第24話 仙人
「うわあ……真っ暗だ」
「お疲れ様です」
あれやこれやと溜まる仕事をこなしていたら、気付けば日が落ちてしまった。廊下の窓の外で星がキラキラと光っている。
「奈々子さんでも残業することってあるんですね」
「なるべくしたくない主義なだけですう」
失礼な奴だな。私だって必要とあらば会社に居残りだってするさ。特に今日のような月末なんてのは残業しがちである。
大人になると“月の締め”という単語に拒否反応を示す人間が大勢いるものだ。そして私もその一人。
靴を履き替えて外に出ると、一層寒さが身に染みる。思わず目をつぶって縮こまっていると頭上から笑い声が聞こえた。
「んん」
「あ、いえ。寒そうだなと。先月はそんな顔してませんでしたよね」
「そうだなあ」
「覚えてますか? 十月のくせに暑いってぼやいてたじゃないですか」
「よく覚えてるね」
そういやそんなこともあったな。ユウは温度が分からないんだっけ。それにしても出会ってからもう一ヶ月以上も経つのか……時間の流れはあっという間だ。
「僕は、貴女のことならなんでも覚えてますよ」
「そう」
「本棚に四年分の健康診断の結果が隠してありましたね」
「は!?」
般若のように凄みを増す私の変顔には目もくれずに「身長、体重、視力に血液検査……」とさらに続けやがる。私は怒りで震えながら車に乗り込んだ。
隠してたのにめざとい奴だ。余計な情報ばかり集めている。
「血圧がやや高いのが気になりますね」
「誰のせい!」
「やだなあ、僕が来る前じゃないですかあ」
勢いに任せてエンジンをかけると、隣で「安全運転でお願いしますよ」なんて間の抜けた声をかけられた。奴は私をどうしたいんだ。
とはいえ運転に集中できなくて事故を起こすのはごめんだ。万が一事故死した際には、このストーカー幽霊が両手を広げて待ち構えているのだから。
そこまで想像して鳥肌が立った。深呼吸をして忘れることにする。
「今日は寄り道するから」
「そういえばシャンプーが切れてしまってましたねえ。ドラッグストアですか」
「う、うん」
「ついでにコーヒーも買うといいですよ。また切らしてから買うのも面倒でしょう?」
「……う」
「柔軟剤と食器洗剤も安売りしてたのでそれも買いましょうね」
……怖い。気にしてくれるのはありがたいのだけど、ユウは私がよく使うメーカーまで熟知しているので尚更怖い。
まさか私の家の消耗品の種類や残量まですべて把握しているのだろうか。くらくらしてきた。
「大丈夫ですか?」
「精神的に召されそう」
「じゃあ、そのまま召されてしまいましょう」
いきなり奴の顔がせまってきて、ちゅ、とリップ音を鳴らして楽しそうに笑う。
一度許してしまったせいかユウは頻繁に私にキスをしてくるようになってしまった。私に気づいてほしいのか、わざわざ音まで立てながら。
「まだ出発しないんですか?」
「エンジンが暖まらないと」
「じゃあ、もう一回」
こういう時に振り払うことも逃げることもできずに、身を固くしてしまうのは私の悪い癖だ。抵抗しなければ同意と同じなのに。
またユウの顔が近づいて来た。反射的に目をつぶって体が硬直してしまう。
リップ音と共に、背中に悪寒が走る。体に冷気を送り込まれたかのようだった。
***
「さてと」
思っていた以上の荷物を車のトランクに詰め込んでひとつ背伸びをした。結局あれもこれもと買い込んでしまった。
まあドラッグストアとはそういうものだ。仕方ない。
遠くの方で騒ぎ声が聞こえる。なんだと思って探してみると、道の反対側の塾から数人の子供たちが出てくるのが見えた。中学生くらいだろうか、大きな声だなあ。
「そっかあ、塾が終わるのが今頃なのかあ」
その子たちは親を待っているのかそのまま塾の入り口で立ち話を始めた。私も車に乗り込み発進させる。
あんな感じの、騒ぎたい盛りの子供の群れを見ると思い出すことがある。道路に向かってアクセルをゆっくり踏みながら考える。
「いつぐらい前だろ、けっこう前にさ。ここに変わった人がいたんだよね」
「ええ……」
「仙人みたいにヒゲが長くてね、ちょうどこの時間に買い物に来るといたんだ」
「へえ」
やっぱりユウは他人の話になると極端に興味をなくすようで、今も死んだ目をしながら相づちを打っている。そんなでも話は律儀にちゃんと全部聞いてくれるんだよなあ。
「ああ、二年前かな。私が配属したてでいつも残業してた時期だ」
「……」
「なにせ格好が目立ったからなあ。今日はさすがに見なかったか」
「ふうん」
ちらりとユウを見ると、ものすごくつまらなそうな顔で私を見つめていた。ばちりと目が合う。
「店の外で塾の帰りっぽい子供たちに絡まれてたこともあってさあ、私が追い払ったんだ」
「ちょっと……変なことに首は突っ込まないでくださいよ」
「大丈夫。今はそんな元気ないから」
赤信号で停止する。ユウがこちらに身を乗り出して顔を覗き込んできた。
「本当ですか? 今の時代、少し関わっただけで事件に巻き込まれたりするんですよ」
「心配してるの?」
「当たり前ですよ。ともかく、貴女は女性なんですから周りをもっと気をつけてください」
「はいはい。えっへへ」
「何笑ってるんですか……緊張感なさすぎてヒヤヒヤしますよ」
いつになく私を心配する様子に思わずにやけてしまう。ユウは呆れていたが、あまり私は女性扱いを受けるのには慣れていないのだ。許せ。
干渉不可能な幽霊にストーカーをされている時点で、私は重大な事件に巻き込まれていると言えるだろう。なので今更緊張のしようがない。
「誰にでも簡単に優しくしないでください」
「もう今はユウで手一杯だから、他の人はかまえないかな」
「それならいいんです。それでいいです」
大事なことだから二回言ったのか。まるで自分に言い聞かせるように呟いてユウはおとなしく助手席についた。
嫉妬深い幽霊だなあ。それとも心配性なのか。
信号が青に変わったので私は前に向き直ってアクセルを踏んだ。
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