2-10 AM10:15/そして戦渦は回転する①

 B-1のプレートが吊るされたエレベーターの巨大な扉の前に立ったのは、ぶかぶかのヘルメットを被り、灰色の作業着姿のエヴァただ一人のみだった。

 あの若手エンジニアは、ここに来る途中で放してやった。ただし、従属は解いていない。エレベーターの保安部に詰問されても、彼の口からエヴァの素性が漏れることはないだろう。守衛の警備員と同じように。

 壁に設置されているカードリーダーに、騙し取った社員用カードを差し込む。扉が開いた途端、素早く身を滑らせて監視カメラの位置を目ざとく確認。ギリギリ死角となるべき場所を確保すると、パネルのボタンの一つを押し込んだ。

 行き先は最上階。すなわち百二十七階。中層への入口。

 ぐん、と、体にかかる重力が意識できた。ワイヤーロープが箱を巻き上げていく最中、エヴァは周囲を観察した。エレベーターに窓は一つも取り付けられていなかった。そのせいで天井の照明が放つ鋭い光が、まるで行き場を失くしたように箱の中を隅々まで真昼のように照らしている。

 どうにか潜り込めた――張り詰めていた筋肉と血管が、ぬるま湯に浸されたかのように弛緩していく。深く息を吐きながら、エヴァはこれからのことについて思案した。

 中層のメイン・ゲートは問題ない。この瞳の力を使えば、警備は上手く切り抜けられるだろう。この調子でエレベーターを使えば、中層から上層、上層から最上層へ行けるはずだと踏んだ。

 ただ、用心しておくべきことはある。

 ギュスターヴ・ナイル。上層へいける身分でありながら、中層に留まり続ける富豪。レーヴァトール社の最高顧問。部下を使って二コラへ接触してきたテレビ越しの権力者。プロメテウスの著名人に詳しくないエヴァでも耳にしたことはある。

 鬼血人ヴァンパイアが掟に縛られた世界の住人であるなら、人間は法律と金に縛られた世界の生き物である。ニコラを奪うために、ギュスターヴがありったけの金をはたいて優秀なハンターを雇うかもしれないというのは、エヴァにも簡単に推察できた。

 ギュスターヴがどうやってニコラの存在を把握したのかは定かではないが、問題はそこではない。

 都市の根底を流れる競争原理の理念。『奇跡の体現者』であるニコラを奪うために、ギュスターヴはどれだけの数のハンターたちを雇うのか。その中に、奇跡の象徴たる彼女の存在を認知できる者がどれだけいるのか。それが気がかりだった。

 一度加速し出したら止まらないであろう、ニコラを中心に巻き起こる闘争の渦。そこに身を投じる覚悟はある。渦に上手く体を慣らして生き残る自信も。それでも、できれば効率的に済ませたいというのが、エヴァの本音だった。

 そもそも、どうしてニコラは最上層に行きたい、などと口にしたのか。大胆不敵な願いの理由を聞き出すことができれば、何らかのアドバンテージに繋がるのではないか。

「おいニコラ。お前、最上層に行って何かやりたいことでもあるのか?」

 右手に持ったバッグに視線を落とし、エヴァは軽い気持ちで声をかけた。しかし、くぐもって返ってきた言葉は、実に素っ気ないものだった。

「貴方みたいな人の気持ちも分からない方に、教えてあげる義理なんてありません」

 無理矢理バッグに詰められたことで完全にへそを曲げてしまったのだろう。突き放すような声が心の真ん中を鋭く穿ってきた。エヴァは思わず針のように棒立ちになった。

 事態を安全に突破するためとはいえ、相手の気持ちを考えずに行動してしまったことに対する反動が、今更ながら染みのように広がっていく。その『染み』をなんと例えるべきか、咄嗟には思い付かなかった。確かめようとする意志の火花が起こり、当てはまるであろう表現を模索した。

 恥の感情。それが最も近いと判断したが、同時に不思議に感じた。鬼血人ヴァンパイアとしての誇りや名誉が傷つけられた訳でもないのに、どうしてそのような後ろ暗い感情が芽生えたのか。

「ごめん。その、悪かったよ」

 思考の円環から抜け出そうとして、エヴァはバッグを静かに床に置くと、片膝をつき、言葉に詰まりながらも言い訳を始めた。自分の心の状態を正確に把握するためでもあった。ご機嫌を取って、ニコラを自分の傍に繋ぎ止めておきたいという、小賢しくも浅はかな思考からくるものでは決してなかった。

「血を吸った直後だったから、その、アッパーな気分になってたっていうか。たしかに、乱暴なことをしたな。悪かったよ。本当に、ごめん。今開けるから」

 いたわりが込められた声色だった。そんな声を演技ではなく自然と他者へ向ける事が出来た事実に、奇妙な驚きを感じていた。

 エヴァがバッグのチャックを引っ張ろうとした時だ。明るく照らされていた手元が、昏めの赤へ唐突に切り替わった。異変を認識したと同時、足下を通じてエヴァの全身に凄まじい上向きの力がかかった。バランスを崩して後ろにすっ転んだ。ニコラを入れたバッグが、短い滞空時間を経て、どしんと床を叩いた。

「エヴァさん? どうしたんですか?」

 視界が塞がっているために、エヴァがまた何かしたのだと思って、ニコラは尋ねた。だがエヴァにも何が起こったのか、すぐには分からなかった。

 天井の照明が、かまどの中を彷彿とさせるように赤く光り、気づけば頭上で低く唸っていたワイヤーロープの稼働音すら鳴り止んでいる。

 視線を上に向ける。高度表示は『ただいま405m』のままだった。少し待ってみても、一の位が変わる様子はない。

 それは、奇跡を巡る戦いの渦に、エヴァが確実に巻き込まれたことを雄弁に物語っていた。

「止まっちまったみたいだ……」

 呆けたように呟いた。それしか出来なかった。

 






〈ヒャーーーァァァアッハッァァアアアアアアーーーー!! コイツぁテーマ・パークのスター・ロードよりもスリリングじゃねぇかぁ!〉

 興奮にまかせて電脳回線内で狂乱の雄叫びを挙げるパンク・バレルの服装は、その名を表すように攻撃的な色合いをしていた。

 襟を立てた真っ赤なレザー・ジャケット。背中には蜘蛛の巣のかたちに金色の鋲が配置され、肩甲骨に位置する部分が円形にくり抜かれ、たくましい鋼の背筋を覗かせている。下半身は薄青いデニムのショートパンツで、鋼の両足が剥き出しになっていた。腰の辺りには、どういう意味が込められているのか不明だが、七色の安全ピンが橋をかけるように編み込まれていた。中々に個性的な服装だったが、特筆すべきは、現時点における彼の移動方法である。

 パンク・バレルは、八百メートルにもなる長大な階層間エレベーター《第十二番》が誇る真っ白なコンクリート製の壁を、鋼鉄に挿げ替えた自慢の両脚で地面と平行・・・・・になる形で・・・・・滑走していたのだ。

 姿勢だけで言ったらスカイダイビングのそれに近いが、彼は信じられないことに、きちんと両足を壁につけ、しなやかに腕を振り、エレベーターを包む壁を真っ逆・・・|さまに《・・・)走り込んでいた。

 さながらローラースケーターめいた動作であるが、実際にそうなのだ。サイボーグ化された両足の底からは、それぞれ二本のローラーが飛び出しており、それがパンクの高速移動を助けていた。

 だが、それにしても速度が異様であった。気圧差によって吹き荒れる突風すらものともせず、レーシングカーの如き速さを平然と獲得している。秘密はつま先にあった。親指の付け根あたりから絶え間なく噴射される速乾性の摩擦低減潤滑剤。無色無臭のそれが、ナメクジが這ったような透明な痕を壁に刻み込んでいた。

 潤滑剤のおかげで、パンクのトップスピード時の時速は二百キロを超えることが証明されている。それでいて、優秀なサイボーグ戦士が誰でもそうであるように、彼は己の能力に振り回されることもなく、肉体を完璧に制御していた。加速度センサーおよびジャイロセンサーによる平衡感覚の維持というのもあるが、決め手は腰と太ももに搭載されたスラスター噴射によるものだった。普段は格納されているそれを、今この時は全て展開し、身に掛かる風圧や重力を絶妙に制御しきっていた。

〈中層で奴さんが出てきたところを迎え撃つなんて、そんなもん悪手だぜリガンド! こんな超リアルなジェット・コースター体験、そうそう出来るもんじゃねぇ! 俺の言う通りにして正解だったろ!〉

〈パンク、はしゃぎ過ぎですよ。ま、確かに貴重な体験ですけどね。まさかエレベーターの壁をこんな風・・・・に移動できる日が来るとは。これもナイル氏が我々の活動を保障してくれたからこそですな〉

 狂暴な顔つきのパンクと並走するかたちで壁を移動するリガンド・ローレンツが、理解を示すように脳裡で応えた。普段と変わらない耐燃性の紳士服を着こなして怜悧な相貌を崩さずにいるが、彼の移動手段もまた常軌を逸していた。

 エレベーターを囲むコンクリート壁に対して右膝をつくかたちでの高速移動。膝下からも、壁に軽く添えられた左手からも、蒼白い火花が上がっている。いや、それだけではない。リガンドの周囲を取り囲むように、青白くも鋭い光がランダムに明滅し続けている。

 それこそが、リガンドが『雷撃紳士』の異名で呼ばれる所以ゆえんである。両手と両脚に埋め込まれた常温超電導体が形成する超電導回路と、心臓付近に移植された大電流発生装置の組み合わせにより、彼の体は完全導電性としての側面を獲得していた。

 生きた永久電磁石と化した彼の周囲では通常では考えられないほどの強靭な磁場が発生し、コンクリート壁面の塗料に含まれる磁性体粉末へ迅速に作用し、自身にとって最適の移動経路を実現していた。

 その身を剛体と見立て、かかるローレンツ力を駆使した人外手段の高速移動。リガンドが己のサイボーグ能力を全開にした時、あらゆる磁性体や電子機器は、彼の従僕と化すしかない。

 それでも、メンバーたちの電脳回線や体内機器が、今この時もしっかり機能しているのは、稀代の電脳犯罪者にして優秀な電子技術者でもある、オーウェル・パンドラの手で施されたシールド処理のおかげだった。

〈オーケー、制御装置にアクセスできた。箱の動きは無事に止めたよ〉

 そのオーウェルから、パンクとリガンドへ標的を封じ込めた旨の連絡が入った。まさにこの時、エヴァとニコラを乗せた箱は、オーウェルの電子的パワーによって、その機能を完全に停止させられていたのである。

 コスト削減のために、全ての階層間エレベーターにはマシーンルームレスの構造が適用されている。制御盤は箱のパネル内部に組み込まれ、さらにその内部には遠隔知的診断装置が内蔵されていた。

 異常を検知したら装置が電話回線を通じて、監視センターへ自動ダイヤルを流す仕組みになっているのだが、この時、監視センターでは、エレベーターに起こった重大な異変について、何一つ通達されていなかった。

 全ては、オーウェルの優れたハッキング能力のなせる業だった。

 彼はクラスタリングした自前のコンピューターから監視センターへ潜り込むと、電話回線をまず真っ先に抑えた。それから回線を通じて遠隔知的診断装置を誤作動させ、インターフェース通信を利用して制御盤へ介入。セキュリティ・プログラムを書き換え、強制的に箱の制御権を掌握したのだった。

 それだけの事をたったの数十分で実行してしまうあたり、彼が大戦時に培った電子戦闘技術が、ますます磨かれていることが伺える。

 パンクとリガンド。《震撃速ソニック》のコンビで知られる二人の電撃的進撃を、オーウェルが手助けする。依頼を遂行するにあたっての、見事なチーム連携と言えた。

〈二人とも、今から目標地点を送るから、あとはよろしく頼むよ〉

〈任せとけ。金は俺達のものだ〉

〈承知しました〉

 パンクとリガンドは、オーウェルから送られてきた三次元的立体画像を、電子上の網膜にそれぞれ展開した。エレベーター内部の詳細な構造データ。オーウェルがご丁寧にも、標的を閉じ込めた箱にマーカーをつけている。

〈どうやら、この辺りのようですな〉

 距離を正確に見計らうと、リガンドは超電導回路を操作して急激に速度を落とした。そのまま、たん、と壁を蹴って電磁浮上。両腕と両足を中心に雷光とも呼ぶべき閃光が生じ、足場も何もない上空はるか四百メートル地点で滞空に入る。

〈挟み撃ちといこうぜ、俺は右手に回る〉

 はやく仕事に取り掛かりたくて仕方ないとばかりに舌なめずりをすると、パンクはリガンドが位置を取った場所とは逆方向へ回り込み、摩擦低減潤滑剤の放出をストップさせた。

 次いでスラスターの出力を最大にまで引き上げ、足裏のローラーを格納し、滞空状態と戦闘状態へ移行。肩甲骨に折りたたまれていたオプション・パーツ――二本の補助機械腕が展開し、滑らかな手つきでアタッシュ・ケースを開き、この場に最もふさわしい道具を取り出すと、エレベーターに向けて悠然と構えた。

 すなわち、グレネード・ランチャーである。

 ランチャーのトリガーをパンクの人差し指が引き込んだのと、リガンドの電磁加速された剛拳が、階層間エレベーターの分厚いコンクリート製の白壁へ放たれたのは、ほとんど同時だった。

 莫大な光の衝撃に続いて、辺りに広がるのは耳をつんざくような轟音。壁はおろか、箱を構成していた鋼板の一部すらも粉々になり、破片が煙の尾を引いて四百メートル下の地表へ落下していく。

 破壊されたエレベーター内部に滞留しはじめた大量の粉塵が、突如として吹き荒れる風にさらわれ、その中身を白日の下に晒し出した。

 瞠目しつつも、腰を落として警戒態勢を取るエヴァの姿があった。

接敵エンゲージ……っと。ヘイヘイヘイ、女だぜ、おい。こんなひょろっちい奴が敵性者エネミーってわけか?〉

 撃ち終えたグレネード・ランチャーをアタッシュ・ケースへ戻しながら、小馬鹿にするように鼻で笑い、機械の目で状況を確認するパンク。エヴァの背負っているバッグと、発信機が示す位置情報がぴたりと一致したことに、思わず噴き出しそうになる。

〈こんにゃろう。バッグに入れてやがる。どういうつもりだ?〉

〈なんともまぁ、手荒な運び方としか言いようがありませんな〉

 電脳回線上で会話する両者。エヴァにしてみれば、無言でニタニタと肢体を観察されているのも同然で、不気味さに拍車がかかる。

 予想の斜め上をいく状況に呑まれたことに驚きこそすれ、いつまでも放心状態ではいられない。エヴァの脳裡で、とてつもない速度で思考のパルスが走った。

 男達の素性について、現状では把握のしようがない。ただ、一方で理解の及ぶところもあった。現代科学の粋を結集して生み出されたサイボーグの力。それを、この得体の知れない襲撃者たちが発揮しているのだということは。かつて、コロニーを襲ってきた人間の戦士たちの中に、同様の力を持つ者達がいたことを、エヴァは忘れてはいなかった。

 そしてもう一つ、決定的に、本能で完璧に近い回答を導き出せた。同時に、こんなにも早く障害が立ち塞がるのかと衝撃も受けた。

「(こいつらも、ニコラ狙いってわけか。血眼フレンジィは……ダメだ。ここからじゃ遠すぎる)」

「おい女ァ!」

 四本の腕で、アタッシュ・ケースから四艇の自動小銃を素早く確実に取り出しながら、パンクが大声で吠えた。

「そのバッグを寄こしな。いや……正確にはそいつの『中身』をだ」

「無駄な抵抗は止める事ですね」

 相棒の恫喝と入れ替わるように、リガンドがよく通る声で口にした。言葉だけ抜き出せば優秀な交渉人のそれであるが、身にまとうサイボーグ能力の凄まじさと、見ている者の体を撃ち抜くような目力からは、どんな暴力的手段に打って出るのも躊躇しないという、けだものめいた野心が明確に打ち出されている。

「素直に従ってくれたら、テメェの命だけは見逃してやるよ」

 右へ視線を向ける。四つの銃口が、正確に狙いを定めているのが分かった。

「それとも、我々に盾ついて無惨にも死体となるのが、ご所望ですかな?」

 左に目を向ける。白手袋を覆い尽くす電磁の閃光が、いつ飛んでくるか分からない。

 宙に浮かぶ二人の襲撃者の様子を交互に観察しながら、エヴァはギッと強く唇を噛んだ。全身の血管という血管が膨張し、体内を巡る血潮が熱く煮えたぎる感覚と共に、『やってやる』という意気に駆られる。

「……どっちもお断りだ!」

 犬歯を剥き出しにして、反抗の意志を表明。その総身に濃密なる赤黒い霧を大量に纏わせる。予備動作もなにもない、フィルムが唐突に切り替わったかのような、それは瞬間的な超現象だった。

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