第19話-でも、生きていかなきゃならないから。

「と、大体そんな感じかな。あとはキミも知っての通り。その日は悔しさとか悲しさで一睡もできずに、翌日はひどい顔で学校に行ったよ」

一気に話しきったヤコは、そこで大きく息を吐いた。

オレは、なんと言葉をかければいいのか分からなかった。


きっと、ヤコには深い絶望があっただろう。見知らぬ相手ではなく、心を許していた先輩にレイプされる苦しみは、オレの想像の範疇を超えるだろう。

「大変だったね……」

そんな、当たり前の声かけしかできない。


「うん、まあ、そうだね。正直こたえたし、ずっと悔しさでいっぱいだよ」

ヤコの顔を見る。痩せたな、と思う。ヤコは元からかなり華奢な体格だったから目立たないけど、間違いなく痩せている。

顔色は、以前にもまして青白い。彼女の心の傷が、肉体にも大きな影響を与えていることがはっきり見て取れた。

「その、足尾さんの責任を追求したり、復讐したりしようって、思ったりするか?」

「……ううん、全然。いいよ。もう彼とは関わらずに生きていく」

「そこは、割り切れてるんだ」

「うん、っていうか、別に足尾さんに復讐しても何も解決しないからね。次の被害者が出そう、とかであればそれを食い止めるためにも色々やるけど、足尾さんの今回のは実験だったワケで、同じことを繰り返すとは思えないし」

言葉通り、ヤコの語り口には怒りは滲んでいなかった。代わりにあったのは、深い悲しみだけ。

ヤコの様子を見ていると、聞き手であるオレも、怒りは抱けなかった。「足尾さんを殴りに行こう」なんて、ヒットソングで歌われるような青春っぽい行動は頭をよぎりすらしない。


風が吹く。落ち葉が足元でカサカサと音をたてる。

オレとヤコの2つの影が、枯れ葉の絨毯に長く伸びていた。もう、日が暮れようとしている。

「ヤコは、今どう思っているの?」

「うーん、正直、参ったなと思ってるよ。とりあえずまっとうな結婚をしたり家庭を築いたりするのは不可能そうだし、それどころか、まっとうな職につくのも難しそうだなって、ここ二ヶ月のクラスメイトたちの反応で痛感したから」

「これからどうやって生きていきたいとか、考えてる?」

「卒業したら物書きとして生きていきたいなって、ぼんやり思ってる。未婚で非処女になった私に、世間からの風当たりが強いのはよく分かったから、世間にうまく合わせなきゃいけない暮らしはキツいなって思って」

「物書き……か」

「物書きじゃなくてもいいんだけどね。和を第一とするような仕事は多分できないから、実力さえあれば何も言われない、ハンターみたいな仕事をしたいなって思ってる」

「大学には、行かないの?」

「行かなくてもいいなって思い始めたところ。大学に行っても、非処女であることの息苦しさを感じ続けるだけで、全然楽しくなさそうだから」

何ヶ月か前、ヤコと進路の話をしたときのことを思い出す。ヤコは、名門大学の文学部に行きたいと語った。その大学には、世界トップクラスの近代文学評論の教授がいた。ヤコはこの教授の大ファンで、著作を全部読んだとか言っていた。

──ヤコの夢は、あっさり終わったのだ。

自身の才能とか努力とか、そんなものは全く関係ない外的要因によって、終わらされたのだ。

「それって、悲しくないか。行きたい大学、あるって言ってただろ?」

「悲しいよ。悲しいに決まってるじゃない。でも、生きていかなきゃならないから。今ある選択肢の中で、精一杯生きていくしかないから」

オレの質問が終わるか終わらないかの内に返ってきたヤコの回答は、強い意志を感じさせた。恐らく、この二ヶ月の間でヤコも何度も何度も自問自答を繰り返してきたんだろう。強い意志の宿った目には、少し涙が浮かんでいる。彼女は、涙を振り切って強い決意を固めてきたんだろう。

「色んな悲しい諦めを、覚悟してるんだね」

「うん。でもね、一番ツラいのは大学に行けないとか、仕事を選びにくいとか、そんなことじゃないんだよ」

「一番ツラいのは、結婚ができないこと?」

「うん。キャラに合わないって笑う?」

「まさか」

「私ね、”最高の家庭を作る”っていうのが一番の夢だったかもしれないんだよね。恥ずかしいから、あんまり話したことなかったけど」

「確かに、あんまり聞いたことないね」

「大好きな旦那さんと一緒になって、一緒に子どもに本を読み聞かせたり、休みの日には皆でちょっと遠出して遊んだり、些細なことで家族全員で笑ったり……そんな家庭を作りたかったんだ。ベタベタな幸せ像で、恥ずかしいけど」

「いや、よく分かるよ」

「だから、それができなくなったのが一番ツラいかな。足尾さんの子どもを生んでも、私だけで育てないといけないんだなって……」

少しだけ涙が滲んでいたヤコの目から、とうとう涙がこぼれ出した。


ヤコのことを、強く抱きしめたいと思った。この女の子は、その身体に、これからの一生に、あまりにも大きな十字架を背負ってしまった。彼女の悲しみに、寄り添いたいと思った。

だけど、抱きしめられない。湧き上がる生理的な嫌悪感が、これ以上彼女に近づけなくさせている。正直、この距離で会話をするだけでもいっぱいいっぱいだ。

彼女を抱きしめられないのがホントウに悔しい。言葉では、彼女の悲しみにはとても寄り添えない。

「ごめんね。こんな、どうしようもない話して困らせちゃって。おかしいな、もう踏ん切りがついたはずだったのに。キミには、冷静に話そうと思っていたのに……」

泣き始めたら、あっという間だ。ヤコの黒い瞳から白い頬へ、次々に涙が流れていく。細い肩が、わずかに震えている。

この細い肩で、驚異的な重荷に耐えてきたんだ。この細い身体で、心ないクラスメイトからのからかいに、毅然とした態度を取り続けてきたんだ。

ヤコの涙を見たことなど、今まで一度もなかった。強い意志の力で、ずっと気丈に振る舞い続けてきたんだ。


「ヤコ、もう大丈夫だよ」

自然に、そんな言葉が口をついて出た。ヤコの強い意志に触れて、オレの意志も固まった。彼女を抱きしめられないもどかしさはツラいけど、それはもうこの瞬間限りだ。

「何? キミらしくないね。何の根拠もない慰めなんて」

「いや、もう大丈夫だ。ヤコは幸せになれるよ」

「変なの。キミらしくないってば。そんな熱血キャラじゃなかったでしょ、お互い」

「熱血キャラ、か。案外、オレはそっちなのかも」

突然、柄にもないことを言い出したオレに、ヤコは困惑を隠せないでいる。彼女に構わず、オレは言葉を続けた。

「ヤコ、話しにくかったこともあるだろうけど、全部話してくれてありがとう。ヤコの思ってることを聞けて、ホントウに良かった。オレも、お陰で前に進める感じがする」

「ねえ、ホントにどうしちゃったの?」

「いや、なんでもないよ。気にしないで」

ヤコは、オレの意図がさっぱり分からないという顔をしていた。無理もない。だけど、説明もできない。

だから、オレは少々唐突だと思いながらも、会話を切り上げることにした。

「ヤコ、ホントに今日はありがとう。そして、悪いけどオレはもう行かなきゃいけない。本当はヤコの涙が落ち着くまで、隣にいたいんだけどさ」

そう言いながら、立ち上がる。もう覚悟は決まったから、彼女を抱きしめられないもどかしさをこれ以上味わう必要はない。

「じゃあね。また明日!」

困惑しながら、何か言いたげなヤコに、手を振りながら立ち去る。こんな打ち切り方をして申し訳ないなと思ったけど、しかたない。

決心が鈍らないうちに行動したかったし、オレが考えていることをヤコに説明するわけにはいかなかったのだから。


公園を吹き抜ける風が気持ちいい。秋の匂いがする。真っ赤な夕日が目に染みる。ああ、こんなに気分がいいのは久しぶりだ。

歩く速度がもどかしく思えて、気づけばオレは走り出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る