第27話-泣きながら生まれる子どものように

「今日は忙しかったな〜!」

見慣れた学校からの帰り道、夕日がふたりの長い影を作っている。

「ホントだね。年度末の書架整理、キツすぎ……」

図書委員の業務が一年で一番煩雑になる3月の仕事を終えて、オレもヤコもヘトヘトだった。今日はよく眠れそうだ。家に帰ったら早めに風呂に入って眠ろう。

「もうダメ。今日はめっちゃ寝るわ。明日は昼まで寝るわ」

「残念ながら、明日は平日なんだよねえ」

「そもそも、曜日で休みかどうか決めるのっておかしいよな。疲れ度合いみたいなものを測定して、疲れの量次第で休みかどうか決めてくれないと。それなら間違いなく明日は休みだよ」

そんな面倒なぼやきに対してヤコは、フフ、と短く笑った。

ずいぶん、砕けた会話ができるようになった、と思う。ヤコは意識的にオレとの距離感をコントロールしているようだから、元々のような活発な会話にはならない。だけど、拒絶された直後のぎこちない会話からは無事に抜け出すことができた。

一緒にいるときのヤコの表情は少しずつ穏やかになっていき、身体を突き刺すような鋭い目つきも、感じることはなくなった。

昔一緒に帰ったときみたいに、お互いがたくさん喋る軽妙なやり取りにはならないけれど、これはこれで居心地が悪くない。オレが何事かを時々話しかけて、ヤコがポツリと返事をする。穏やかな夕方だった。


「今日、数学の先生が元気がなかったのは夫婦喧嘩のせいだと思う。服にアイロンかかってなかったし」

「こないだ財布落として現金取られてしまって最悪だった。オレが悪いのではなくなくなる財布が悪い。テクノロジーの力でなくならない財布を作って欲しい」

「あの小説家の才能は枯渇してしまったと思うんだよね。新作が最悪だったから」


そんな思いつきの話題をチョコチョコ話し、ヤコがそれにコメントをつけていく。バッティングピッチャーの気分だった。ヤコにひたすらボールを投げていき、ヤコはひとつずつ打ち返していく。

話題が思いつかなくてボールを投げられないときは、おとなしくしばらく黙って歩いた。ぎこちなかった時と違い、沈黙も悪くない。ゆっくり歩きながら、道に落ちた彼女の長い影や、風に揺れる黒い髪や、歩調に合わせて上下するスカートの裾を眺めていた。


「ねえ」

あまりにも唐突で、でもはっきりした声。先ほどまでの会話との異質さに、声の源を一瞬見失った。何事かと思いヤコを見ると、彼女はいつの間にか立ち止まっていた。

ヤコの黒い大きな瞳が、こちらを見ている。また、あの目だ。ブラックホールのような、吸い込まれてしまいそうな、覗き込むものは誰もが本能的に恐れを抱くような。

「どうして、いつまでも私にこだわるの?あんなにひどいことを言って、キミを拒絶して、傷つけて。ひとりで生きていくなんて強がっている面倒な女を、ほうっておけばいいじゃない」

彼女の声は、後半になるほど、震えていた。

「ほうっておけばいい」という言葉と裏腹に、彼女の震えた声には、孤独への恐怖が宿っている気がした。先ほどまでの他愛ないバッティング練習と違う、生々しい感情が宿る言葉。

「ちゃんと自分から言えたこと、一回もなかったから、言うけどさ」

オレは妙に冷静に前置きを口にした。いつか、こんな日が来ると思っていた。ヤコの表情が徐々に穏やかになっていく内に、装甲が剥がれていく内に、いつかむき出しの彼女がまた出てくると思っていた。

だから時々、考えていた。また彼女が真っ黒な瞳でオレをじっと見るとき、何を語ればいいのか。何から語ればいいのか。

考えて出る結論は、いつも同じだった。あの日──埃っぽい図書室でヤコとイスを並べてポップを書いた日。自分の中の嫌悪感に耐えられずイスを少しずらした日。ヤコの直球の質問に答えられず、一言も発せられなかった日。逸らさないと誓った目線を、逸らしてしまった日。黙っているオレを置いて、ヤコが気丈に振る舞いながら出ていった日。立ち去るヤコの背中を、黙って見送った日。想像の中で、ヤコが泣いていた日。──あの日に、ヤコの質問に答える形で言ってしまった気持ちを、改めて伝えなければならない。

「オレ、ヤコのこと、好きなんだ」

真っ直ぐ、ヤコの目を見る。ブラックホールみたいな瞳に、恐れは抱かない。

あの日完遂できなかった使命を、やり遂げよう。今日こそ、目は逸らさない。

「ヤコが処女の頃も、非処女になってからも、ずっと好きなんだ。ヤコのそばにいたいよ」

「私、あんなにひどいこと言ったのに?」

「ちょっとは落ち込んだけどね。でも、大事なのはヤコがどう言うかじゃなくて、オレがヤコを好きかどうかだから」

薄紅色の、唇を噛む。何かを我慢しているみたいに。彼女は、ちょっとたじろいでいるみたいに見えた。感情の見えないブラックホールみたいな瞳が、揺らいでいる。

「ヤコが非処女になってからしばらくの期間が、ホントにツラかったんだ。オレはヤコのことが好きなままなのに、身体は嫌悪感をおぼえてしまって、心と身体がバラバラで、オレがオレじゃなくなったみたいだった」

ありきたりな表現でもいい。素直な気持ちを、一言一言、大切に言っていく。思いを伝えるチャンスは、案外少ないものだから。

「触角を失って、嫌悪感がなくなって、めちゃくちゃ嬉しかったよ。オレが帰ってきた!って。自分を取り戻せた!って思った。ヤコを好きでいられることが、心から嬉しかった」

ずいぶん恥ずかしいことを語っている気がするけど、不思議と心はとても穏やかだった。照れも緊張もなく、スムーズに言葉が出てくる。ヤコは対照的に、動揺しているみたいだ。唇を噛む力が強くなっている。

「もし、ヤコに振られたら、それはめちゃくちゃ悲しいことだけど、好きでいられなくなることよりよっぽどいいな、って感じ。だから、まあ完全に振られるまでは色々やってみようかな、と思って、今も懲りずにヤコのそばにいるよ。できれば、ずっと一緒にいたい」

ヤコは、何度かまばたきをした。沈黙。言おうとしたことを少しだけ躊躇したみたいだ。数瞬の逡巡の後に、ゆっくり、口が動き出す。

「じゃあ、私のこと、抱けるの?」

あの日の、埃っぽい図書室が蘇る。答えられないまま、ヤコを行かせてしまった苦い記憶。先ほど、オレが見ていた”あの日”の図書室の光景を、ヤコも見ていたのかもしれない。

埃っぽい図書室の中で、時が止まっていた。あの日からずっと、答えられずにいた。何も言えずに彼女を見送ったことを、繰り返し後悔した。でもどれほど後悔して考えても、答えは見つけられなかった。当たり前だ。探しても出てくるはずがない。答えなんて、なかったんだから。絶望の真実か、希望の欺瞞か、どちらかを口にすることしかできなかった。そして、どちらも口にすることはできなかった。

事実上、回答不可能となった二択問題を目の前にして、発狂して風車に挑んでいく男の気持ちだった。そこには勝ち目もなく、ゴールもない。挑んでしまった時点で、虚無が約束されている強敵。

勝つ見込みは、なかった。嫌悪感が消える保証もないのに、触角を切り落とした。地獄の痛みだった。ハサミでは切れなかった。ナタを振り下ろしてもまだ触角がつながっていた。ようやく片方を切り落としたときにはほとんど意識を失っていた。無限に続くかと思われる痛み。しかもそれを耐えるだけではない、自ら生み出し続けなければならない地獄。もう考えたくもない、おぞましい経験だった。だけど、オレは自らその地獄を選択した。

全ては、この一言を言うために。

「抱けるよ」

ヤコは、黙ってこちらを見ていた。先ほどよりも少し細くなった目。一分のスキもなく威圧してきた真っ黒な瞳には、ほころびが生まれた。

何度か、ヤコがまばたきをする。長いまつげが、繰り返し上下した。

夕方の住宅街は静かで、車が走る音もほとんど聞こえない。聞こえるのはかすかな風の音だけで、まるで世界からふたりだけが取り残されたみたいだった。

スカーフが風に揺れる。肩がわずかに震える。ヤコの鋭い眼差しは、徐々に弛緩していった。重力に引っ張られるみたいに、まぶたが下りていく。

そして、目からは大粒の涙。

ヤコは、泣いた。幼い少女みたいに声をあげて泣いた。夕方の住宅街、灰色のアスファルトに黄金色の光が落ちている。無音の世界で、ヤコの泣き声だけが鮮明に響く。

何かに突き動かされるようにオレは、彼女に近づいた。細い肩に、手を回す。そのまま抱き寄せると、彼女の身体が両腕に収まった。

泣き声が、身体の震えが、涙の熱が、全身から伝わってきた。ガラスみたいに華奢な彼女の身体は、咆哮を上げていた。細い身体のどこから、これほどのエネルギーが湧いてくるのだろう。

悲しい咆哮だった。彼女は、やり場のない絶望を抱えながら、ずっと我慢してきたのだろう。孤独な一生を送ることを覚悟して、その一生を受け入れようと決めたのだろう。

だけど、その決意にはどれだけの悲しさがあったか。彼女は、ずっと泣いていたに違いない。いつも心では泣いていたのに、涙は心の奥底に隠して、平気なフリをしていたに違いない。

この涙は、彼女が隠し続けてきた涙だ。何ヶ月もずっと、心の奥底に隠し続けてきた涙だ。だから、枯れることはない。泣いても泣いても、なくならない。


生まれたばかりの赤ん坊みたいに大声で泣くヤコを全身で感じながら、彼女の肩を抱く手に力をこめた。

荒く乱れた呼吸も、呼吸に合わせて揺れる肩も、身体を伝わる泣き声も、全てしっかり吸収してあげたかった。

ザラザラした制服の布の手触り、制服越しに伝わってくる体温、首筋で感じる涙の熱さ。全てが愛おしかった。


何か言葉をかけようかと思ったけど、やめた。このまま、いくらでも泣けばいい。

赤ん坊は、泣きながら生まれてくる。ヤコも今、新たな一生のスタートを切ろうとしている。かつて覚悟した孤独な一生ではない、誰かと歩むことができる一生だ。

彼女は、もう一度生きるために、泣いていた。

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