落 下
弟の継男が死んだと、朝一番に母から電話があった。
僕はすぐに身なりを整え、携帯電話でハイヤーと新幹線を予約した。
タクシーに乗り込み、少し落ち着いたところで、恋人の恵に電話し、弟のことを伝えた。
「そうなの、いい人だったのにね」
ふり絞る彼女の声から、本心でそう思っているのだと察した。
「ごめん、こんな忙しい時に・・・」
「謝ることじゃないわ、大丈夫よ、ゆっくりしていきなさい」
「すいません、御願いします、課長」
「相変わらず、慣れないわね、私たち」
付き合って、一年くらい経つのに、僕と恵の会話にはタメ語と敬語が入り混じっている、部下である僕が、プライベートでも敬語を使ってしまうことが多い。
彼女は、短く笑った後、「でも、本当に残念」と言ってくれた。
※
去年のお盆に恵を連れて僕の実家に帰った時、駅まで迎えに来てくれたのが弟の継男だった。
継男は、仄暗い夕方の駅のベンチに座る僕たちを見つけると、「兄貴―」と野太い声を張り上げて、日焼けした太い腕をブンブンと振り、白い歯を見せた。
恵に継男を紹介すると、彼女は、何度も僕と継男を見比べて困ったように眉をしかめた。
無理もない、華奢でおとなしい僕と2m近い巨漢と家業である稲作で鍛えられた肉体を持つ継男が血の繋がった兄弟だと言われても信じることは出来ないであろう。
継男は、恵をじろじろと見ると、僕の横腹を肘で突いて、にやりと笑った。
駅から実家まで、1時間弱の道のり、栄えている駅前を過ぎれば、後は坂道がうねる山道が続く。
僕は慣れているが、恵には長く退屈な時間であることは聞かなくても分かった。ぎりぎりまで仕事をしていた疲れもあってか、後部座席から恵の寝息が聞こえてきた。
「兄貴は変わらんな」
継男は恵を気遣って、小さな声で助手席に座る僕に言った。
「変わってほしかったのか」
「いんや、安心した、俺は木綿のハンカチーフで涙を拭うことも無いようだわ」
そう言うと、継男は『木綿のハンカチーフ』を口ずさんだ。周りに年上しかいない環境の為か、継男は古い歌をよく知っている。
都会に出た恋人に変わらないでと願う少女、一方、都会に染まり、恋人のいる田舎を捨てる男。そして、最後に少女は別れを告げる男に涙を拭く木綿のハンカチーフ下さいと手紙を出すのだ。
その切ない歌をフルコーラス歌い上げると、継男は、バックミラーで姿勢良く座ったまま頭を垂れる恵を見た。
「しかし、兄貴は果報者だなあ」
継男は、僕の肩をバンバンと豪快に叩く。
「都会の女はみんなこんな綺麗なのかい」
「恵は山形出身だよ」
「ほう、じゃあ、木綿のハンカチーフを濡らした男がいたかもしんねえな」
「やめろよ、馬鹿」
僕は、恵を綺麗だと言われて嬉しかった事と趣味の悪い冗談に腹が立った両方の気持ちを込めて、継男の肩を叩いた。無論、堅い彼の肩はブラインドタッチしか能が無い僕の手を弾き返した。
「どうだ、家のほうは」
そう聞くと、シフトレバーに手を置いたまま、うーんと唸った。
「今年の収穫は期待できんわ、雨降らんし…それは、仕方ないんだが」
継男はそこで一旦、言葉を区切り、タバコに手を伸ばした。恵を指差し、大丈夫かと聞くので、僕は大丈夫だと頷いた。
「行けば分かる事だが、母ちゃんがあんま元気じゃないわ」
溜息と一緒に、吐き出した煙が少し開けた窓から外へ流れていく。
僕が東京の大学に行きたいと告げた時の母の顔を思い出した。
「いいじゃない、がんばんなさいよ」と口では言っているものの、沈んだ表情をしている母の顔だ。
「でもな、兄貴の顔を見たら元気になるんじゃねえかと思う、それに恵さんも連れてきた事だしな」
継男はそう言って、笑うが、僕は笑えなかった。
長男である僕の役割を弟の継男に背負わせているんじゃないかと思ったからだ。それに、早くに父を亡くし、女手ひとつで稲田を守り育ててくれた母を置いて上京した負い目もある。
うねうねと続く山道をしばらく走り、すっかり夜になった頃、積もる話も底を尽き、沈黙が続いていた。
僕は、ヘッドライトに照らされた苔むしたガードレールを何となく眺めていた。
「なあ、兄貴」
急に呼ばれた僕は気の抜けた返事を返す。継男はちらちらと上を窺いながら言った。
「びっくりすんなよ」
「は…?」
「落ちてくるから」
何の事かと、聞こうとする僕を、ドスンという真上から聞こえる大きな音が遮った。
僕は、咄嗟に恵を見た。いつの間にか、後部座席に寝そべり、クッションをよだれで濡らしている。微かな地震にさえ、飛び起きるほど振動には敏感な恵なのに、おかしい。
そこで、音は聞こえたが衝撃が無かった事に僕は気づいてしまった。
視線を感じた。振り返り、見えたのは、フロントガラスにへばりつく血だらけの女だった。
僕は、女みたいな悲鳴を上げ、後ろに仰け反ったと言いたいが、気が動転して仰け反るはずが前のめりになって、シートベルトが身体を圧迫した。
「びっくりするよな、そりゃ」
せきこむ僕の背中をさすりながら、平然と言う弟にまたびっくりした。
ちらりとへばりつく女を見る、右の方のおでこからあごにかけて皮膚が削げて、濡れた赤い肉が露出している、むき出しになった彼女の右目と僕の視線が合い、僕はまた悲鳴を上げた。
「大丈夫だよ兄貴、こいつは幽霊だけど無害だ、ほれ、ちゃんと、運転席側の視界は空けてくれているんだぜ」
笑いながら、継男は言い、無理やり、僕の顔を上げさせた。
「俺の兄貴だ、ちょっとしたエリートなんだぜ」
嬉しそうに継男は、僕を幽霊に紹介した。
幽霊は、無表情のまま、僕と継男を交互に見て、眉を八の字にした。さっきの恵と同じ反応だった。それを見て、何故か恐怖が薄らいでいった。
「最初はびっくりしたけどさ、夜になると、毎回、落っこちてくるんだから、慣れちゃったよ」
豪快に笑う継男の顔は今でも忘れられない。
※
駅に着くと、僕は車を借りた。母親は葬儀の準備で忙しいだろうから迎えに来てくれなんて言える訳がない。
久々の運転だった。僕はハンドルをしっかりと握り、何度も、ハンドブレーキが落ちていることを確認し、発進した。
途中、歪曲したガードレールがあった。
きっと、継男が死んだ場所だ。
ガードレールに衝突し、フロントガラスを割って谷底に落ちたという継男は、案外きれいな身体のままだった。
通夜と葬儀が終わったら帰るつもりだったが、恵に「初七日まで帰ってくるな」と上司として命令されたので、僕は甘えることにした。
一週間とちょっと、僕と母は、継男の話ばかりをしていたように思う。
お茶を取りに台所へ向かう母の小さな背中は本当に云いたい事を我慢しているように僕には見えた。
帰る日、外まで送りにきた母親は僕に継男の形見だといつも頭に巻いていた木綿の手拭を渡した。
その手拭いを手に取った時、母のしわがれた手に触れた時、躊躇していた言葉を今なら言える気がした。
「もう少し、待っていてくれないか」
僕の足りない言葉を、母はすぐに理解してくれた。満面の笑顔で、「恵さんと一緒じゃなきゃ、家に上げてやんないから」と言ってくれた。
勘を取り戻し、僕は夜道を車で走る。
継男が落ちた場所は、ガードレールが新調され、沢山の花束に囲まれていた。
僕はまた、継男のあのときの笑顔を思い出した。
※
「ほら、こいつワンピース着ているだろ、山登りに来たわけじゃない、これは俺の勝手な想像だけど、きっと、悪い男に捕まって、こんな山奥に捨てられちゃったんじゃないかな、で、彷徨っている内に足を滑らして落ちちゃったんじゃないかな、それから、幽霊になってもこいつは落ち続けているんだ、いや、繰り返しているんだ、ずっと・・・」
あの時、継男は幽霊を見つめながら、そう言ったものだ。
※
僕は車を停めた。こみあげる涙で前が見えなかったからだ。やっと、継男の死を受け入れることが出来た証の涙だった。
形見の手拭で涙を拭う、泥の匂いがした。
「継男、馬鹿やろー、母ちゃん置いて死ぬんじゃねえよ、馬鹿やろー」
僕は、都会では出す事がないだろう大きな声で継男を罵った。
すると、ドスンと真上から大きな音がした。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、例の女幽霊、そして継男が並んでフロントガラスにへばりついていた。
呆然とする僕に、幽霊になった継男は、口を大きく動かし、何かを言っている。
僕は、注意深く弟の口元を観察した。
「あ に き す ま な い か あ ちゃ ん を た の む」
その言葉に、恐怖よりも先に僕の中で張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「馬鹿野郎、ふざけんな、なんで死んだ!ハンドルをきり損ねるようなカーブでもないくせに、涙を拭う木綿の手拭い下さいなんて俺は言ってねえぞ!」
怒鳴る僕に、継男は返す言葉を探しているようだった。
そして、結局、見つからなかったらしく、継男は、血だらけの顔をさらに赤くして、愛おしそうに女幽霊の手を握ってみせたのだった。
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