透明な翼
自己満足(みずみ・みちたり)
透明な翼
短編 透明な翼
0
空を飛びたいという願望は、おそらく全人類共通で潜在的に宿しているものなのだろう。そして人間は、あらゆる形でそれを実現してきた。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチが構想したヘリコプター、たとえばライト兄弟が発明した動力飛行機、などなど、枚挙に暇がない。
しかし、今日に至っても、真の意味で人間は飛ぶことが出来ていない。エンジンや電気の力でしか、陸を離れることが出来ていないのだ。だから私たちはいつも空を縦横無尽に駆け巡る鳥たちを、惨めな気持ちで見上げるのであった。人類の、唯一の敗北と言ってもいいかもしれない。
1
私の通う学校のクラスメイトのそのほとんどが、現実に退屈し、非日常に飢えているような人種で構成されていた。あっちの町ではUFOが出ただの、こっちの市内では幽霊を見ただのと、胡散臭い噂話を、中一にもなって本気で信じているのだ。――まぁ、私もその一人なので人のことは言えないのだが。
二〇一八年/五月/某日。朝のホームルーム前のことだ。
「
「見てこれ」
と、彼女は私に一枚のA4の紙を見せてきた。どうやらインターネットのサイトのコピーのようだ。
「何々……」
『西新宿の高層ビル街にて空中散歩』
というタイトルの付けられたまとめサイトだった。ざっと目を通し、要旨を把握する。この頃都心で夜景や記念写真を撮影すると、夜空に人影のようなものが映り込むというのだ。
どうせ合成写真だろうなと思って眺めていると、案外それらしい感じでその人影は写り込んでいた。画面中央で若い女性二人がピースサインをしており、目の所だけ黒く塗り潰されている。おそらく都庁前かそこらで撮影したのだろう。背景には大きな鏡色の建物が月とネオンに照らされて輝いている。その上あたりに、申し訳程度に手足の生えた影が浮かんでいた。こうして赤丸をされていないと気づかなかっただろう、そのくらい小さかった。
他の写真にもばーっと目を通したが、どれもこれも怪しいようで本物なようで、はっきり言って私には判別がつかなかった。
そして一つ気になったのは、どの人影も空を「飛んでいる」というよりは「浮かんでいる」といった印象を受けたことだ。両足を下に向け、まるで足元に見えない床があるようだった。――だが、そんなものはまずあり得ないし、少しブレが掛かっているので、その場でぶら下がっているだけということでは無さそうだった。
「ね、面白そうじゃない?」
「うーん……微妙」
飛鳥が瞳をきらきらさせていたので非常に言いずらかったが、正直あまり興味を掻き立てられるものはなかった。
「えー、どうして」
飛鳥が不満げに頬を膨らます。
「この手の話は不気味な廃屋だとか、いわく付きの人里離れた村だとか、そういうオーラのある所だから流れるものでしょ?」
現に私たちは数週間前、そんな怪談じみた体験をしているのだが――それはまた別の話、である。
「――看板や車載ライトで昼なのに空が青いような都会じゃ、風情が無いじゃない」
「風情って……」
雰囲気と言い換えてもいいかもしれない。
というかまず、夜の繁華街を歩いていてふと空を見上げると人間が浮いていたなんて話、ホラーというよりもシュールで滑稽なギャグじゃないか。
「うんまぁ私も半信半疑だけど……調べてみる価値はあるんじゃない?探偵同好会の原稿も、この前のはお蔵入りになっちゃったし……」
探偵同好会というのは私たちが立ち上げた、身近な謎を解明し文芸誌に載せるという娯楽目的の同好会のことだ。この前の事件は逃すにはあまりにも惜しい大きな魚ではあったが、プライバシーや関係者の意向などの諸事情により、やむなく没になってしまったのだ。
「確かに、期限も近いけど……これがもしもただの合成写真だったら、洒落にならないよ?」
私は飛鳥に念を押す。
「そうだけどさ……空中を歩くのって、なんだか浪漫に満ち溢れてない?」
「ろ、ロマンね……」
――タケコプターくらい今の時代、もう出来ていてもおかしくないくらいなのになぁ……。
私は頬杖を突き、窓の外を半目で眺める。じいっと見ていると、雲が空を移動しているのが感じられた。
――今の時代、割とまだまだ出来ていないものは多いんだな……。
そんなことを考えていた。
「だから今日、取材をしに新宿まで行くんだ」
「しゅ、取材って……」
――得られるものなどたかが知れているというのに……。
「それに新宿でしょ?ちょっと遠くない?」
「ボク、昔から新宿、行ってみたかったんだよな……ザ・都会って感じがして。人生十三年目にして、ようやく叶うわけだね」
話を聞いていないようだった。
補足だが、飛鳥は一人称が『ボク』であるが、れっきとした女子生徒である。
――しかし、他の会員も一緒に連れていくというのは、彼等の都合上、無理なのじゃないだろうか……。
そう思い、私は、
「でも、今日は同好会の他のメンバーは部活があるだろうし……」
「だから、ボクと結未ちゃんだけで行くんだよ」
――いやしかし、飛鳥は今日陸上部があるのでは。
「飛鳥、あんたの部活は?」
「ん?一回くらい練習休んだって平気だよ。ボクは陸上部一の脚を有しているからな。部員や顧問の先生からの信頼も厚いのだ」
自画自賛しながら得意げに胸を張る飛鳥。
――こんな奴が陸上のトップでいいのか……。
私は陸上部顧問の先生の顔を思い浮かべた。
――こう言っちゃ悪いが、あの先生も指導が緩いからな……。
「聞き忘れていたが、結未ちゃんは部活、大丈夫なのか」
「お気遣いどうも。――私は帰宅部所属の暇人ですよ」
「それは良かった」
皮肉を挟んだが、飛鳥には清々しいくらい華麗にかわされた。
「じゃあ、放課後、一緒に新宿に行こう」
次第に教室に人が増え、授業が迫ってきたところで、飛鳥はそう短くまとめ、私の席を離れ、自分の定位置に戻った。
こういうわけで、半ば飛鳥に強引に誘導された感は否めないが、私たちは例の空を歩く人物を調べることと相なった。
*
「前に
と、飛鳥は電車内でいきなり切り出した。相川君というのは、同じクラスで探偵同好会仲間の、美術部所属の相川いるかのことだ。
「ルーヴル美術館に展示されていることで有名なミロのヴィーナスがあるが、その陰に隠れたもうひとつの傑作彫刻を知っているか?」
「……サモトラケのニケ?」
「そう……よく知っているな、結未ちゃん」
「いるかほどではないにしても、美術は私の専門分野だから」
ガタンゴトン、と車両が揺れた。向き合うようにして座っている飛鳥の肩も、衝撃で左に傾いた。車輪と線路の摩擦音で会話が聞き取りにくくなったため、私は声のボリュームを上げる。
「で、それがどうかしたの?」
「そのふたつの彫刻は、ある共通点があるんだ。――それは両方とも腕が無いこと」
「……確かに」
ミロのヴィーナスもサモトラケのニケも、確か両腕の部分が見つかっていないらしいが……。
「で、ここで考えてほしいのだが……ミロのヴィーナスは人間に見えて、サモトラケのニケは人間に見えないのは、何でだと思う?」
「ん?どういうこと?」
いまいち話がつかめない。
飛鳥は面白そうに口角を上げ、勿体ぶった。
しばらくの沈黙ののち、車両がトンネルに入ったところで、飛鳥は再び口を開いた。
「だからつまり、ヴィーナスの方は人間として認識出来、親近感が湧くのに、なぜサモトラケの方はまったくもってヒトに見えないのか、ってこと」
「ああ、言われてみればそうだね」
ミロのヴィーナスより、サモトラケのニケの方が、若干神秘的に見えてしまうのは、いったいなぜなのだろう。
改めて考えると、不思議だ。
「うーん……それはただ単に、サモトラケには頭部が付いていないからなんじゃないの?」
私は言った。
そう。サモトラケのニケには、両の腕のほかに、首から上も見つかっていないのだ。
「うーん……それはひとつのパーツでしかない気がするな。直接の理由ではないというか……じゃあ結未ちゃん、試しにサモトラケのニケに頭が付いている様子を思い浮かべてみてくれ」
「…………」
私は目を閉じて頭の中で、ミロのヴィーナスの首を切り取って、サモトラケのニケにコラージュした。
――余計に不気味さが増しただけのような気もする……。
「だろ?」
「うん……」
「じゃあその問いに対する答えは何なのか……相川君はそれを、翼が生えているからだと考えていた」
――翼が生えているから……?
そうか。ミロのヴィーナスに無くてサモトラケのニケにあるもの、それは鳥の翼。
「人間という生き物は、自分と異なるものを持つモノを畏れる傾向があるからな……サモトラケのニケの知名度が低い理由もそこにあるのではないかと、彼は話していたよ」
「……翼……」
古代から神話調の絵画にはよく鳥の姿が描かれていた。陸を歩き海を泳ぐことのできる人間が唯一機械の力を借りなければ達成できなかったこと。――それは飛行だった。
――だから人間は、鳥を崇拝していたのか……。
「そういえば、これも相川君情報なんだけど、同じくルーヴルのモナ・リザを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチは、実はパラシュート、ハンググライダー、ヘリコプターの原案者なんだって」
「へー……」
それは初耳だった。……機械工学をかじっていた程度には認識していたけれど、あの爺さん、やはり万能の天才だったのか……。
「偉人だって大昔にそんなことを考えていたんだから、やっぱり人間は根本では変わらないような気がするな」
「あなたと一緒にされたダ・ヴィンチさんが可哀想です」
私が苦笑すると、飛鳥は意味が判らないというように眉をひそめた。
こうして美術のお勉強をしているうちに、私たちを乗せた地下鉄は新宿駅に到着した。
「降りよう」
「うん」
ふたり並んでドアから降りると、電車内にいた人々の大半がどっと溢れ出てきた。ホームには予想以上に人が多く、エスカレーターや階段も黒、ときどき金色や茶色、紫などといったカラフルな頭がずらりと並んでいた。
ホームから出、大量に配置された改札を通ると、今度は駅の中にコンビニや軽食屋が軒を連ねていた。もちろんどの店も客でいっぱいのようだった。
「……す、凄い人込みだね」
「あ……ああ」
飛鳥は口を半開きにして放心気味に頷いた。
私たちは、放射状に続く長い駅中の道を、制服姿で肩身の狭い思いをしながら歩いた。
――子供がこんな所に来ていいのだろうか……。
何度そんなことを考えただろうか。
緊張ですぐ隣にいる飛鳥とも口がきけなかった。
大人数の中から抜け出し、地上へ上る階段を見つけた。
「あそこから出よう」
私は指で示した。
「う、うん」
飛鳥はたった今我に返ったように返事をした。
コンクリートの階段を下を向きながら上ると、ようやく地上に出ることが出来た。
あたりには冗談みたいな高さのビルが密集し、日差しで目が眩んで一番上が見えない程だった。O字道路の中央には、斜めに切断された筒のような形の奇妙なオブジェを、ツタ植物が這うようにしてへばりついていた。
青地のSUBARUの看板、ドン・キホーテの黒いビル、楕円状の長細いあの凝ったビルは、東京モード学園だろうか。
傾きかけた朱色の太陽が、巨大な直方体の鏡に反射して映っていた。
「な、なんか地元とはスケールが違いすぎだね」
「うん……建物全部が大きすぎだ……」
新宿駅階段口に、ふたりの東京田舎者が立ち竦んでいた。
*
その後私たちは、あたりを探索し、何か写るのではないかという無謀な期待を抱きながら空を見上げ、景色をカメラに収めたが、結局空を歩く人影は見つからなかった。
腕時計を確認すると、もう七時だった。
「何も無いね……」
「うん……」
私と飛鳥はうなだれ、ふたり同時に深いため息をついた。
「やっぱりあの情報はデマだったんだね」
「うん……これでまた一からネタ探しか……」
貧乏くじを引いてしまったというわけか。
――貴重な時間を浪費してしまった。
「まぁ、新宿を堪能できたってことで、いいじゃない」
無駄にポジティブな飛鳥が言った。
「うん……そうだね」
「また来よう」
「うん」
今回ばかりは飛鳥に乗ろうということで、あまりむしゃくしゃせず、笑って帰ろうと思った。
そして。
地下に下りる階段に、一歩脚を踏み入れようという、そのときだった。
『――――――ッッ‼‼』
あまりにも突然の衝撃音。そして、地震が起きたのかと思ったほどの地面の揺れ。思わず私と飛鳥はその場に倒れ込み、あたりの群衆もあたふたしているのが目に映った。
そして――。
すぐ横の大通り、道路で、車が渋滞し、事故連鎖を起こしているようだった。――その元凶、一番先頭のトラック。正面のガラス窓に、人間が激突したようだった。ガラスは真っ白にヒビが入り、激突したと思われる男性は、道路のど真ん中で仰向けに倒れ込み、腹のあたりから大量に血を流して意識を失っていた。しばらくすると、トラックの中から運転手が飛び出し、大けがをした男性に駆け寄っていた。
「…………どういう……こと……」
「わからない……」
私と飛鳥は、ただただ唖然とその様子をを眺めることしか、出来なかった。
遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。
2
「……状況がいまいち呑み込めないんだが……つまりそのトラックが、男の人を轢いたって事か?」
いるかはいつも通りの落ち着ききった声で言った。相変わらず目の下には隈をつくっているが、これもまた平常運転だった。
「そうじゃなくって、トラックと人がぶつかる感じ。通り過ぎるんじゃなくて……」
「ふーん」
いるかは何かを考える仕草をしながら、白米の塊を箸を使って口に放り込んだ。
今現在私がいるのは、私の通う中学校の屋上である。そして時刻は午後零時半。うちの学校は、昼休みになると屋上が解放され、ベンチで弁当を食べることが出来る。食堂や教室の方が圧倒的に利用人数が多いのだが、私といるかは景色がいいとの理由で、よくここでランチをするのだ。
「でも、そのときの音がただの事故じゃあり得ないくらいの物凄い音がしたんだけど……これ見て」
「ん?」
私はポケットの中から数枚の写真を取り出した。
「これ、事故の直後に撮った写真なんだけど……」
「うわ、グロ……お前よくこんなの持っていられるよな」
「そう?」
写真をもう一度見直す。確かに血やガラスの破片は写っているものの、そこまで激しい拒否反応は怒らない。
「このトラックの前方部分が大破してるでしょ?」
「あ……ああ。これでなんで運転手が無事だったのか、不自然に思うくらいだな」
「でしょ?……けど……」
私は続けた。
「人間一人がぶつかったくらいで、ここまで車ってペシャンコになると思う?しかも日本産の小型トラックだよ?おかしいと思わない?――なのにマスコミでは平然と事故として報じられている」
「まぁ……確かにな。――だがその話がどうしたんだ?」
「私は、この男の人は転落死(、、、)した(、、)んだと思うの」
「て、転落死⁉」
いるかは、あまりの衝撃に驚きで咳き込んだ。
「一体全体どうしたらその結論に至るんだよ?」
「だから、言ったでしょ?私と飛鳥が新宿に行った理由」
「……空中散歩、そういうことか」
「うん。私は、この被害者の男の人は、翼の溶けたイカロスだと思うの」
「……流石に比喩表現だよな?」
笑えないというようにいるかはおどけた風に言った。
「いやまぁ……それでも多分、彼が空を歩いていたのは間違いないって」
「うーん……まぁ衝撃音の大きさなどから推測するに、転落死だってのは賛同するけど……それってただの事故や自殺じゃないの?あたりにはビルが立ち並んでいたことだろうし」
「違う違う。現場は道路のほぼど真ん中で、上空には電線ひとつ張ってなかったよ」
「まぁ、そうか――もう一度その写真を見せてくれ」
「あ、うん」
私は食べかけのサンドイッチを一旦弁当箱に置き、写真をもう一度見せた。
「これは……」
じっくりと写真を凝視するいるか。
そこには。
*
例のごとく私にもいるかにも事件の容貌がさっぱり判らないので、例によって例のごとく、私たちはとある推理屋さんのもとへ向かった。
学校から徒歩五分。
住宅や町の本屋、コンビニなど、新宿には程遠い都内の田舎道。その軒並みのかなに、ひとつだけ目立った洋風の建物があった。一階のアパートと建物を共有しており、すぐ横の専用ガレージには、場違いな痛車が停めてあった。
――印象悪いな……。
私といるかは、その薄暗いコンクリートの階段を上り、二階に着くと、『黒豹探偵事務所』と手書きで書かれた戸を二回ほど叩いた。
『…………』
応答なし。
いつも事務所でごろごろしているあの人のことだろうから留守は考えにくいと判断し、ドアノブに手を掛けた。不用心なことに、拍子抜けするほどあっけなくドアは開いた。玄関に足を踏み入れると、廊下の奥の方の部屋から、女性の話声が聞こえた。
『夫は――で――刻も早――します、依頼料は――』
どうせあの人が好きなアニメのなかの声優の台詞だろうと思い(言い忘れていたが、その推理屋さんは重度のアニメ好き、いわゆるオタクと呼ばれる種類の人間であった)、普通に足取りを進めていくと、リビングとを隔てるドア越しの衣擦れ音からして、どうやら本当にそこに女性はいるようだった。
――依頼人だろうか……。
私は聞き耳を立てた。
『その男というのがどうやら外国人らしくて、信用ならんのですよ』
と、女性。
『いやぁそれは偏見でしょう。天にいる時から国籍は選べませんから』
と、推理屋・
そうっと音を立てずにドアを開き、隙間から中の様子を覗き込む。
趣味の良い暗い赤地の壁に、凝りものの棚、アンティーク品が揃い、小難しい英文書の背表紙が連なっていた。唯一この部屋の欠点と言えば、天井にアニメキャラのポスターが敷き詰めるように貼られている事のみだった。――致命的であったが。
そして中央のテーブルで向かい合うように座っている男女。女の方は四十代ほどで、真っ白な化粧をし、ブランド品を着飾っていた。男の方は比較的若く、二十代後半と云ったところだった。問題はその服装。薄手の黒いローブを着重ね、首には数珠、手には白手袋、むき出しの素足に下駄、と随分浮世離れした風貌。――彼こそが黒舘さんだ。
その後ふたりは金銭関係の子供には難しい会話を交わし、『ありがとうございます』と言って、女が席を立った。
――まずい……。
「いるか」
私はすぐ隣で同じように息をひそめていた彼に小声で話しかけた。
「何?」
「壁に寄って」
「は?」
「いいから!」
私が語気を強めると、いるかはおとなしく従ってくれた。
しばらくすると、内側からドアが開けられた。なかから出てきたのは勿論、あの婦人である。壁に寄っていた私たちはドアの裏に上手く隠れることができた。婦人はそのままこちらの存在に気付くことなく、玄関でスリッパと靴を履き替え、事務所を出ていった。
「ふぅ……」
「……何で隠れたんだ?必要なくないか」
「黙りなさい」
――さて。これから部屋に入ろうか……それとも家に引き返そうか……。
優柔不断に迷っていると、ドア越しに声が聞こえた。
『おい、そこにいるのは判っているんだから部屋に入れ』
「!」
――まさか……ばれた?
その声は明らかに私たちに掛けられているものだった。
『ジュ―!』
「…………」
『キュ―!』
どうする?、とドアを前に壁にへばりつきながらいるかに目で合図した。
――……行くか?
――別にばれたところで何にも損はないんだけど……。
――いや、でももしかしたら今別の依頼が来て忙しそうだから私たちの用件聞かずにアニメ持論を喋りだしちゃうかもよ?
――いや忙しいならアニメ持論は披露しないだろ。
――でもあの人はするじゃん!
――ああ、するな。
『ヨ―ン!サーン!ニーイ!』
いよいよカウントダウンも佳境だった。
今考えると滑稽だが、この時私たちの間では、ハリウッド映画並みの緊張感が張りつめていたのだった。
『イーチ!――ゼロ!……から始める異世界……』
「いやアニメのタイトルだったんですか」
『あれ?本当にいたんだ』
「…………」
――ハッタリだったか。
私はいるかに目で合図し、玄関で靴に履き替え、ドアを開けた。
「ち、ちょい待たれい!」
私たちが引き返そうとしたところで、黒舘さんはやっと私たちを止めに来た。
するとすぐさま焦りの表情を顔から消し、少々得意げに彼は言った。
「なあに。君たちが空を歩く男について調べているさなかに事故に巻き込まれ、この黒舘豹助に助けを求めに来たことくらい、お見通しなのだよ石岡君!」
「…………」
――石岡って誰だ。
*
「君たちは『占星術殺人事件』を読んだことがないのかい」
「ありませんがそれが」
何の脈絡もなく黒舘さんはそう言うと、「まぁ座りたまえ」と私たちをソファー席に通した。しばらくするとお茶(渋くも本格的な緑茶だった)を私たちの前に置き、何やら自信ありげに真向いの安楽椅子に座った。
「で?『リゼロ』の話だっけ?」
「違います……――黒舘さん、そんなにアニメばかり見ていて飽きないんですか?どれもこれも同じようなものでしょう」
私は天井のポスターを見上げながら言った。美少女キャラがただ好きというのならまだ判るが(それでもあまりお勧めはしないのだが)、アニメ全般が好きというのはどういうことなのだろう。本や漫画やドラマじゃ駄目なのだろうか。
「……うふ――うははははははは!」
黒舘さんはいきなり大笑いしだすと、安楽椅子を前後にがたがたと揺らし始めた。
――え?この人怖……。
発作でも起こしたのか。
「アニメの良さが判らないだって?三次元の物体であることを辞めた方がいいんじゃないか?――いやむしろ俺が辞めたい!二次元行きたい!――たとえ卵を床に百個投げつけて、一度も黄身が無事でなかったとしても、俺は奇跡を信じ続ける!――奇跡を起こす神がこの世にいないのなら……俺自身が代わりに――」
「あの?黒舘さん?」
「ん?何だ」
「座って下さい」
「…………」
「座って下さい」
黒舘さんは詰まらなさそうに肩をがくんと落とすと、渋々椅子に腰を下ろした。
「まずだな」
「はい」
「日本人が誇れる唯一のものは何だと思う?」
いきなり過ぎる質問に私は戸惑いながらも、「高度な技術……ですかね」と答えた。
「違うね。アメリカやヨーロッパ各国でも不可能なわけではない」
「じゃあ……思いやりの心?」
「それは個人個人だ。ジャパニーズ全員が人を思いやることが出来るのか?」
「誠実な所?」
「それも個人個人だ。以下同文」
「侍や忍者」
「それはもう過去のものだろう」
「じゃあ何ですか」
「アニメだよ」
「…………」
あまりにも真剣な顔つきだったので、思わず笑いそうになってしまった。
「え?アニメ?」
「そうだ」
「海外にも、ありますけど……ディズニーとか」
「あれはアニメーションであってアニメじゃない」
「違うんですか?」
「ANIMEとANIMATIONじゃ違うだろ。――日本では混同されているようだけれど」
すると黒舘さんはいきなりばん、と机に拳を落とした。
「そう、日本が誇れる唯一のブランドはアニメだ――にも拘わらず!日本人の大人の大半はアニメやそのオタクに対して、異常なまでの嫌悪感を抱いている。それは愛国心に反する行いではないのか!」
「は、はぁ……」
そうとしか言えなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
外から烏の鳴き声が聞こえた。
私はごほんと咳払いをした。
「では、本題に移りましょう」
*
「さっき、どうして僕たちがここに来た理由を言い当てられたんですか?」
いるかが黒舘さんに質問をする。
「ああ、それはだな……お前と好宮が例の事故――お察しの通り、さっきの婦人もその件だ――に巻き込まれたことは噂で耳にしていて、野次馬根性……おっと失礼。『優秀』な君たちのことだからきっとあの奇妙な話のことも知っているだろうと考え、ああして格好良く決められたわけさ」
一点だけ気になる単語が含まれていたが、今回は見逃すことにしよう。
「さっき来た婦人は何て?」
「あの人、実は今回の事故のトラック運転手の奥さんらしいんだ」
「え⁉」
「それで、旦那さんは『自分は事故直前まで被害者の姿は見えなかった。彼は空から降ってきたように見えた』と主張しているらしいんだが、弁護士も取り合ってくれないそうでね……おまけに被害者男性が目を覚まして、ウン百万を要求してきているらしいんだ。藁にもすがる思いでここに来たらしい」
「ほう……」
私はうんうんと頷く。
「それで、凪坂が事故直後の様子を写真に撮ったらしいんですけど」
「うん」
いるかが写真を一枚取り出す。
「ひとつ奇妙な部分がありまして……」
「うん。どれどれ……?」
「ここなんですが……」
いるかは写真を指さす。
いるかの言う奇妙な点。それは、事故現場の崩壊したトラックや被害者――ではなく、その奥に写る街路樹。――不自然なことに、その木の上には、大型のトランクが乗っていたのだ。
「ね?奇妙でしょう?」
「…………」
黒舘さんはいきなり沈黙し、顎を指でさすり、何かを考えているようだった。
そして決心したようにソファーを立ち上がり、私といるかに向かって、言った。
「情報提供ありがとう。おかげで証拠が見つかったよ」
「あ、はい……え⁉」
「それってどういう……」
すると黒舘さんは、にこっと口角を上げた。
「これでパズルが完成した」
事務所に来てから十五分。
私が知っている中で史上最短時間記録だった。
3
一週間後の晩。私といるか、そして飛鳥は、黒舘さんに学校の校庭に来るよう呼ばれた。
「ちゃんと好調の許可取ってあるから」
はたして近所に住むアニメオタクの全身真っ黒不審者に、学校の校長が何の許可を出したのかはなはだ疑問であったが、一応行ってみることにした。
「え……何……これ」
約束の校庭に行くと、そこには人間の身長くらいあるスポットライトや撮影器具、スピーカーなどの何に使うのかよくわからない重機がごろごろ転がっていた。そして最も奇妙だったのは、スポットライトで照らされた上空に、電線のようなロープが見えたのだ。目を凝らすとそのワイヤーは中学校舎と高校校舎を繋いでおり、その直下にはマットが敷かれており、地上では物々しい雰囲気でそれらを見上げる人影があった。その人たちはみなスーツをピシッと着こなした、いかにも堅そうな性格のようだった。
「一体何分待たせるつもりですかね」
「やはり来るべきではなかったのでは」
そんな囁き声が聞こえた。
私たちはその様子を、校舎裏の校門前から眺めていた。
『では、これから事件の種明かしを致します』
機械を通したようなどでかい声が、スピーカーから発された。見るとスポットライトに照らされた高校校舎の屋上から、黒舘さんが小型マイクを持って身を乗り出していた。
下で見ている大人たちの舌打ちが聞こえた。
――嫌な感じだな……。
将来はみなあんな感じになってしまうのだろうか。そう思っていると、そんなこととは無縁な人物の声が聞こえた。
『こちらをご覧ください』
黒舘さんは、自分の後ろにいる人物を示した。
――誰だ?
小柄で、どうやらドレスを着ているようである。そしてその頭部。――暗闇から、ショートカットの銀髪が浮かび上がって来た。
「あ……もしかしてあの子、
「あ……本当だ」
飛鳥といるかが言った。
確かにあのシルエットは、
双葉ちゃんは他クラスの同級生で、十三歳足らずにしてサーカスの重役を務めている。普段は短髪の地味な女の子だが、あのカツラを被りステージに出ると、人が変わったように軽やかな動きを見せてくれるのだ。
――双葉ちゃんがなぜここに……?
では、ここにある照明器具なども、彼女の……?
『では始めます!……では双葉君よろしく』
「…………」
黒舘さんの調子に乗った物言いに、双葉ちゃんはわざと冷たく頷くと何か黒い塊を取り出し、私たちに見せた。
「何だあれ……」
ここからではよく判らなかった。
『今双葉君が手に持っているのは、特殊なワイヤーです。これを使って犯人は犯行に及んだんです』
「犯人って誰だね」
少々声を張り上げてスーツ姿のひとりが言った。ほかの大人は可笑しそうにニタニタしていた。
『まぁ見ていたら判りますよ』
黒舘さんもタフだった。その言葉を聞いて気に入らなそうな顔をする堅物大人がいた。
――判り易いなぁ……。
もう一度視線を屋上に戻す。――と、転木双葉はいきなりワイヤーを真向いの中学校舎屋上に投げた。
「何やっているんだ……?」
放たれたワイヤーはやがて向かい屋上の柵に引っ掛かった。おそらくカギのようなものが付いていたのだろう。――幸いワイヤーは白かったので、この距離でも肉眼でその姿を捉えることが出来た。
『犯人はこうやって縄を投げ、道を作ったんです』
「み……道?」
「まさか……」
いるかが何かを察したようだった。
『では』
すると双葉ちゃんはそのワイヤーの上に足を掛けた。そして石橋を叩くように何かを確認すると、そのワイヤーに両足を乗せた!
「あ!」
「危ない!」
大人たちが叫んだ。
「こういうときだけ偽善ぶるのね……」
と言いつつも内心私はひやひやしていた。
――双葉ちゃんなら大丈夫だと思うけど……。
すると双葉ちゃんは靴の辺りを触り、チェーンのようなもので脚とワイヤーを接続した。
そして――。
双葉ちゃんは、走り出した。――その斜めに傾いた細すぎる坂を。
『…………』
一同が息を呑んだ。
『いわば綱渡りですね』
と、黒舘さんは言った。
『『彼ら』は高低差の激しいビルの屋上間で綱渡りをすることに、スリルを求めたのでしょう』
「…………」
そうか。そういうことか。
極端な高所で綱渡りをすることに快感を覚える人間はそう少なくない。私はその前例を知っていた。
「これが空を歩く人の正体……?」
「なるほど」
飛鳥といるかも納得いったようだった。
『戻ることもできますよ』
と、彼はマイクとスピーカーを通してそう得意げに言った。
双葉ちゃんが向こう校舎に着いたのを確認すると、黒舘さんはあらかじめ繋いでおいたもう一本のワイヤーの先にトランクを付け、そのまま真下に落とした。すると井戸の原理で、トランクが下に下がっていくのと同時に、双葉ちゃんの身体が高校校舎に向かって空中を移動していった。
『この若気の至りなオアソビの途中で、ワイヤーが切れる事故が起きたのだと思われます』
黒舘さんが言った。
――そうか……あのトラックと衝突した男の人が、これをやっている最中に落ちてしまったわけか……。
もし落ちたのが車でなく固いアスファルトだったとしたら……、そう考えるだけで寒気がした。
――本来、運転手の人には感謝するべきだったのだ。
それを思うと、依然怒りが湧いてくる。
「くだらん」
と声を上げたのはスーツ男だった。
「こんな子供のピタゴラスイッチに付き合ってられるか」
『証拠もあります』
「何?」
男が眉をひそめ、ライトに照らされた屋上を睨んだ。
『トランクです。現場近くの街路樹の上にトランクが落ちていました。今回使ったものと同じ重さのものです』
「誰かがビルの窓から落としたんだろう」
『その真横のビルは全窓開閉不可能な造りになっていました』
「…………」
『それでもまだ反論できますでしょうか?』
双葉ちゃんは屋上に戻り、せかせかとワイヤーやベルトを外していた。ほかのスーツ男たちも帰る支度をしていた。
男はだいぶ長いこと悩み、ついに黒舘さんの耳に直接届くような大声を出して言った。
「検討してやる」
そのときはじめて、彼等が検事であると判った。
4
この事件を解決したことで、良いニュースと悪いニュースが発生することとなった。いいニュースはトラック運転手の無罪が証明され、男がビルへの不法侵入などの罪を自白したこと。――一方悪いニュースは、黒舘さんが校庭で大音量のスピーカーで推理ショーをしたことにより、条例に引っ掛かって罰金を取られたことだ。
「人助けってのは自分が損するな!」
だそうだ。
そして印象的だったこと。
下校の電車内で、飛鳥とこんな会話をしたのだ。
「やーっぱし人は空なんて飛べもしないし歩けもしないのか……」
私が詰まらなさそうに言うと、
「それは欲張りすぎというものだ。ただでさえ威張って生きているのに翼まで要求するのは」
「そうかなぁ……」
頬杖をつく私に、「それに――」と飛鳥は付け加えた。
「ボクたちには、空を飛べなくても世界を羽ばたくことの出来る、透明な翼があるんだし」
「…………そうだね」
決して上手くはなかったし、唐突にも程があるほど背伸びした飛鳥の言葉だったが、――それでも、その時の私は、なぜかそれに深く納得してしまっていたようなのである。
鳥類でも、飛べない鳥はいる。哺乳類でも、羽があるものもいる。
それでも、それぞれに命があり、またそれがひとつしかない事にも変わりはない。
できないことを悔やんでいないで、出来ることこそ伸ばしていこう。
そう綺麗に話をまとめようとした、そのときだった。
「ねぇ……」
「ん?何?飛鳥」
すると彼女は恐ろしく憔悴しきった顔で、こう言った。
「……探偵部の原稿の締め切り……今日じゃない?」
「…………――‼」
BAD END
透明な翼 自己満足(みずみ・みちたり) @kvn0210
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