吾輩
浪花わをん
吾輩
漆時
俺の1日は、牛乳から始まる。
今日は朝起きたら同居人のレイナが「今日はちょっと賞味期限切れだけどいいかしら」なんて笑いながらコップ一杯分を渡してくれた。
牛乳が賞味期限切れって、ちょっとマズくはなかろうか。
玖時
俺は毎日この時間帯から、外に散歩に出かける。
部屋の網戸から涼しい風が吹いている。散歩日和だ。
「行ってくる」
「今日も?……じゃあ5時には帰ってきてね」
レイナはすでに机に向かって仕事をしていた。こちらを向かずにまた今日も原稿とにらめっこ。小説家も大変だな。
玖時半
公園で女の友人に会った。彼女は三つ子の母である。
「久しぶりね。元気にしてた?」
「まあまあだな。子供たちは元気にしているか?」
「もうみんなとっても大きくなったわ。まだまだ甘えん坊なのは変わらないけれど、早く母親卒業してほしいものね」
「その愛する子供たちを置いて、今日はどうしたんだよ」
「夕ごはんを早めに調達するのよ。午後から雨が降る気がするから」
また話しましょ。そう言って、彼女は足取りも軽やかに駆けて行った。
母親というのは子供の為に、こんないい日和にも走らなにゃらんらしい。
拾弐時
外で昼食をとった俺は、隣町の知り合いの家に行くことにした。
裏路地、トンネル、急階段。アスレチックのような道を辿り、やがて倉庫と見間違うくらいに小さな家に出る。
あいつはガーデニングが趣味だから、家の周りには草木が多い。
中でも、ここの桜の木はかなり大きい。もう散って青い葉が付いているが、春は見上げると視界に桃色しか映らなくなる。
「キヨタカ、いるか?」
呼ぶと、家の中でゴソゴソと音がして、少し経って若い男が出てきた。
「やあ、今日も来たね」
キヨタカはまだ25なのに、名前と同じくらい話し方もジジイくさい。俺の方が年上だぞ。
「しばらくうちを空けていて悪かったな。だが、おかげでイタリアの綺麗な色の絵の具がたくさん買えた。……ちょうど今日試そうと思っていたんだ。少し付き合えよ?」
また絵のモデルだ。こう言われては、いつもモデルとして2時間はこいつに拘束されなければならない。
ーーでもまあ、こいつの作る菓子は美味いからなぁ。
「今日は早めに終えてくれよ。家でレイナが待ってるんだ」
「今日は皐月と描かせてくれ」
キヨタカは家の裏にある皐月の植え込みの前に椅子を置いて、俺を促す。
言われるままに座った。
「今日はどんなポーズがいい?」
「寝ていていい。楽にしてくれ」
モデルに寝ていろ、だなんて、こいつは花を描きたいだけなんじゃないだろうか。
参時
「ありがとう、もう起きていい。少しお茶にしよう」
キヨタカの声で目を覚ました俺は、椅子から転げ落ちた。あまりに突然のことだったから、自分でも何が起こったか一瞬分からなかった。
「…いって。……今日は…何か茶菓子があるか?」
「今日は乾物を作ったから食べようか。それから、いい梅昆布茶がある」
俺的には乾物は緑茶で食べたいんだが、まあ良しとしよう。
腰を摩りつつテーブルにつくと、キヨタカに「なんだ、ジジイみたいだなあ」と笑われた。
「お前にだけは言われたくないって顔だな」
俺の心の中を読みとったように、キヨタカがまた笑う。
俺もお前も、いつまでこうして仲良く茶なんか飲めるかなんて、分からないのになあ。
肆時
キヨタカの家を出て、そろそろ俺の住んでいる街に着くかと思っていた時、急に雨が降りだした。朝出会った友人の予想は、当たっていたらしい。
俺は雨が嫌いだ。特に、雨の日特有の、土のむわっとするようなあの匂いが嫌いだ。それに雨では散歩ができない。
シャッターの閉まった商店の前で、少し雨宿りをすることにした。
止まなければ走ってでも帰ろう。濡れたらレイナに怒られるかな。
伍時
レイナとの約束の時間を過ぎても、雨は一向に止まないどころか、風が強くなっていた。
これでは帰れない。
まだ日が長い時期だというのに、空が暗くなり始めていた。
商店の屋根からは、バリバリという音と共に、大量の水が流れてくる。
耳障りな音がそこらじゅうを駆ける中、なんだか前にもこんなことがあった気がして、俺は軒下でしゃがみこみ、目を閉じた。
弐年前、拾時
寒い。
水で濡れた俺の全身から、体温が逃げていく。
あいにく、今日も泊まるあてが無かった。いわゆるホームレスってやつだ。帰る家もなければ、体を温める術もない。最近はずっとこうして身を街の隅で縮こめて過ごしてきたので、もうこの状況に慣れてしまった自分もいるのだが。
今日はもうここで寝てしまおうか。住宅街の裏通りで、俺はひとり体を丸めた。
しばらくして、人の足音がしてくる。パラパラという音は、傘を持っているからなのだろう。
「…………ねえ」
バッと顔を上げた。
見ると、若い女が俺の顔をおずおずとのぞいている。俺に目線を合わせるように、しゃがみこんで、傘を俺に差し出していた。
驚いた。まさか声をかけられるとは思わなかった。
「………」
「大丈夫?具合でも悪いの?」
こんな無愛想で薄汚いホームレスを気にかけるなんて、物好きな女だと思った。
「動けないわけじゃないんだよね?……何か、声出せない?」
無言を貫いていた俺を心配してか、女はそう言った。
「…何か?」
「よかった!喋れるじゃない!……でもやっぱり具合良くなさそう。病院この近くにあったかなあ…」
「……金がないんだが?」
戸惑う俺を無視して、女は携帯電話を取り出して必死に病院を探していた。
こいつはなんなんだ?お節介もいいところだ。…俺が危険な奴だったら、どうするつもりなんだ。
「あった、病院!……君、一緒に来て!」
そう言って俺を担ぎ上げた彼女は、レイナ、と名乗った。
ヘンな奴だ。
陸時
雨の音で、ハッとする。
少し眠っていたらしい。まどろみから覚めて昔を思い出し、レイナの顔が浮かんだ。
まだ雨が止む気配はなかった。
ーー濡れてでも帰ろうか。
そんなことを思い、ほとんど暗くなってしまった空を見上げる。
「いたいた。…大丈夫?」
空を見上げた途端、景色に透明なフィルターがかかる。
あの日と同じ台詞で、ビニール傘をさしたレイナが立っていた。
探してくれたのだろう。足元が泥はねで汚れていた。息も心なしか、上がっている気がした。ふっと顔がほころぶ。
「ありがとう」
そう言うと、レイナも安心したように笑って言った。
「お帰り!」
軽々と、あの日のように俺を抱きかかえた彼女に、俺は安心して、
「ミャーオ」
そう鳴いた。
吾輩 浪花わをん @john-dry11
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