惑溺

朽網 丁

惑溺


 学校帰り、最寄りの駅で弾き語りをしている若い女性を見つけた。若いといっても瞥見して二十代そこらに見え、高校生の僕からしたら十分な大人だった。僕の中で十分な大人と評される女性が、日の落ちた暗い駅前広場で一人弾き語りをしていた。ギャラリーもない中、僅かな承認のもと、その女性はひたすら弦を弾いて小さく響かせている。冷たい風が眼前に吹き付けた。彼女の存在によって薄められていた十二月の寒さを一身に感じた。突風に嬲られる街路樹の枝がざわざわと意味の悪い音を立て、ゴミや枯れ葉が騒がしく地を転がった。

 こんなうら寂しい情景を見るとこの暗澹とした駅前広場が、世上の要を勝ち得なかった有形無形のものたちの最終的な集積先のように思えてならなかった。件の女性はそれらの上に腰を据えているのだ。僕の目にはその姿が高潔とも憐れとも映ったので、僕は一人困惑を抱えて帰路を辿った。余人の行動ほど、曖昧さでもって審美を乞うてくるのは全く妙であった。自身に対する審美眼だけが鋭敏に研ぎ澄まされていくのを確かに感じた。

 その日、家に帰った僕は本を開いたが、同じ行を何度も読み返すことが不毛に思えてすぐに床に就いた。心に巣食った夾雑物が憎らし気に思われた。


 翌日、授業を一通り終えて僕は昇降口へ足を向けた。肩にかけた鞄がいやに重く感じられる。右手には一冊の文庫本を携える。

 三島由紀夫――詩を書く少年。

 もう何度も読み返してきた作品だった。僕はその度、綴られる文字に翻弄されるばかりなのだ。それは時として僕の生活に不快な影を落とし、逃れ難い苦しみを被せてくることもある。しかしそれでも本棚に目をやり、文庫を手に取ってはページを繰る手を僕は手放せずにいた。

 昇降口に向かう廊下の途中で僕は長門に会った。廊下の向こうから歩いてきた長門は僕の姿を捉えると右手を上げて近づいてきた。彼に会いたくなかった僕は思わず歯噛みした。彼は僕よりもずっと背が大きかった。すぐそばまで来た彼と目を合わせるには僕はやや上を向かなければならなかった。その時視界に映る、はにかみ屋な彼の微笑が幼いときはそれほど嫌いではなかった気がする。

「どこ行くの」

「帰るんだよ」

「部活は」

「行かないよ」

 長門は不服そうな顔をしてみせた。僕は窓外に視線を移した。校庭では砂塵が舞っていた。落葉樹の痩せた枝も激しく揺れていた。

「本当に部活行かないの」

 窓に反射した長門の姿は輪郭が朧で彼の表情までは窺い知れなかった。しかしその声は確かに沈んでいるようだった。

「行かない」

「そう」

 彼はその言葉とは裏腹に落胆した風ではなかった。僕は居心地が悪くなり、手に持つ文庫本の腹を指でなぞって弄んでいた。こういう状況に陥った際に、僕は自身の不器用さを呪うのだ。これほど肥大した生きにくさとは一体どこから湧いてくるのか、それは冷静さ欠いた人間にはあまりに大きな難題ではないだろうか。生きにくいから浪費ばかりを積み重ねる。今目の前にいる男のように軽やかには生きられない。

「また明日ね」

 そう言って彼は去っていった。

 生徒が行き交う廊下の中途で僕は力なく佇む。活力に満ちた喧噪から次第に遠ざかり、内から揺蕩う羞恥をはっきりと感じた。それに煽られた僕はやりきれなくなって、文庫本が手から零れ落ちた。乾いた音だと思った。

 文芸部に行かなくなって、延いては小説を書かなくなってしばらく経つ。なぜ今日に限って彼が声をかけてきたのか不可解ではあった。しかし兆候とは存外不可解なことが常かとも思われて、殊更不可解だった。

 

 学校から電車を乗り継いで自宅の最寄り駅まで帰ってきた。駅の出口から心持ち這い出るように足を踏み出すと、地面に敷き詰められたタイルには濃淡による斑点模様が描かれていた。申し訳程度の彩りとして誂えられた赤や黄、橙のタイルには見る間に斑点で覆われていく。行人の中には傘を差している者も見受けられた。僕は傘を持っていなかったので、仕方なくそのまま出口の庇から歩き出た。ふと昨日女性が弾き語りをしていた場所を見やると、果たして彼女は今日もそこでギターを持って座っていた。大きな体躯を持つ男でもすっぽりと覆ってしまいそうな傘をパラソルの要領で立てかけて、自身とギターを雨から守っていた。傘の陰に隠れて彼女の顔を見ることは叶わなかった。ただ傘の内側から流れ出るように垂れる長い黒髪が見えるばかりで、恐ろし気な雰囲気を携えている。それは彼女の周りにギャラリーができない理由の一端を担っているような気もする。

 次第に雨が強くなってきた。雨音が大きくなり、彼女の歌声はだんだんと聞こえなくなってくる。常にも増して通行人の耳に届かなくなったその歌声は声高な、理想の声明とも感じ取れた。しかしそう思えば思うほどに耳を傾ける者が減るように思われるのは、僕たちが生きるこの世間のなせる業ではないか。けれどそれを非情だと非難するのは、僕にとってはあまりに傲慢に満ちた行為だ。

 僕は彼女の前を通り過ぎ、そのまま家路に就いた。歩く度に薄れていく彼女の歌声が僕と彼女との距離が離れていく事実をより明瞭にしていた。僕は今、確かに自分の足で彼女のいる所から遠く離れた場所に向かっているのだと実感した。

 その夜僕は本を読んだ。

 三島由紀夫――午後の曳航。

 理想を追い求める上で袂を分かつことのできない懊悩を、再確認しなくてはならなかった。


 翌日の放課後、長門は僕のクラスの教室を訪れてきた。彼は昨日の僕の態度など意に介していないかのように景気の良い顔をしていた。

「今日は部活に顔出さないかい」

「いや、遠慮しておくよ」

 昨日にわかに聞こえた彼の無感動に沈着した声色を思うと、ぞんざいな言葉で返事をするのは気が引けた。

「全然顔出さなくなったけど、何かあった? それとも、俺何かしたかな」

 頬杖をついたまま長門の顔を見上げた。すると彼の眉毛が冗談かと思うほど八の字に垂れさがっているのが見て取れた。僕は不覚にも笑ってしまいそうになった。顔の外側に向かって垂れた眉毛は実に美麗な曲線を描いており、水滴を滴らせればさぞかし映える、そんな曲線美を有していた。そして眉毛に沿って流れ、毛先から零れた雫が向かう先には微笑という、人類の持ち得る中でも比類ない美しさを持つものによって穿たれた窪みがあるのだ。やがてその窪みには流水が蓄えられ、美質が充溢した湖を形成するのだろうと容易に想像することができた。純正的な困惑顔を目の当たりにして、僕の神経は全く参ってしまった。

「何もない、ただもう書きたくないんだよ」

「どうしてさ。昔はあんなにたくさん書いて、俺にも読ませてくれたのに」

「別に理由なんてないよ」 

「理由がないことないだろう」

 僕の受け答えが気に障ったのか長門は彼らしくもない角の立つような諫言を発した。僕は普段よりもいくらか張り上げられた彼の声にやや面食らった。何を言うべきか言い淀む。

「別に騒ぐようなことではないじゃないか。やりたいことや好きなことが変わるなんてことは、よくあることだろう」

「騒ぐようなことじゃない? 昔から変わらずずっと楽しそうに書いていて、それを突然やめたっていうのに騒ぐことじゃないだって。お前に限ってそんなことはないだろう」

 彼はまさに怒り心頭といった様子だった。僕が言い淀んだ挙句弄した戯言は、目の前の男の真っ赤な顔を見るだに失言だったということがよく分かった。

「言ったって君には分からないよ。今僕が書くことから離れているのは僕の気質に問題があるからなんだ。だから君には関係ないし、それを話してもきっと君は理解しないさ」

 人の真摯な態度とは時として個人的な理念という不純物が内在することがある。しかしその方が本当ではないだろうか。でなければ僕が覚えた彼に対する罪悪感と虚言を吐いたことに対する後悔の念は嘘になるのだ。それではあまりに救いようがないではないか。

「話してくれる気はないんだ」

「ないよ」

 短く答えると長門は何も言わずに僕の側から離れて教室から出て行った。僕はその後姿を最後まで見送った。もし彼が出ていく途中で振り返りでもしたらばつの悪さを煩わしく思うだろうことは想像に難くなかったが、それを承知の上で目を離さなかった。

 僕は鞄に教材を詰め込みながら揺蕩うような力ない思索を巡らせた。僕はもしかしたら先の口論を境に、金輪際長門と同じ時間を過ごすことはないかもしれない。僕と長門は保育園の時分から多くの時間を共有してきたが、その十余年の付き合いは若輩者である僕にはいやに大きなものに思えた。それがたった今しがた起きたこの無味乾燥な口論の末になくなってしまった気がしてならない。それにしては全く簡素な出来事だった。人生の岐路が劇的であると信じる根拠はどこを探してもないのではいかと思わずにはいられない。


 僕は今日も弾き語りの女性を見に行った。連日同じ場所で演奏している彼女はやはり今日も変わらずその場を依拠としているようだ。僕は彼女の前まで歩いていき、開いて置いてあるギターケースの前に学生鞄を敷いてその上に腰を下ろした。彼女は地面に向けていた視線を僕の方へちらりと送った。顔は俯き加減のまま、目だけを無理やり滑らせて前を見たから、その眼光は鋭くなり、僕は睨まれた気分になった。僅かに目が合って、彼女の気迫に気圧されて及び腰になった。緞帳のような黒い前髪の隙間から覗かれる細い眼は引き絞られた弓を思わせ、射られた視線は空気を鳴らせた。

 琴線を引っ張り合うような緊張感はすぐに過ぎ去り、彼女はまたそれまでと同じように自分の少し前の地面をぼんやりと眺め始めた。小さく動く唇は血色が悪く、表面は乾燥のためにざらざらとささくれ立っていた。僕に興味を持たなかった彼女は浪々と歌い続け、僕はその詩を拾い上げるために耳を離す。

 

 少年はいつもふとした瞬間に死にたくなるのだという。それは歩いている時、丁度眼前に落葉を見た瞬間である。それは恣意的に部屋の隅を見た時、小さな埃の集まりを認めた瞬間である。それは地下鉄の駅構内にいる時、誰の目にも留まらない有るか無きかの装飾を見つけた瞬間である。しかしそれらを人間が自ら命を絶つための大義として掲げるのは認められていないらしい。人間が自殺に至るにはもっと凄然とした苦悩がいるという。けれども少年の人生には人々が賛辞を贈るほどの悲劇は一向に起こらず、初年は気付く。死にたいという欲求は少年が考えていたよりもずっと高次に位置し、それは選ばれた者にのみ与えられる褒賞品だということ。世間とは皆嘘つきで、知らぬ存ぜぬが板についているということ。少年は夭折の美しさが分からなくなってしまった。


 雑駁とした詩の中に一人の少年の姿が易々と浮かんだ。黄色いレインコートが印象的な少年で、裾に跳ねた泥が無視できない情景だった。短い時間の中でその少年は茫洋とした嘱望と、それに伴う懊悩を抱いていることが分かった。

 僕は前にいる女性をつぶさに眺めた。この人にも創造性というものが備わっている。付言すればそれは僕が尊崇する類のそれだった。長門の持つ創造性とはまた違う、本当のそれが、彼女の中には存在する。この広場の中にいる人々の中で、おそらく僕だけが黄色い少年を見つけられる。僕だけに見えるこの少年を愛おしく感じた。

 気づけば歌は終わっていて、女性は僕の方を見ていた。僕は曖昧だった彼女への評価を確かなものにし、向けられる視線を嬉しく思った。

「いい歌だと思います」

 彼女が僕の感想を求めているとは思い難いが、今の正直な気持ちを口にした。すると彼女は「ありがとう」と短い返事を寄越した。そして続けて「私はそうは思わないけど」とも言った。

「どうしてです。あなたの曲でしょう」

「そう、私の曲だね。もう歌い収めだけど」

「分からないですね。この曲にはあなたの創造性が込められているはずでしょう。なぜそれを信じないんです」

彼女は少し考える風な顔をした。鋭く砥がれた眼光に反して、柔和な語調で話す彼女に僕は少なからず驚いていた。

「創造性って難しい言葉を使うのね。そんな難しいこと考えたことなかった」

「だったら尚のこと誇るべきではないでしょうか。僕は感服しましたよ」

「あなた以外に聞いている人なんて誰もいないじゃない。これで何を誇るって言うのよ」

 彼女は当たり前のことを諭すように呆れ顔で言った。相手をしている僕が子供だからそんな態度を取るのだろか。

「誰にでも分かるものではないんです」

「でもあなたには分かるんだ」

「ええ、分かります」

彼女はまた考え出した今度は深い黙考に耽っているようだった。僕は彼女が再び口を開くのを静かに待った。

「あなた話すのは得意かしら。私はとても苦手なのよ」

 突然変わった話に僕は狼狽えた。何よりこの問いは異な事であると思った。僕は正直に分からないと答えた。彼女はそれに対して「そう」とだけ言った。

「あなたの言う創造性がどういうものか分からないけど、いずれにしても私の中だけにあってもしょうがないものでしょう」

「さっきも言った通りですよ。誰にでも理解できるものではないんです。大衆的な道楽とは違うんです」

「それなら私にとってはあまり意味がないわね。無意味に歌う気はないもの」

 それは彼女の有する創造性に対する冒涜と取ることができる言葉だった。僕は何とかして彼女の口から肯定的な言葉を引き出したかった。

「理解を示さない人間にはそうさせておけばいいんです。あなたはその魅力を捨てるべきではありませんよ」

 僕はひとり白熱した感情を持て余して、次第に声が大きくなるばかりだった。しかし彼女は対照的に沈着な様子だった。

「孤立した創造性なら存在しないことと同じだよ。表出する意味がないじゃない。創作というのは生きる上で必要なものではないのだから、それで得られる歓喜も苦難も道楽でしかないわ」

「だからそれは大衆的な捉え方ですよ。本物の創造というのはもっと芸術的で、凡庸な人間には近づき難く傲然とそこにあるものなんです。それに至るためには短期的な展望を持っていてはいけません」

 僕が矢継ぎ早にそう話すと、彼女は「そうね」と言ってから手に持つギターをケースにしまい始めた。落ち着いた所作で着々と身支度を整えていく。僕はそれを呆然と眺めていた。そうして立ち上がった彼女は尻の汚れを軽く叩いて落としたが、彼女の尻からはそれほど埃が立つ様子はなかった。そして彼女は僕と向き合った。思えば彼女の立った姿を見るのは初めてで、彼女が僕より身長が大きかったことを初めて知った。僅かに見上げるようにして見ることができた彼女の顔の全容は想像よりもやややつれていた。

「きっとそれは大変なことだよ。それこそ、誰にでもできることではないはずよ」

「そんなことは百も承知ですよ。だからこそ誉れ高いことではないのですか」

「だとしても私とあなたには縁遠い話よ」

「そんなことないです。僕たちは他とは違いますよ」

「同じよ。私はそんな高邁な理想は持っていないし、あなたは立派な理想は持っているのかもしれないけど、持っているだけ」

 僕は咄嗟に反駁することができなかった。

「あなたの苦しみは、あなたが自覚しているものとは違うんじゃないかしら。まずはそれをきちんと知らないと誰にもなれないわよ」

 彼女は「弾き語りをやめるわけじゃないから、よかったらまた聞きに来て」と言って、

僕に背を向けて去っていった。もう二度と僕と彼女が会話をすることはないだろう。

 人間の持つ一等高潔な価値とは創造性だと考えていた。しかもそれは半端な理解を排斥した純正のそれでなければいけない。その信念に従って創造することは孤独や寂寞と恒常的に付き合っていく必要があるだろう。僕が信じる高潔な価値――その美しさとはまさに孤独な様であり、一見しただけでは内包する美質を窺い知ることはできない、日陰の水溜まりのような姿をしているものだ。間違っても万人が見惚れる壮麗な湖の姿などではない。

 僕にとって小説を書くことはそれほど特別なことではなかったように思える。幼少の頃から小説を書いては、近所に住んでいた読書家の祖父母や、家が隣だった長門を訪れて読んでくれるよう乞うていた。彼らは飽きもせずに読んでくれたが、今にして思えばそれは彼らの気遣いだったのかもしれない。そう思うようになったのは高校に進学して、長門と共に文学部に入部してからだった。彼が文芸部で小説を書くようになるとは僕は少しも考えていなかったが、後に彼はそのことについて単なる思い付きではなかったと語った。僕は意気揚々と部での創作に臨んだが、次第に僕と彼らとの認識の差異に気付かされた。初めの同人誌作成以降、長門を除いて僕の小説を進んで読む者はいなかった。対照的に彼の書く小説は部の中で好評を集めていった。昔から僕の小説を読むばかりだった彼のその姿を眺めるのは、快晴の下仰臥することに似ていた。

 僕は彼の書いた小説を読んでみたが、果たして全く分からなかった。このように凡庸な作品に人を魅する力があるとはまるで考えられなかった。僕の小説が彼の小説より劣るとは一体どういうことかと沈思する日々が暫く続き、しかし結論を出すことはできず、部内での違和感は日増しに強くなった。小説を書く気力を削がれるまで長くはかからなかった。

 どうやら僕は美しい創造性に憧れていたわけではなかったようだ。僕が憧れていたのはそういうもの持った非凡な人物だったと、ようやく分かった。僕の抱いている苦しみもまた同時に正しく理解した。彼女の言に対してもまた同様だった。

 大衆性を蔑視し、本物の創造性に付き纏う苦悩に苛まれていたと錯覚していたが、実際は人としての凡庸さから離れられない自身に嫌悪感を催していただけだったのだ。

 僕は非凡な人間になりたかったのだ。高潔な魅力で僕を虜にした文学の世界で、多くの人から認められ敬愛される彼らのようになりたかった。しかし現実はどうであろうか。僕の小説は小さな組織ひとつの中ですら認められない。僕の小説が有する影響力の矮小さを知った。現実とはまさに冷水のように無慈悲に僕を陶酔から引き剥がすのだ。

 三島由紀夫――美しい星。

 地球人の行く末を信じる一家が最後に様々な色彩を放つ円盤を目指したのはなぜか。また、曳航する海の男に憧れた少年が後に失望を抱いて、男を手にかけるに至ったのはなぜか。あるいは詩を書く少年がいずれ詩を書かなくなる将来がやってくるかもしれないと生まれて初めて思い、そしていつの日か自分がずっと詩人などではなかったと悟るのはなぜか。

 多様性と変化が充溢するこの世間において、理想と現実が対立することだけがいつの時代も変わらず横たわっているという矛盾は、誰の解明も一切寄せ付けない一等老獪なそれなのだ。ところで僕も矛盾を抱えている。非凡でありたいと願う凡庸性こそがそれだ。設えた非凡とは、あるいは別角度から鳥瞰した凡庸の見慣れぬ姿ではないか。それもまた、世間に普遍する一等老獪な矛盾のひとつなのだ。


 彼女と別れ駅前広場から出た僕は自宅には向かわず、近くの土手に足を運んだ。月の明かりが川面に反射している。斑に照り返す光のせいで大きな鱗を持つ生物が水中に潜んでいるように思えて怖い。夜風の冷たさが厳しい。手がポケットの中に深く潜る。

 自信を失い、小説を失い、友を失い、創造性を失い、ほかにもまだあるかもしれない。失ったものがあまりにも多いので、自ら捨てたものが一体何だったのか判別できない。しかしそれは確かにあるのだった。たくさんのものを失うきっかけとなった放棄の日が、僕の過去のいつかに潜んでいる。しかしそれを見つけるのは容易ではない。大きな鱗は依然水面にゆらゆらとその存在を仄めかしているだけである。


                                                                         了

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惑溺 朽網 丁 @yorudamari

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