1-16 錆びついた男②
「父と母は、どちらも下層の出身で、共働きで俺を育ててくれていた。毎日毎日、朝から晩まで働き詰めだった。それでも貯金なんて出来ないくらい、日々の暮らしは困窮していた」
「スクールには?」
「当然行けなかった。だがそんな境遇の奴は、下層にはごまんといる。自分だけが特別に不運な訳じゃない。そう言い聞かせて日々を耐えた。父も母も、みんな耐えていた……後ろがつかえているな。右車線に入れ」
喋りながらも努めて冷静に指示を出す。言われた通りにルル・ベルはオイル・カーを操り、右の車線に入った。
地平の彼方に広がる最下層の街並みが、少しだけ近づく。地中から伸びる、中層以上の岩盤を支える鋼鉄の支柱や階層間エレベーターの数々はそれでも遠くにあって、どうしたことか、いつもとは違って見えた。まるで、牢獄の中にいるかのような感覚だった。
「俺が十歳の時、母が死んだ。勤め先の裁縫工場へ向かう途中、いまみたいにオイル・カーで高架道路を走っていた時に、突然逆走を始めた。時速百キロで。八台のオイル・カーがスクラップになって、十二名が死んだ。その中に母も含まれていた」
何時の間にか、ラスティは首から下げたネックレスの先を握り締めていた。十字架を背負って祈りを捧げる女神の像。God Bless Youの刻印。手先が器用だった母が彫ってくれた、最初で最後の、十歳の時に貰ったプレゼント。
「逆走……どうして?」
「検死で分かったことだが、母の内蔵は薬物に侵されてボロボロだった。母はすでに、立派な中毒患者に成り下がっていたんだ」
運転中のルル・ベルの小さな肩が、ぴくりと震えた。
「運転中に幻覚を見たか何かで一時的なパニックに陥り、それが原因で逆走したというのが
「……ラスティさんは、その……お母さんが薬物を使っていた事実を、知らなかったの?」
「ときどき、栄養剤を打つから腕を絞めるチューブの端を持っていてくれと頼まれた時があった。その時は大真面目に、ああそうなのかと思って言われた通りにしていた。俺も馬鹿だったんだな。今にして思えば、あれは栄養剤じゃなくて薬物だったんだろう。親父は、恐らくだが母が薬物に手を出しているのを知っていた。だが、あの男が母を止める事はなかった」
「…………」
「母が亡くなった後、親父が地裁から送られてきた書類を見て、真っ青になっていたのを覚えている。被害者十二人の遺族に支払う賠償金が、そこに書かれていたんだ」
「でも、そういうのって普通は保険会社に請求が行くんじゃ……」
「加入していなかった。収入を保険料に回せるほど生活に余裕がなかった。その時のツケは全部、親父のところに来た。金額にして数千万。とてもじゃないがまともなやり方で支払えるような金額じゃない。弁護士を雇って解決しようにも、相談金を支払えるだけの金がない。まず何を差し置いても、金が圧倒的に足りなかった。だから親父は、金を借りることにした」
「……消費者金融に駆け込んだの?」
ルル・ベルが探る様に訊いた。
ラスティは頷かなかった。
しかし、その態度が物語っていた。その通りであると。
「こんな街だ。みんな金に飢えている。金貸しを頼るのは何も間違った選択肢じゃない。親父のミスは、その中でも特に借りてはならない所から金を借りたということだ。早い話が、
嫌な予感をルル・ベルは感じた。もう話さなくていいと、本当なら言うべきだった。だが頭ではそうだと分かっていても、どうしてもその一言を口にするのをためらった。フロントガラスに映る、ラスティのアイス・ブルーの瞳があまりにも冷え冷えとしているせいで。その目を見ているうちに、きっとこれは彼なりの、心の中に溜め込んでいた毒錆を吐き出すための作業であり、儀式なのだと直感した。だとしたら、最後まで聞き届けてやるのが己の役目なのではないかと、ルル・ベルは悟った。
「金を貸すのに条件を出してきた。俺と親父とで『絡め』と言ってきた。それをビデオに収めて裏の市場で捌くのが、奴らの収入源の一つだった」
ラスティが、乾いた笑みを浮かべた。ただし、目だけは笑っていなかった。
「俺は、自分で言うのもおかしい話だが、そこそこ顔立ちが整っていた方だから、相手のお眼鏡にかなったんだろう。それでも、ふざけた条件に変わりはなかったから、親父も俺も最初のうちは抵抗した。だが、立場的に弱いのはこっちだ。それに、賠償金を支払えなかったら家を奪われてホームレス生活になる。親父はそれを恐れて、すぐに根負けして条件を受け入れた。それからほとんど毎晩、俺も社長も、社長の隠れ家を改造した撮影所に連れていかれて、仕事をさせられた」
撮影所には、下層民の家によくある小汚いセットがあつらえられていたのを、ラスティは今でも覚えている。社長は悪びれもせず、むしろ自慢げに誇ったものだ。雰囲気を出すためにそういう造りにしてあると。
「親父がタチで、俺がネコだった。監督は、十歳の俺を『ホモセクシャルの天使』だと言って、帰り際に褒美として良く飴玉をくれた。一度も口にしないまま終わったが」
「お金は無事に借りられたの?」
「なんだかんだと言いながらも、奴らは筋だけは通す生き物だ。ひとしきり撮影が終わった後に、約束していた分の金を借りて、それで被害者への支払いは済んだ。驚きだったのは、
「間違い?」
「俺は、行為に及んでいる最中、常に心を宙に飛ばして、何も感覚しないよう努めていた。誰かに教わったわけじゃなく、自然と身に着いた精神的防衛手段がそれだった。それでどうにか、気が狂いそうになるのを抑えていた。でも、親父にはそれが出来なかった」
「今度は、お父さんがおかしくなった?」
「おかしくなった、なんてものじゃなかった。もう俺を犯す必要なんてないのに、毎晩のように俺を求めてきた。抵抗するとぶん殴られて無理矢理やられた。お前の体を味わわなきゃ、眠れないとも口にしていた」
話しながら、ラスティは脳内物質をこれでもかと放出し、悪夢が鎌首をもたげてくるのを懸命に抑えていた。
後戻り不可能なエスカレーターに乗ったような気分だった。それを止める術はなく、流れに従って運ばれていくだけだ。ならば、エレベーターが自然に止まるのを待つしかない。
セルフィ、逃げられるなんて思うなよ――すっかり人が変わってしまった父の幻影を前に、耐えるという選択肢しか選べない現状をもどかしいと感じた。だがそれ以外に何をどうすればいいのか分からず、気分を誤魔化すためにも、
「十二歳の時に、行為に及んでいる最中の親父を、隠し持っていた果物ナイフで刺し殺した」
ルル・ベルが、小さく息を呑んだ。
ラスティは構わず続けた。
「
しかし、その程度で忘れられるほど、たやすくどうにかできる過去ではなかった。鎮静剤を打たれている間はまだいい。だが効果が切れた拍子に、雪崩のように襲い掛かってくる。幻影の数々が。
施設のベッドで横になっている最中、突然襲い掛かるフラッシュバック――臀部に幻痛――体内に、灼いた鉄の棒を突っ込まれたような異物感――闇を切り裂くナイフ――手元に伝わる肉の感覚――胸元に降りかかる血――それらを遠くに追いやろうと必死な毎日だった。
試行錯誤しているうちに、悪夢を遠ざけるには、日常を忙殺で埋めるか、電脳を移植して体内のホルモン・バランスを調整するか、どちらかが必須だと学んだ。結果として、そのどちらも今のラスティは手に入れていた。ただ、それだけでは不十分だった。悪夢は今もなお完全には消滅することなく、彼の心の奥底に潜み続けている。
「十八で施設を出ると、俺はすぐに働き出した。とにかくいろんな仕事を掛け持ちした。自分で言うのもおかしいが、死に物狂いで働いた。詐欺紛いのことだってやった。まとまった金が溜まったところで、さっそくサイボーグ化手術を受けた」
「それで、今みたいな体になったの?」
「当時持っていた金では両脚の機械化しかできなかったが、それを手土産にハンターになれた。そこからは嘘みたいなスピードで金を稼げた。そのたびに生の肉体を捨て、今のような体になった。目も義眼に取り替えて、
「改めて聞くと、かなり徹底しているね」
「それだけのことをすれば、昔を忘れられると思ったのさ。顔を変えて、名前を変えて、機械の肉体になれば、心もやがて機械になるんじゃないかと期待した。だがどうも、そいつは叶わないらしい」
ひとしきり心の毒錆を吐き終えたところで、ラスティは再び、己の左肩へ視線を送った。電子チップを介しての痛覚遮断によって、見た目にはひどい損傷であるはずなのに、激痛を覚えるどころか皮膚感覚そのものが消失していた。それは生まれたままの、純粋な肉の体を持つ『人間』には、決してできない芸当だった。
しかし、それだけの常人離れした無機的機能を保持していても、心に歯車を据えることはできなかった。
人間は機械の心を持てないと悟って以来、これが限界なのかと苦々しく思い、八つ当たり気味に、都市の技術力の不完全さを恨めし気に思ったことは、何度だってあった。
「話してくれてありがとう」
ラスティの話が区切りの良いところまで進んだところで、ルル・ベルは、いまの彼女にできる最大限の柔らかな声を以て、謝辞を述べた。
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