第304話


「……なるほどねー。すっごいこんがらがってるのは分かったよ」


 食堂でフランツが振る舞ったお茶を飲みながら、ケントとレミリアに一通りの説明を終えた後。

 ケントが溜息を吐きながら、疲れた様に笑った。


「というか、カイリ、本当によくメモの全文覚えてたよね! やっぱり勉強の鬼だったからだね!」

「よく言うよ。お前だってどうせ全部覚えてただろ」

「まあね。一応メモは僕が預かってたけど、色々調べた後は、中身自体はあまり見ることはなかったよ」


 これである。


 流石はかつての学校の期待の星だ。悠々と最難関大学でA判定を連発していただけある。胸を張って得意気にするケントに、カイリは呆れた。


「僕も、カイリが言っていたところは気にはなってたんだよね。だから、ガルファン殿が色々隠そうとしていたっていうのに異論は無いよ。……わざと文章に違和感を持たせる様にしたのもね。レミリア殿はどうです?」

「……そうですね。……ケント様みたいにねちねちした読み方は出来ませんが」

「カイリも同じ読み方しているんですけど!」

「カイリの様に細かく丁寧な読み方は出来ませんが」

「……僕との扱いの差、酷くないですか?」

「とはいえ、私もカイリが会話にヒントがあったと言われてから思い返して、ガルファン殿の様子は気になっていました。……今思えば、という感じではありますが、あの時のガルファン殿は何というか……いつ死んでもおかしくない、という達観した表情をしていた気がします」


 ケントの非難を華麗にスルーし、レミリアがカイリの穴を埋めてくる。

 彼女の表現の仕方に、カイリはぞわっと背筋が粟立つ思いがした。自然と前のめりになってしまう。


「レミリア。死んでもおかしくないって、……どういう意味?」

「極端な例になってしまいますが、……戦地に赴く騎士の顔に似ている感じがしたのです。悔いはない、と言いますか……思い残すことなく戦地へ向かえる、と。戦争を経験していないカイリには難しい例でしょうか」

「いや、……。言いたいことは、何となく分かったよ」


 カイリは、ガルファンとの会話で「私もこれで」という言い方が気になっていた。先程フランツ達と話した時にも、「カイリが変わっていないから、安心して何か出来る」という意味に取れると話したばかりだ。レミリアの感覚が本当なら、益々そういう意味に取れてくる。

 彼女の解釈に、フランツ達も唸っていた。フランツはあごに手を当てて、視線を虚空に泳がせながら疑問を口にする。


「先程、カイリとも話していたのです。ガルファン殿は、最後にカイリが変わっていないことに安心し、『私もこれで』という言い方をしていたと。カイリが変わっていないから、自分も安心して『何か』が出来るという意味に取れる気がするのです」

「……なるほど。カイリは変わらずにケント様を足蹴にして正々堂々と背中を蹴り飛ばせるから安心した、という意味ですね」

「違うからな? 違うからな? 俺、ケントのこと足蹴にしていないからな?」

「えーと、レミリア殿は妄想の世界に置いておいて。……カイリが変わっていたら、実行を躊躇していたってことかな」

「どうだろう……。俺が変わっていたら実行を躊躇する目的って、何だ?」

「さあね。でも、……今までの情報を総合すると、あまり良いことには思えないかな」

「そうですね。ですが、カイリがケント様を馬車馬の様に働かせれば問題は解決するでしょう」

「いや、……効果はあっても、新人はしなさそうっす……」


 レミリアが即答でとんでもないことを言い出したので、エディが微妙に顔を引きつらせていた。カイリも苦笑いになるしかない。

 だが、ケントとしては別の楽しさを感じた様だ。カイリの方を向き、頬杖を突いて首を傾げる。


「ねえ。カイリはさ、ガルファン殿から悪意を感じたりはしなかったんだよね?」

「え? あ、ああ。……特に何も。歌のことも、メモのことも。嘘を吐いている様には思えなかったけど」


 小首を傾げて確認されて、カイリは戸惑いながらも肯定した。

 ケントにはそれだけで充分だった様だ。やっぱりね、と満足げに目を閉じる。



「やっぱり、とは何ですかな?」

「カイリは、人の好意には凄まじく鈍感だけど、悪意には神経質なくらい敏感ですから。僕、その辺りのカイリの感覚は絶対的に信頼しているんですよね」

「悪かったな、神経質で!」

「仕方がないよ。だって、カイリは前世で常に悪意を向けられている状態だったんだよ。いくら、今回の生では愛されて育ったからと言って、そういった感覚を忘れるわけじゃない。……どれだけ違う道を歩いていても、どれだけ昔の自分と違っても、前世を無かったことには出来ないんだ」

「――っ」



 ケントの最後の独白に、カイリも声を詰まらせる。周りも、どう反応して良いか分からずに口をつぐんでいた。

 ケントの言いたいことは分かる。今のケントも、今のカイリも、確実に前世とは違う道を歩んでいて、今形成されている自分は前世とは違うと言える。


 けれど、だからと言って前世の経験が無かったことになるわけではない。


 ケントの言う様に、カイリは他人よりも悪意や向けられた警戒心に敏感な自覚はある。悪意に関しては、己に向けられたものだけではなく、関係ない者達へのものまで見えてしまう時も多かった。



「カイリ、反論は?」

「……、無いな」

「でしょ。……だから、ガルファン殿はカイリに悪意はない。けれど、カイリを殺さなければならない理由が、またはそうしろと言われている可能性がある。もしくは……そう見せかけなければならない理由がある。そんなところでしょうね」



 ケントが両手を組んで肘を突きながら周りを見渡す。

 フランツ達も一応異論は無い様だ。レインが一人渋々といった感じだが、一旦納得はしたらしい。何か思うところがあったのかもしれない。そんな瞳だった。



「そんなわけで! 僕は、バラッドを締めました!」

「……、は?」



 いきなり明るくとんでもない報告をされ、カイリは目を点にした。フランツ達もぽかんと口を開けて瞬きをせずにいる。


「あ、しまった。つい呼び捨てに。バラッド殿です。カイリ、ほら、あのホテルでガルファン殿のこと馬鹿にしていた男爵!」

「え? あ、ああ。あの、俺がクリスさんの晩餐会で聖歌を歌ったことを信じなかった人だよな?」

「そうそう! あの時、ぶん殴ってやりたかったよねー! はあ。ぶん殴れば良かった。まあ、ぶん殴ったんだけどね」


 物騒な単語を連呼するケントに、カイリはじとっと半眼で見つめる。

 ケントはにこにこと良い笑顔だ。

 しかし、何故彼が出てくるのだろうか。カイリには符号が噛み合わない。


「でも、どうしてバラッド殿なんだ?」

「うーん。何かあの時、ガルファン殿、やたらと彼に対して怯えていた感じだったからね。ちょっと気になってたんだ」

「……ああ。そういえばケント、あの時二人の関係性を探っている感じがしたな」

「うん! 流石カイリ! よく見てる!」


 えへへーと得意気に何故か胸を張るケントに、カイリは首を傾げるしかない。何故そこで誇らしげになるのだろうと思いながら、彼はフランツ達に向けてふんぞり返った。


「カイリはよく見ているんです! これで分かったでしょう!」

「……あー、分かった分かった。親友自慢は良いからよ。それで? バラッド殿が何だって?」

「はあ、これだからレイン殿は。……まあ良いです。あの時は、状況的には僕達の話にただ割り込まれただけだったんですよね。まあ、ガルファン殿が話す内容にもよりますけど、突然前触れもなく邪魔されたなら、ビックリするだけで良くないですか?」

「ああ、まあなー。気配とか感じなかったら、特にそうなるかね」

「でも、あの時のガルファン殿は、明らかに尋常じゃない驚き方というか、縮こまり方をしていましたから。もしかしてと思って、僕のお抱えの間者に探らせました」


 お抱えの間者。

 誰だろうなと思ったが、探るのは止めた。必要で、かつ伝えても良いとケントが判断した時に教えてもらおうとカイリは決める。


「結果、黒でした」

「ケント様の激しい拷問……いえ、尋問の末ですね」

「拷問はしてないですよ。ただ、彼がこれからどんな風に転げ落ち、世間から罵倒を浴びせられ、居場所を追われ、日陰の世界でさえ追われ続けなければならないかをつぶさに細かく耳元で……は嫌だったので、頭上で絶えずささやいてあげただけです。間者を使って」


 充分だ。


 ケントはやんわりした言い回しにしたつもりなのだろうが、彼の黒い台詞を想像すると、精神に大打撃を与えていそうだ。しかも、絶えず囁き続けたとなると、立派にノイローゼになりそうである。

 しかし、国の一大事に関わっているのならば、それに加担する連中を放置はしておけない。カイリは彼の方法は過激ではあると思うが、目をつむることにした。頭が痛い。


「彼は、ガルファン殿の見張り役でしたよ。ま、僕の父さんに晩餐会に呼ばれなかったことによっぽど腹を立てていたらしくて。そこを付け込まれた感じですかね。彼が不審な行動をすれば逐一報告することになっていた様です」

「……バラッド殿の憎悪を利用するあたり、色々下調べしてるってことだよな。でも、見張り? 誰に?」

「一応、ラフィスエム家としておきます。直接頼まれたというより、使いだった様なので」

「……使い。また『使い』かよ」

「ええ。バラッドは――バラッド殿は、まあ自分が優位だと思っていたみたいだし、実際ラフィスエム家もそう思っていそうだけど。……カイリ達の話を聞く限りは、……実際はどうなんだろうね」


 あごに軽く手をかけて思案に沈むケントに、カイリも疑念が募っていく。

 ガルファンの手紙。娘の誘拐。フュリー村の雨に、二つの村の管轄。そしてラフィスエム家とファルエラ。

 全体像が繋がりそうなのに、繋がらない。いや、もうほぼ繋がりかけているが、決定打は無いのだ。

 もどかしい感覚に、カイリは胸を掻きむしりたくなった。


「では、バラッド殿はファルエラとの密約を知っていましたの?」

「まあ、一応は。でも、契約書の類はやっぱり持っていなかったです。所詮は下っ端ですね」

「……そもそも、始まりはよ。どこなんだろうな」


 レインの呟きに、カイリも顔を上げる。

 それは、カイリ自身気になっていたことだ。一体どこが起点なのだろうかと。


「……。カイリを殺したい誰かが、ラフィスエム家以外にいるんでしたっけ?」

「ええ、その通りですな。……正直、カイリをこれ以上おとりにはしたくないのですが」

「おと……、……。……えーと。とにかく! 僕はその始まりを与えた輩こそが、カイリを殺したいのかなーって思いますけど」


 あからさまに目を逸らすケントに、カイリは後で殴らなければと心に誓う。

 彼はここにきても誤魔化そうとする。本当に馬鹿だ。



 ――本当に、馬鹿だ。



 ケントが目を伏せるのを尻目に、カイリは一度小さく呼吸をしてから口を開いた。


「……俺を殺したい理由を、相手は持っているんですよね。ラフィスエム家以外だと、誰がいるんでしょうか。ファルエラ……だとは思うんですけど」

「ファルエラだとしても……カイリと繋がりがあって恨んでいるのか、それとも存在自体が邪魔なのか。分からんな。教皇……のシステムを考えると、まだ生かしておきたいだろう。狂信者も同様だ。ロードゼルブ家は、ゼクトール卿が抑えるだろうし。……まあ、完璧には無理だろうが」

「ですが、身内が関与していれば、確実にゼクトール卿は動きますわ。ならば、違うということです」

「カイリ大好きだからなー。馬車馬の様に動く約束したし」


 レインの言葉にカイリは失笑するしかない。

 だが、本当にゼクトールなら動いてくれるかもしれない。ベンチで目を合せずに話した時のことを思い出して、目元が緩んだ。


「……分からんな。狂信者で仲間割れを起こしているとか……いや。彼らの目的を考えるならば、命と声だけは守りそうだな」

「うわ、嫌な言い方しないで下さいっす」

「でも、事実ですね。……カイリ様が恨まれる様なことをした相手って……」

「……故郷の件は、一応片が付いてるしなあ。ま、本人が知らない内に恨み買ってるって事例はいくらでもあるけどよ。……殺すってなると、それなりに理由が大きい気がすっけどなあ」


 うーん、と全員が揃って唸るので、本当に心当たりが見つからない様だ。カイリ自身も小さくは恨みを買っているとは思うが、覚えが無いのでどうしようもない。


「んー。僕の部下に、カイリが嫌いな奴はそれなりにいるけど」

「……やっぱりそうなんだな」

「うん。でも僕の報復が恐いから、そこまで行き着く奴はなかなかいないと思うんだよねー。実際、そういう怪しい素振りは感知してないし。……レミリア殿は?」

「私も同意見です。大体、カイリを殺した場合、報復する人間が恐い者達ばかりです。ケント様はその筆頭ですし、見逃すはずがないということはもう分かっているはずですので。ケント様のねちねちした、地獄を見るより恐ろしい拷問は、はっきり言って受けたくないでしょう。私は死んでもご免です」

「……レミリア殿は、なかなか僕に対して失礼ですよね」

「ケント様ほどではありません」


 レミリアとケントのやり取りに、カイリは小さく噴き出した。二人揃って睨んできたが、この組み合わせは案外笑えてホッとする。盲目だけの関係でないのが嬉しかった。


「ま、仕方ありません。一回保留にしましょう。ラフィスエム家やガルファン殿を追い詰めれば、きっとおのずと知れますよ」

「……そうだな。……どこが起点かっていうのも」

「それも、憶測しか出てこないよね。とにかく、明日の土曜日の行動結果でまた決めよう。さっき父さんからも連絡が来たけど、ホテルや村の護衛は今日からで手配しておくね。あと、ラフィスエム家には僕も行くよ」

「ああ。ありがとう」

「では、私はフュリー村の人達を秘密裏に避難させる準備をしましょう。カイリ。皆さんも。それで良いですね?」

「うん。……頼むね」

「そうですな。……話し合いはこれくらいでしょうか」


 フランツの締めくくりに、全員が頷く。

 ようやく重要な話し合いが終わったと肩の荷を下ろしたところで、カイリはくるんとケントの方へ振り向いた。ケントがどきっと驚いた様に肩を跳ねさせたのが、とても爽快である。



「さて、ケント。話し合いは終わったよな」

「え? う、うん。……えっと、カイリ? どうかした?」

「ああ。どうかしたんだ」

「……え?」



 カイリの物騒な気配に気づいたのか、ケントが及び腰に椅子から立ち上がる。珍しく逃げ腰な彼に、笑みが止まらない。自分はサドだっただろうかと、不思議な気分になった。

 だが、逃してなどやりはしない。カイリは満面の笑みでにこにこにこにこにじり寄った。ケントもじりじりじりじり後ずさっていく。

 そして、とん、とケントの背中が壁に着いた。逃げられないと悟り、彼の笑った口元がひくりと引きつる。


「えーと。カイリ? 本当に何? 恐いんだけど!」

「ケント。俺に何か言いたいことは無いか?」

「え?」

「そうそう。例えば、何か俺に隠していることとか、な?」

「え? えーと、えー、……い、言いたいこと、はー……い、今の状況と……か?」


 この期に及んでまだ言い逃れをしようとしている。

 カイリは腹立たしくて、すっと目を細めた。ぎくりと、ケントの表情が強張こわばる。



「――植木鉢」

「――っ」



 その単語だけで、何のことか理解した様だ。はっきりと凍り付いた絶望を目の当たりにして、カイリは心の中が片端から冷えていくのを感じ取る。

 それなのに、頭の芯は熱くて堪らない。殴りたくて仕方が無かった。


「俺のこと、おとりにしたんだって?」

「えっ、……っ」


 はっきりと言葉にされて、ケントは今度こそ目を見開いた。彼の背後でも揺れる気配がしたが、今のカイリにはどうでも良い話だ。

 ケントはぱくぱくとあえぐ様に口を開閉させてから、瞳を揺らしながら必死に声を出す。――出す、だけだった。


「えっ、……、な」

「何で? 聞いたからだよ」

「……っ」

「本当なんだな?」

「……、………………、……うん」


 ようやく認めたことで、カイリの溜飲も下がる。

 だが、また同じことを繰り返されたら堪ったものではない。故に、まだ説教は続行である。


「言い訳は?」

「……」

「何か無いのか。意図があったとか、俺しか出来なかったとか、言えなかった理由とか。何か」

「……、……」


 尋ねても、ケントは無言。むしろ益々視線を下にずらしていき、口を固く結んでしまう。

 更に視線に圧力をかけて聞いてみたが、彼は口を割ることはなかった。絶対に話したくないと、全身で拒否される。



 その拒絶が、カイリごと弾く様な意志に思えて、ずぐっと胸の深くが泣く様に痛んだ。



「……っ、……何も言わないんだな」

「……」

「そうか。……。……じゃあ、……覚悟は出来てるんだな?」

「――」

「出来てるんだよな?」

「……、…………、……………………」



 カイリに問い詰められて、ケントは一分ほど押し黙ったままだった。

 本当は、何か言ってくれることを期待した。ごめん、でも何でも良い。ただ、彼からきちんと聞き出したかった。

 けれど。



「……、――うん」



 最後の返事は、観念した罪人の様な響きだった。覚悟を決めた様に目を伏せ、力を抜いたのが分かる。しっかり顔をカイリにさらしてくるあたり、まるで殴られるのを待つかの様だ。

 何故、言い訳をしないのだろうか。理由を話せば、カイリの方だってここまで怒る様な態度は取らなかったのにと歯がゆくなる。



 ただ、少し怒って、説教して、最後は溜息を吐きながら許す。そんなことを考えていた。



 それなのに、彼は全く言い訳をしてくれない。理由を話してくれない。まるで、――カイリには関係ない、とでも言わんばかりに。

 知られたくないと叫ぶ様に、彼は肝心なことを話さない。絶望する様な表情を見せながら、決して胸の内を明かそうとはしないのだ。

 ケントは、何をそんなに恐れているのだろう。カイリに何を隠しているのだろう。

 思えば、彼は昔からそうだった。いつもは強気だしマイペースだし強引なのに、変なところで弱気になって諦める。

 そう。



 諦めるのだ。



 カイリには理由が全く分からない。分からないからこそ、苛立って仕方が無かった。



 ――俺も避けてたから、当然の反応なんだって分かってはいる。



 それでも、少なくとも今はそんな関係ではないはずだ。互いに友人になりたいと、少しずつ歩み寄っている。そう信じている。

 だからこそ、ケントが目の前で固く口を閉ざすのが悔しくて仕方が無かった。


「……分かった」


 だんっと、カイリはケントの横の壁に手を突いた。ケントが一瞬肩を跳ねさせたので、少し強めになってしまったと反省する。

 だが、謝ることはしない。カイリは彼の望む通りに拳を握り締め、そのまま振り上げた。

 ケントが覚悟して目をつむるのが視界に映る。

 そんな彼の顔を見下ろし、カイリは勢い良く拳を振り抜いた。



 だあんっと、かなり良い音が鳴り響く。



 じんじんと、カイリの拳が熱をはらんで痛みを訴えた。

 当然だ。――ケントの顔の横の壁は、硬い。正直強く殴り過ぎたと後悔した。

 恐る恐るといった風に、ケントが目を見開く。信じられない様な顔でカイリを見つめてきて、何故そんな表情になるのかと泣きたくなった。


「カイリ。……何で殴らないの」

「……あのな。俺、攻撃出来ないんだぞ。血を見るのも嫌なんだ。実際に殴るわけないだろ」

「っ、……でもっ。僕は、君に」

「それになっ」



〝――カイリっ!!〟



「――もう二度と! お前の血は見たくないんだよっ!」

「――――――――」



 遠くで聞こえるのは、彼がカイリを突き飛ばした時の声だ。



 未だに色褪せない。あの場面は、一生カイリの脳裏に、まぶたの裏に、胸に刻まれて残るだろう。

 ぐちゃぐちゃに潰れた彼の姿も、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 冗談の様に真っ赤な命が流れていく彼のさまを、カイリはもう二度と、小さなものでも見たくはなかった。

 ケントも察したのだろう。申し訳なさそうに俯いた。


「……、……ごめん」

「そうだ。謝ってくれ」

「……。……、……ごめんなさい」


 何に対しての謝罪だろうか。

 それはきっと、彼にしか分からない。



「……今度から、ちゃんと囮にする時は言えよ」

「……え?」



 弾かれた様にケントが顔を上げる。

 何故そこで驚くのだろうとカイリは不思議だったが、隠していたのなら仕方がない反応なのだろう。第一位の団長のくせにと、呆れざるを得ない。


「俺を囮にしたのは、証拠が集まる、尻尾が掴みやすくなる。そう思ったからなんだろ?」

「そ、うだけど」

「だったら、必要な手段だったんだ。……俺が怒ってるのは、俺に伝えもせずに勝手に決めて勝手にやったことだ。言えないなら、後でも良いから。……ちゃんと言ってくれ」

「……」


 呆けるケントに、まだ分からないかとカイリは怒りと共に怒鳴り付けた。


「だから! お前は俺を囮にしたことに罪悪感を持つんじゃなくて! 俺の許可なく勝手に実行したことに罪悪感を持て! 言えないなら、せめて事後報告でも良いから言え! 良いな!」

「……」

「返事!」

「は、はい! ごめんなさい!」


 反射的にケントが直立不動で謝る。

 よし、とカイリが頷くと、ケントは何か言いたげに見つめてきた。

 けれど、結局何も言わずに首を振る。何を言いかけたのか知りたかったが、敢えて聞かないことにした。


「ごめん、カイリ。……今度から、ちゃんと事前に言うよ」

「ああ。そうしてくれ」


 素っ気なかったが、カイリの気持ちは伝わったのだろう。ケントはぐっと唇を噛み締めてから、ようやく笑顔になった。



「でも、……カイリは演技が下手だからなあ」

「――」



 ぼそっと落とされた呟きに、カイリは一瞬固まった。

 演技が下手。

 それは、何だかとても重大な壁に思えた。



「……、……何だって?」

「だって、そうでしょ? あの馬鹿ぼんぼんも! 正直、……可愛いけど、酷いからね!」

「なっ! ……あ、それは、……そうかも、だけどっ。えっ、じゃあ」

「だから、大根演技から卒業出来たら事前にきちんと言うことにしようかな。それまでは、……その内囮にするかもしれない、くらいに留めておくね!」

「ぐ、むっ! ……そ、それは、……………………、…………そうして、くれ」


 ケントのにっこりした正当な理由に、カイリはぐうの音も出ない。

 確かにカイリは演技が下手だ。嘘が苦手なのだから当然である。囮にするとあらかじめ言われたら、意識して上手く囮の役割を果たせないかもしれない。

 もし、今回も事前に打ち明けられていたら、カイリは無意識にきょろきょろと辺りを警戒していたのではないだろうか。



 ――もしかして、それも今回言わなかった理由に含まれてたんじゃっ。



 気付いて、カイリは益々ますますぐむむっと唸るしかない。何故言わなかったのかと、本気で腹立たしかった。

 言ってくれれば、カイリだってここまで怒る姿勢は取らなかった。自分の欠点を認めて、もっと簡単に引き下がっただろう。



 それなのに彼が口にしなかったのは、絶対に言いたくない理由が含まれていたからだ。



 どうして、諦める様に怯えるのだろう。カイリに嫌われることを極度に恐れているかの様に思えてしまう。

 カイリが彼を嫌いになることはないと、本当の意味で安心させられるのはいつのことだろうか。前世で失った信頼は、容易く取り戻すことは出来ない。

 けれど。


 今、ケントはふふんっと良い笑顔で胸を張っている。


 その顔にはもう、暗い影は無い。

 だから、今はただ、いつもの様に笑ってくれるだけで満足しよう。

 彼が笑っていることに秘かにホッとしたことを、彼に気付かれなければ良い。カイリは願いながら、しばらく彼とくだらない口論を繰り広げる。



 その背後で、ぼそっと「……新人って、結構強いっすよね」と漏らすエディの一言にうんうんと頷く一同の姿があったことを、カイリは当然知らないままだった。


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