その三
その三
木更津駅のホーム。
特急さざなみ君津行きが、内房線のホームに停車した。東京駅から約一時間。比較的短時間と言えば短時間なのだが、、、。
ドアが開くと、駅員さんに手伝ってもらいながら、杉三と、ちょっと疲れた顔をした水穂が電車を降りてきた。
「あー、つっかれたー。もう、東京駅はすげえ人だな。もう、人垣どころか軍隊蟻の行進みたいやあ。」
「ほんとだね。」
こればっかりは、水穂もその通りだと思った。たぶん東京駅を上空から撮影すれば、そのように見えることだろう。
同時に乗客の乗り降りは終わって、電車は次の駅に向かって走り出して行った。
「水穂さん疲れてない?」
杉三がそう聞くと、
「さすがにね。あんなけたたましいところは正直疲れるよ。」
水穂も正直に答えを出した。
「じゃあ、教授が言った通り、ホテルに行って休ませてもらう?」
「いや、チェックインには、まだ二時間以上あるよ。あんまり早くいくと、変な客と思われるから、よしたほうが。」
駅の時計を見ると、まだお昼を過ぎたばかりだった。
「じゃあ、どうする?木更津の周りでも歩いてみるか?でも、その顔だと、歩くというより、どっかへ座って休みたいというのが、見え見えな顔だよね。」
「あ、ごめん。どこかカフェテリアでも入れればそれでいいよ。」
といっても、カフェテリアは、お昼を食べている人たちでごった返しているだろうと思われる時間だった。それでは、座るどころか、立って長い時間待たされそうで、よけいに疲れてしまいそうである。
「よし、それなら。」
と、杉三が、降りたホームの反対側の路線に止まっている電車を指さした。
「この空っぽ電車で休ませてもらおうぜ。」
正確に言うと、電車ではなく、上部に架線がないので、気動車、略してキハだった。もちろん、杉三にはそんな区別はつかないけれど。
「これって、お休みしているのかな。お客さんが一人もいない。」
「いや、ちゃんと久留里線と書いてあるし、時刻表も設置されている。だから、ちゃんとした電車だと思うけど、、、。」
「切符はどうするんだろ。」
「たぶん、岳南電車と同じようなやり方で、車内精算するか、降りるときに運賃箱に入れるんだと思う。」
「へえ、そんなシステムが東京近くであるなんてめっずらしい。よし、乗ろう!」
杉三は、どんどんその電車に近づいていく。水穂も急いでそのあとを追いかけた。
「ドアが開いてない。どうやって乗るんだ。」
でかい声でそういうと、電車の中から運転手が出てきて、ドアの開閉ボタンを押してくれた。
「お、悪いねえ。ていうか、ドアは開けっ放しじゃない電車なんて、相当珍しいな。さっき乗ってきた、さざなみ電車と比べるとえらい違いだ。」
「はいはい。皆さんそう言いますよ。比べ物にならないって。」
運転手はそういって、手早く杉三を電車の中へ入れてくれた。どっちにしろ、一両しかないので、なんとなくかわいい電車という印象を与える。
「あと10分程度したら発車しますからね。あと、上総亀山行きは、これでしばらくでなくなるから気を付けてちょうだいよ。」
「あ。なるほど。じゃあ、上総亀山からこちらに来る電車は、次は何時になるんですか?」
水穂が聞くと、
「14時23分までなくなっちゃうの。その間はみんな、久留里駅でおしまいなの。」
と答えが返ってくる。となると、華岡さんの言ったことは本当なんだなと思ってしまった。
「よしわかった。じゃあ、乗っかってみるか。」
運転手さんは、杉三を車いすスペースに連れて行ってくれた。もちろん一両なので、すぐについたのだが。
水穂は、その近くのロングシートに座った。
それにしても、本当に誰も乗ってくる人がおらず、ホームに人はいても、みんな相次いでやってくる内房線のほうに乗ってしまって、この電車に乗ろうとする人は誰もいない。運転手もそれをわかっているようで、ホームに出て煙草を吹かしたりなんかしている。隣であわただしく乗り降りしている人たちを見る風景は、なんだか田舎者の特権というような気もして、なんとも言えない不思議な気持ちになった。
「まるで僕らの貸し切り列車みたいだね。」
水穂がそうつぶやくと、
「あんまり静かすぎてちょっと寂しいかもね。」
杉三は外の風景を眺めながら言った。
と、同時にがったん!という音がして、電車が走り出した。ちなみに正確に言うと気動車だから、結構走るときの音量と、振動が大きなことで有名である。この電車もその通りで、結構な音を立てて、線路を走っていた。それは、まるで、動けないお年寄りが、重い腰を上げてゆっくり歩くのと同じような感じで、決して悪気があるわけではないけれど、スピードを楽しむ人には恐ろしく退屈な時間になるかもしれなかった。
車内アナウンスも聞こえてきたが、ほかにしゃべっている乗客がいないので、とてもはっきり聞こえてきた。中年の女性の声で、そこもなんだか、地元のおばさんが、飾らない言葉でしゃべってくれるような優しい感じがする。
とりあえず、最初の駅までは、ところどころに民家が立ち並ぶような風景も見られたが、それ以降は田園風景に変わっていった。
「ベートーベンはこの電車に乗ったら、田園交響曲よりもっとすごいものを書きそうだな。」
と、水穂がいうくらいあっぴろげな田園風景が広がる。
確かに、華岡が言う通り、大きな店があるわけでもないし、あるものは水田だけであった。
本当にスピードは遅い。路線バスと大して変わらない。時にじれったくなるほど。
でも、スピードが遅いので、水田を飛んでいる鳥たちが見えた。花も見れたし、トンボみたいな虫たちも見れた。電車の中から、虫が飛んでいるのを目撃するなんて、めったにないだろうが、、、。
さらに駅を進めると、今度は水田もなくなって、森ばかりの風景になり、時折思い出させるように、小さな川が流れるという景色になった。
「すごいなあ、ただのトンネルじゃなくて、木のトンネルだよ。こんなすごいのが、東京からすぐ近くにあるんか。この電車、見える景色が、くるりとひっくり返されるほど違うから、久留里線という名前になったんじゃないのか?」
ちなみに、この辺りは久留里城という城があって、その名を取ってつけられた電車と言われているが、確かに杉三がいうように、くるりとひっくり返すように、都会にはありえない山岳地帯を走るから、と言ったほうが、覚えやすい路線かもしれなかった。
「しいて言えば、電車の音がもう少し小さかったらいいのにね。そうすれば、鳥さんの声も、もっとよく聞こえてくる。」
杉三が言う通り、森に住んでいる、小鳥たちが並走してくる電車なんてそうはないよなあと思う。
「まあでも、いいんじゃないの。鳥さんは、この電車がはしってくるのが、とても楽しいようにも見えるよ。」
水穂はそういうが、音楽家らしく、こう付け加えた。
「僕から見たら、電車の音に、カラスがタクトを振っているように見えるよ。」
うん、電車のガタンゴトンという音に合わせて、カラスがかあかあと声を立てる様は、しいて言えば、オーケストラの打楽器的な要素、ともいえるかもしれない。
「不思議だな。自然に住んでいる鳥さんの声に、こうしてうまく協和して走る電車なんて見たことがなかった。電車が鳥さんと調和するには、このくらいのスピードが一番いいってことも初めて知らされた。新幹線みたいに飛ばしてたら、絶対どこか不一致で面白くないけど、この電車なら、なんか自然の中を走らせてもらっているという気がする。そして、人間よ、あんまり急ぐなよ、と鳥さんが笑っているのも聞こえてくるような気がする。」
まあよく杉ちゃんは、そんな台詞が出てくるもんだと思うが、ほかのお客さんもいないので、水穂はそのままにしていた。
「面白い電車だ。なんか都会の人は、月に一回ここへきて命の洗濯をしたらよさそうだ。」
「ほんとだ。疲れた人が、癒しの場所としても使えそうな電車だよ。」
杉三と水穂はそれぞれそういうことを言い合った。基本的に優等列車がないので、どの電車も各駅停車なのだが、途中駅はすべて無人で、文字通り、乗る人もいなければ降りる人もいない。それを考えると、なんだか寂しい電車でもある。
さらに電車は、山の中を進んだ。途中到着した久留里駅では、駅員さんの姿も確認できたが、やっぱり乗客はいなかった。久留里駅より先はさらに閑散区間になっていき、より深い森の中を進む形になる。線路ぎりぎりまで草ぼうぼう。草刈りをする人がいないんか、と杉三は言ったが、本数が少ないため、草を刈るほうが面倒なのかもしれないと水穂が解説した。でも、草ぼうぼうな線路なんて、絶対都心部では見られない風景だ。富士市に住んでいる蘭も、信じられないというだろう。
「間もなく、終点、上総亀山駅に到着いたします。お降りのお客様は御仕度をお願いいたします。」
あの親切なおばさんのアナウンスが聞こえてきた。
「でよう。もう終点だよ。」
「もう終点かよ。もっと森の中を走っていたかったよ。」
今の言葉、運転手が聞いたら泣いて喜ぶだろうなと水穂も思った。
電車の中を見渡してみると、運転席の近くに運賃箱が設置されていた。その近くに運賃一覧表も張られている。たぶんこれをみて、運賃が何円かを確認して、運賃箱に入れていくという仕組みなのだろう。杉三が運賃の勘定ができないのはわかっているので、水穂は座席から立ち上がり、運賃箱に二人分の運賃を投入した。と、同時にひびが入った、「上総亀山」という駅の看板も見えてくる。修理する人はいないのかと思うが、周りの木々との調和を考えると、立派な看板より、こっちのほうが良いのではないかとも思われた。やがて、電車はまたがったん!と音を立てて止まり、上総亀山駅に到着した。運転手が運転席から出てきて、ドアの開閉ボタンを開けてドアを開け、二人を出してくれた。水穂が、二時の木更津行きで帰りますというと、快く承諾してくれた。まさか電車の運転手に、お待ちしていますという台詞を言われるとは思わなかった。
そのころ。
久留里線で数少ない直営駅である久留里駅では、今西由紀子が駅員として勤務していたが、数分前に携帯電話が鳴って、運転手から、次の電車に二人の乗客が乗っている、と連絡を受けた。もともと真昼間の久留里線に乗客が乗るなんてめったにないことだが、どうせ、観光目的で来た物好きなお年寄りか、電車マニアの鉄道オタクと呼ばれる、カメラを構えた、中年のおじさんだろう、としか予測できなかった。まあでも、電車は一時間に一本しか基本的にないし、久留里以降、上総亀山へ行く電車は大幅に減少するため、駅員業務と言ってもさほどたいしたことはしないのだ。それに、誰もいないホームに向かって、間もなく何番線に、という例の挨拶をしなければならないのは、結構苦痛が伴うが、今日は聞いてくれる人がいるのか、と考えるだけでもうれしかった。実は、久留里駅には発車案内などのテープがないので、すべて人間がしなければならないことになっている。もちろん無人駅でなければの話。
最近はこの久留里線、地元の人からもパー線など呼ばれていて、親しまれているのか馬鹿にされているのか不詳である。パー線の語源はくるくるパーからとられたものらしい。ということはつまりそれだけ乗る人が少ないということだ。このあだ名、地元の人にそう呼ばれるのはまだいいが、遠方から来た観光客にまでそういわれると、ちょっと悔しいなと思ったことがある。駅員として働いている自分には、くるくるパーといういい方はちょっと嫌だなと思う。
ていうか、次の電車にお客さんが乗ってくるよ、なんていう連絡を、個人持ちの携帯電話でしなければならないことも不便。駅員同士の無線もなく、せめて共通のスマートフォンを線内で配布するとか、してくれればいいのに。それをする必要もないほど、乗務員が少ないんだと考え直す。ちなみに、同じく田舎電車と言われる、水郡線に就職した友人でさえも、こんなに不便なシステムはないのではないよと、鼻で笑っていた。
と言っても、次の電車なんて、まだ大幅に時間があるので、すぐにホームに出ることもなく、駅事務室でぼんやりと考え事をするのが通例である。まあ、お客さんといっても、どうせ中年か高齢者だと思うが、せめてどんな顔をしているのかな、だけは興味がある。もしかしたら、どっかの有名な俳優にでも似ている人だったらなあ、なんて考えるけど、まず、それはあり得ない話。そんなことを期待していたら、幻滅すること請け合い。期待をしていたら、よっぱらった中年おじさんが、手を振ってきて、あーあ、またおじさんかとがっかりしたことは何回もある。それに女性の客が乗ってきたことは極めてすくない。いても、高齢の夫婦とかそういう人たち。たぶん、興味がないんだろうな、若い女性なんて。
そうこうしているうちに、電車が到着する五分前になったため、由紀子はホームへ出た。
「間もなく一番線に、上総亀山方面行きが到着いたします。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側までお下がり下さい。」
なんて、誰もいないホームに向かって、マイクでしゃべるのは本当に苦痛というか、馬鹿馬鹿しく感じる。
ガタンゴトンと疲れた音を立てて、電車がやってきた。もちろん一両なのだが、かなり老朽化の進んだ気動車なので、駅に到着するときはいつも、あーあくたびれたぜ、と、語りかけているような気がする。しばらく、電車交換のため、久留里駅で停車することが多いが、周りの景色に調和して、遊泳途中でお昼寝をする、大型の年を取ったクジラのように見えてしまう。
二人のお客さんはどこに?と、由紀子は急いで探してみる。大体、降りるのをスムーズに、とか言って、運賃箱がある運転席のすぐ近くに座る人が多いが、そこにはいなかった。慌ててよく探してみると、後方の車いすスペースに二人はいた。あれれ、車いすのお客さんが久留里線を利用するなんて、何年ぶりだ。もしかしたら、前代未聞ではないか?と思われるほど、見かけたことはない。まあ、車いすのお客さんが、観光に来てはいけないという法律があるわけではないので、そういう時代になったんだなと考え直す。
基本的に、お客さんか運転手がドアを開けないと、ドアは開かないので、この二人、上総亀山駅までいってしまうのか。せめて久留里駅で降りてもらいたかった。基本的に久留里線に乗る人は、大体この久留里駅か、上総亀山駅しか下車せず、途中駅で降りていくことはほとんどない。中には秘境駅大好きで、写真を撮るために途中駅で降りていく、鉄道マニアもいるが、そういう人は、中年のおじさんであることが多い。
「お、駅員がいるぞ。」
電車の中からそう声がした。基本的に電車の中で客がしゃべっている声は、あまり聞こえてこないものであるが、これだけはっきり聞こえてくるわけだから、相当声量のある客なのだろう。運転手さん、いい迷惑では?とも思うが、空っぽ電車よりはいいのではないかと思った。それにしても、この久留里線では、駅員の私がいるだけでも、こんなにでかい声で言われるほどなのね。ほんと、恥ずかしいというか、なんというか、不思議な気持ちだった。
それを聞いて、隣に座っている客が、何か話しているのが見えるが、彼のほうは一般的な客と変わらない声量らしく、何を言っているのかは聞き取れなかった。
その客が、後ろを振り向いたため、由紀子は初めて顔を確認することができたのだが、みたと同時に、晴天の霹靂と言えそうな衝撃が走ってしまった。
「あ、いや、き、きれいな人!」
と叫んでしまうほど、美しい顔の人だ。テレビの俳優さんだったら誰に似てるかな。日本のタレントではかなわないな。外国の、フランス映画にでも出てきそうな、、、。毎日中年鉄道マニアか、高齢者ばかり見ている由紀子にとっては、ものすごい衝撃だったのである。思わず持っていた、旗を落っことしてしまったほどだ。ああ、せめて久留里駅で降りてくれれば声くらいかけられそうなのに!この電車が、久留里止まりでないことをちょっと呪った。
「あーれれ、駅員が旗なんか落としてやがらあ。」
再び大音量で聞こえてくる客の声。この客は言ってみれば、彼の引き立て役か。まあ、そういうことだろう。ここで笑われては大変と、由紀子は急いで旗を拾い上げる。すると、彼がまた何か言った。せめて、口話術の勉強を続けておくんだった。JRに採用されたとき、耳に障害のあるお客さんを相手にする場合、なんて言って、簡単ではあるが、口話術を教えてもらったことがあったが、久留里線に配属されてからは、そういう客が来たことは一度もないので、すっかり忘れてしまっている。
そうこうしているうちに、七分間の停車時間は過ぎてしまい、発車時刻になってしまった。
特に発車ベルも設けていないので、自動で駅を出ていく形になるが、由紀子は発車の合図をするのもすっかり忘れて、茫然とあのきれいな人を眺めているしかできなかった。電車は、また疲れたなあという顔をしながら、走って行ってしまった。あーあ、せめてあと一分でいいから、久留里駅にいてほしかったなあ、、、。という思いが、由紀子の頭の中を渦巻く。
でも、上総亀山駅に行ったら、必ず木更津駅に帰るだろうから、今日中に、上り電車に乗ってまたこの久留里駅に戻ってくるだろう。その時は、ぜひ、お声をかけたい。久留里駅で降りてもらえないだろうか。それとも、真っすぐに木更津に帰ってしまうだろうか。そうなれば、まさしく「一期一会の恋」だ。ほんのわずかな望みであるが、久留里駅で降りてくれることを期待するのだった。
それとも、亀山温泉にでも行くのかな。そうしたら、亀山湖の湖畔にある、温泉旅館にでも泊まって、明日木更津に帰るつもりかな、とも考える。そうなると、久留里駅で降りてくれる期待はさらに低くなる。ど、ど、どうか、帰ってきてくれますように!なんて、ほかの人から見れば馬鹿馬鹿しくみられる願いを、由紀子は電車の神様にお願いしてしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます