

 そもそも物に触れることができなければ、食べ物を摂取することもできないのだけれど。

 仮にお腹が減るなら、一週間もせず餓死して詰むのは明白だ。


「うーん。今日はどうしたらいいかなぁ」


 現状では謎の結晶の秘密を解明しないことには、元の世界に帰れる気がしない。

 けれども、マリアに何も秘密がなければ、時間を費やすだけ無駄になることも確かだった。

 だが、やはりこの家をもう少し調べたほうがいいと考え、マリアと両親が外出したあと、調査続行することにした。


 マリアの屋敷で、私がはいれる部屋を一箇所ずつあたって、手掛かりになるものが無いか、入念に探し回った。

 それでも、やっぱり物体を動かせない制限がネックとなり、一向に調査は捗らないでいた。


 どうやらマリアのお父さんは科学者の端くれのようなこともしているらしく、めずらしい機械や器具を収集する趣味があるみたいで、家のそこかしこにガラクタのような装置がインテリアとして飾ってあった。


「この中からあの原子時計を見つけるのは、さすがにきついわね……」


 半日がかりで手当たり次第チェックしたけれど、残念ながら有力な証拠は得られなかった。


 もしかしたら、去年のこの時点ではまだソレを手に入れていない可能性もある。

 それだけではなく、収集したそれらの機器の中で原子時計だったものが、本人もあずかり知らないところで、実は謎のオーパーツだったという線すらありえるわけだ。


 いろいろな場所を探索していたことで新たに判明したのは、押入れのふすまのような鍵のかかっていない入口でも、中に物があって狭く、じゅうぶんに体が入れる容量が無かったり、戸棚や机の引き出しみたいな狭い空間には、すり抜けることができないらしい。そこはひとつの閉鎖空間と確定してしまうようだった。


「なるほど、最初に部室でカップの収納棚を開けられなかったのはそのためね」


 これ以上、ここではたいした収穫は得られさそうになかったので、別の場所へ行くことにして、マリアの家を抜け出した。


「はぁ……手掛かり無しか……」


 体は疲労しない。だけど頭の中は焦燥や葛藤、不安などの感情が整理できないことで疲れきっていた。


 自然と歩く足取りも重い……。


 ――――。


 その時、目の前でぽつりと水滴が落ちて、地面に黒い染みをつくった。


「雨……!?」


 あやしい曇り空から、ぽつぽつと雨数が多くなってきて、私の体にもいくつか当たる。


 当たるというのはこの場合は語弊ごへいで、実際には雨粒は体を濡らしたりはせず、すり抜けてゆく。


 フィクション作品の透明人間のような存在なら、肌の表面が濡れることで人の形が浮かび上がる……。なんて場面シーンであったりするんだけど。


「…………!」


 いや、すり抜けてはいるものの、それは少し奇妙だった……。

 雨粒が貫通した箇所には数ミリの小さい穴が開いて、そこから身体や服を構成していた組織が粒子となって霧散しているように見える。


「はぁ!? 今度は何なのよ?」


 だが、痛くも痒くもない。霧散した粒子はしばらくすると元の位置に戻り、再生されて穴は綺麗に消えた。

 そのうちどんどん雨脚が強くなり、雨粒がとおり抜けた箇所で拡散と再生が、次々と繰り返されている。


「これ、なんかやばくない? えっと、ここからなら自分の家が一番近いわね」


 雨で濡れる心配はなかったけれど、体に無数の穴が開いているのは、見た目がかなり気持ち悪い。

 どこか近い他人の家に入って雨宿りしていてもよかったが、とにかく自宅へと急いだ。


 自宅の玄関の鍵は開いていたので、これまでと同じように、問題なくすり抜けて進入することができた。


 屋根のある場所へはいり雨から難を逃れたことで、全身に空いた穴は回復魔法をかけたかのように粒子が舞い戻って元通り復元してしまった。


「信じられないわね……本当にどうなってるの? この体……」


 けれど、理解できないわけでもない。私には動かせないはずの物体が、向こうからぶつかってきた場合。それを停止させることは不自然になる。


「これってつまり、すり抜けにもパターンがふたつあるってこと……?」


 この先の危険を回避するために、ここはきっちり検証することにした。


「といっても、自分じゃ蛇口もひねれないし、ほんっと都合わるいわね」


 過去の世界に来てからというもの、度重なる理不尽でついつい愚痴もでてしまうというもの。


 家の中ではお母さんが何かしらの家事をしているので、どこかで水を使うのを待ち構えてみる。

 はやる気持ちを抑えつつその時を待っていると、ほどなくしてお風呂の仕度を始め、湯船にお湯を溜めながら、お母さんは別の部屋に行ってしまった。


「やっと検証できるわ。んーどれどれ」


 まずは溜められたお湯に触れてみる。


「なるほど、止まった液体は固体と同じ感じね」


 これは動かすことのできない物体と同様の反応。

 残念ながら、私はこの世界ではお風呂に浸かれそうにない。


 今度は、蛇口から流れ出るお湯に触れる。


「うわぁ、まるで砂鉄ね」


 先ほどの雨のように、流水に接触した指先は、ひとたび粒子となって拡散したかと思うと、またすぐに何事もなく再構成された。


「これも、法則ルールってことね」


 これが拡散ではなく、すり抜けだったなら……。流れる水と留まる水の中間では、すり抜ける反応と、動かせない反応の違いで小さな矛盾が起こる。


 仮にこれが水ではなく雪だとすれば、積もった雪の上に立っているとき、さらに上から雪が降り積もったら、すり抜けた雪は本来は触れられないはずの足元には積もっていくことになる。


「そうか、矛盾を回避するために、体のほうが拡散・再生という形で処理されるルールが仕組まれているってことらしいわね」


 薄々疑問に感じていたことも、これで解決されそうだ……。


 もしも、今の状態の私が、この世界で車にはねられるなどの事故に遭った場合どうなるか?

 これまでに判明した結果から推測すると、触れて動かすことはできない条件と、すり抜けることができない条件を満たしていることで、向かってくる相手に対しては、体が拡散して再構成されるだろう。


 …………。


「それって、ようするに……」


 私は、この世界では死んで消滅することはない。

 物理的に死ぬ事も、溺死する事も、疲れ果てて死ぬ事も、空腹で死ぬ事さえもありえない……。


 『全ての法則が死ぬことを許さないシステムで構築されている』


 私は気付かされた。

 誰にも認識されることもなく、永遠にこの世界に取り残されたのだと……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る