第14話 少女の季節の終わり

頻度錯誤、という認知バイアスがある。

ある言葉を新しく覚えた途端、そこら中で目につくようになるアレのことだ。

ちゃんと認識してしまうと、今までスルーしていたものをスルーできなくなるということは、よく知られている。


気づけば私は、足尾さんについての噂話をスルーできなくなっていた。クラスの女子が話す内容は気になるし、足尾さんの話が聞こえてくるとドキッとしてしまう。

それでも、急に「私も足尾さんのこと気になってきちゃった☆」などと簡単に身代わりできるほど素直な女でもない。クラスメイトの女子達には、今まで通り「噂話などには興味がない」というサインを出し続けていた。


そんな私の心境を知らない足尾さんは、時折廊下ですれ違う度に「よっ!ヤコちゃん!最近調子どう?」だの、「また今度図書室行くね!」だのと声をかけてきた。

私もテキトウに笑顔で対応するのだけれど、そんな場面を眺めるクラスメイトの視線が痛い。

足尾さんが見えなくなったらすぐに「何?どういう関係なの?」とか「あんた、興味ないって言ってたじゃないの」とか、問い詰められることになった。


結局、足尾さんの卒業まで一年近くの間、そんな日々が続いた。あの日以来、私と足尾さんが図書室で一緒になることはなかったし、それ以上に深い仲になることもなかった。

私と足尾さんの関係を示す言葉は「知り合い」であり続けたと思う。

たまに通学路で一緒になって、世間話をしながら歩いたり、廊下で会った時に本の話をしたり。「友だち」と言うにはちょっと遠い関係。

だけど、それはあくまで双方向的な両者の関係を表す言葉である。私から足尾さんに抱く一方的な感情に関しては、少し違ったものがあった。

憧れ、という言葉がふさわしいのだろう。少女期の、誰にでもある、遠い存在への憧れ。恋心とまでは言えない、淡い淡い感覚。


時々、足尾さんがサッカーの練習をしているグラウンドの横を歩きながら、グラウンドに目をやった。

彼はいつも楽しそうにサッカーをしていた。攻撃的ミッドフィルダーのポジションを定位置にする彼は、相手のディフェンダーをドリブルでかいくぐるのが得意だった。選手と選手の間を、すごい速さで走り抜けていく。

サッカーのプレイスタイルも、他者に与える印象も、嵐のようだ。

彼がサッカーをするところを見たり、チームメイトと笑い合っているところを見たり、廊下で話しかけられたりする度に、私の心臓は高鳴った。

そして、彼が交際相手と肩を並べているところを見る度に、少しだけ胸が痛んだ。

──その度、「初恋」という言葉が頭をよぎる。皆が初恋を語る上で頻出する、あまりにもベタな経験の数々が、私にも訪れていた。

けれど、だから何をするということもない。ただ、この曖昧な淡い思いを抱いて過ごすだけ。少女の季節の感傷は、少女の季節が終わると過ぎ去っていくものだから。


卒業式が終わった後、足尾さんに、卒業アルバムを渡された。

「ヤコちゃんも、何か書いてよ。残ったスペースが少なくて悪いけど」

彼の卒業アルバムの最後の寄せ書きページは、その持ち主へ宛てられた大量の卒業コメントが限界まで並んでいた。スペースが「少ない」どころではない。「ない」と言った方が正確だった。

しばらく探して、妥協の末に書く場所を決めた。両隣の人のメッセージと混ざってしまう場所だけど、違う色で書けばどうにかなるだろう。

三色ボールペンの青を出しながら、ふと考える。

──私は、彼にどんな言葉を送ればよいのか。

まさか「好きでした」と書くワケにはいかない。「憧れていました」ならギリギリ許されるだろうか。でも、それも私らしくはない。

どうせなら、私らしい文章が書きたい。とても短い文章しか書けないスペースだけど、アルバムを見返した時に私を思い出してもらえるような、そんな文章が書きたい。

結局、私はこう書いた。


「あの日の図書室を、忘れません。」


前か後ろに「ご卒業おめでとうございます」と付け加えようかと思ったけど、やめることにした。スペースも少なかったし、ない方が私らしいと思った。それに、私の少女の感傷がよく表現されている。

卒業アルバムを渡すと、足尾さんは「ヤコちゃんらしいね」と笑った。

いつもは制服を着崩している彼だったが、今日は完璧に正しく着ている。ワイシャツは第一ボタンまでちゃんと止められていて、糊のきいた襟はしっかり立っている。

見慣れない、格式張った制服姿が、彼はこれから遠くに行ってしまうということを強く意識させた。

もう、一生彼と会うことはないかもしれない。悲しさを抱えながら、それでも笑顔を絶やさずに会話をした。最後の足尾さんとの会話は、笑顔で飾らなければ。

彼の冗談には上手に笑い、私からも意表をついた返しをする。笑いに包まれた、彼との最後の数分間。

「ヤコちゃんと時々話せて、ホントに楽しかったよ。ありがとう」

友だちに呼ばれて会話を切り上げる彼は最後に、そんな感謝の言葉を残した。ずっと笑顔を浮かべていた私も、これには泣きそうになってしまう。

「私も楽しかったです。ありがとうございました」

普通の返答。気の利いた答えなんて出てこない。最後の一言は、涙をこらえるのが精一杯だった。


卒業式の後、家に帰って、自分だけの部屋で、少し泣いた。

足尾さんの最後の一言が、私の頭の中で何度も繰り返し響いていた。

──ズルいなあ。いつも軽薄で、少年みたいだったのに、最後にあんな真剣な表情を見せるなんて。

少し泣いて、でも、足尾さんのギャップが少しおかしい気持ちもあって、涙と笑いがごちゃごちゃになった、不思議な感情でいっぱいだった。

明日から、また明日からいつもの私に戻るから、今日はこの形容しがたい感情に飲まれていよう。

この日の夜は、いつまでも眠れなかったのを覚えている。


かくして、少女の季節の感傷は終わった。

また新しい、春が来る。

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