逃走―IV

 バイクは朽ちた空き家の前で止まり、私達が降りるとサイドカーが側面に小さく格納されていった。さっきまで体を預けていた椅子がエアークッションだったのだと、このときようやく気付いた。


「ここ、本当に安全なの?」


 私の問いに彼は、


「まあ、いつかはバレるだろうさ」


 あっさりと否定した。


「俺は野暮用で何度か島に来ているが、絶対にバレない隠れ家ってのをずっと考えていた。けれどそんなものは不可能なんだ。どんなトリックにも綻びが出るし、時間もコストもかかり過ぎる。だから発想を変えた」


「使い捨てって事か」


 ミラの言葉にデルタが頷く。

 ステルスドローンもそうだし、島のネットワークに繋がらない事もそうだ。移動はバイクで、荷物は殆ど無い。身軽に、素早く、いつでも逃げられるように。強固なセキュリティであるほど、それは難しくなる。「肉を切らせて骨を断つ」とは、かつての偉人は上手い言葉を考えたものだ。


「橋の封鎖が解かれるまで待とう。その間はお互いの疑念を晴らそう。俺も確認したい事がいくつもある」


「それじゃあ、こっちから訊いていいか」


 ミラが煙草ガラム・スーリヤに火を点け、大きく煙を吐き出しながら尋ねる。


「あんた、何者だ?」


「それに答えるには、こっちも確認しなければならない事がある」


「なんだよ」


「お前たちの名前は?」


 考えてみれば、ごく自然な質問だ。私達はまだ名を名乗っていない。そうしなくともメタトロン経由でパーソナルデータは参照出来るが、先刻言われたように彼と私達とではネットワークの所在が異なる。昔ながらの自己紹介という儀式が必要となる。


「私はミラ。この子がファイ。そんでそこの少年がサンだ」


 私の腕から離れたサンは、どこから見つけてきたのか、薄汚れたジグソーパズルで遊んでいる。


「……なるほど。理解した」


「で、あんたの回答は?」


「俺はデルタ。本土で達を支援している。ここは随分前から管理から外されたが、時々忍び込んでいた」


「で、私達を見つけたと」


「そのとおり、この出会いは偶然だ。さて、今度は俺の番だ」


 デルタは目を伏せて煙草の火種を眺めるミラをじっと見つめた。沈黙に疑問を覚えたのか、もしくは視線を感じたのか、彼女はふと顔を上げた。


「ミラだったな。お前の記憶領域を見させてくれ」


「どうしてだよ」


 露骨に嫌そうな表情をし、ミラは煙草を咥え直す。


「覗いても何もねぇよ。全部欠損しちまったからな」


「それでも良い。実際にこの目で見るという行為が大切なんだ」


「ならせめて目的を教えろよ」


「それは……」


 ここまで淀みなく答えてきたデルタが、初めて言葉を詰まらせた。

 僅かな沈黙の後、彼は真っ直ぐな顔つきで答えた。


「答えられない」


「どうしても、か」


「聞けばきっと、聞かなければ良かったと後悔する」


「私の記憶を覗くのは、誰の為だ?」


「お前の為だ」


 嘘はついていない。そもそもレプリカントは嘘をつけないのだから当然だけれど。しかし間違いなく真実だ。

 ミラもそれは重々承知だろう。煙草を黒ずんだ土とフローリングのミックスに押し付け、姿勢を正した。

 デルタが手を伸ばす。安定した通信を行うには、ことさら内部データをいじくるには、非接触よりも接触型の通信が好まれる。

 彼女の頬に触れようとしたその瞬間、ミラの右手が動いた。


 ばしん。鈍く響いた音に、デルタは勿論、私もサンも、そしてミラ自身も驚いていた。

 私が原因不明の暴走を起こし、頸部を締め付けられたとしても怒らなかったミラが、初めて拒絶の意思を示した。


「あ……悪い。そんなつもりじゃ」


 彼女は手を引っ込めて、叩いた手の甲をさする。デルタはそんな彼女の姿を見て、何かを確信したようだった。


「ああ、分かったよ。すまなかった」


 含みのある言い方だったが、私達にはその真意を訊く権利など無かった。

 入れ替わるように煙草アメリカンスピリットに火を点ける彼の横顔が、今にも泣き出しそうなほどに傷んで見えた。

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