第一節 会議は眠る
「異義あり!」
叫び声が議場に響いた。
……
それが
その声に彼の義兄が、
「却下」
にべもなく即答した。
「まだ何も言ってないのにぃ!」
張飛がごねる。
「おまえの言いたい事など見通せる。大体、おまえが禁酒令に賛同するとは、
そう言って、義兄・
彼には
強情で一本気で酒好きの張飛をどのように説得するか。劉備は立案された法よりも、そちらに頭を悩ませていた。
時は建安十五年(西暦二一〇年)初夏の頃であった。
先の
そして、積年の策である
ただし、表向きは「益州牧・
しかし長く
「ですから、それを備蓄するためにも、向こう一年間は酒造を禁止するのです。
軍師将軍・
同じ説明を、今日何度繰り返したか判らない。
が。
『酒を
「ナァ軍師どの。酒は戦の必需品だぜ。兵共を慰めるには酒が一番だ。それに、戦神を祭るにも
どちらかというと議論を
しかし酒を呑まない者には酒呑みの理論など通用しない。
それを立証したのが、つい先頃まで「
「戦神は出陣するときに祭るもの。慰労は戦が終わってからするもの。今は酒の必要などないでしょう?」
涼やかな声音が議場を渡たる。
「がっ……?」
張飛は口をパクリと開けたまま、硬直した。
王索は、右の頬に五寸ばかりの刀傷がある以外は、十人並み以上の器量を持つ、十六才の
王というのは、彼女の母親の姓である。
実を言うと彼女は、父親の姓どころか、顔すら覚えていない。父のことを母親に尋ねると、ひどく辛そうな顔をするので、聞き出すこともはばかられた。
それもあって彼女は、母親が再婚した相手を「父」と呼んでいる。
今の王索の父親は、張飛のもう一人の義兄である
この戦で王索は顔に傷を得た。
平常、口には出すことはないが、彼女はこれを気に病んでいる。
元々、女の技を学ぶより、男児が学ぶ様な学問や剣術を好む、風変わりな娘であったが、この傷が、彼女の決意を強いものとした。
良家の子女で有る事を捨て、武家の子息として生きることを決めたのだ。
さて、劉備はこの『甥』が忠孝厚く知慮深い事を知っていた。
故に彼女の決意を聞きつけるや、文書や印受を司る、一種の書記官である「
この
話を戻そう。
張飛の誤算は『甥』の酒量を踏み誤った事に発する。
「兵が飢えていては、良い将が率い、良い策を弄したところで、勝つことが出来ません。よろしいですか、
王索の言葉に呼応して笑い声が起きた。
臨席者の大半が、彼女に同意している。
特に関羽の長子で、王索にとっては
「叔父御、諦めなさいませ。叔父御では索の弁舌には勝てませぬぞ」
そう言うと、彼はカラカラと笑った。
二人の甥に見捨てられた張飛は、慌てて反論を考えた。の、だが、良い台詞が浮かばない。
しかたなく『誰か味方してはくれまいか』と、議場を見回した。
生真面目でお堅い
張飛から見れば新参である
「そうだ、
張飛ははたと膝を打って、つぶらな瞳を輝かせた。
所が、張飛と目が会った龐統は、ニッと笑って
「張将軍。残念ながらそれがしは今、酒を断っておりましてな」
と、首を横に振ったのだ。
もはや孤立無援となった張飛は、一縷の望みを賭けて壁際の長椅子を見た。
そこに一人の
簡雍、
生まれは
一つ年下のこの男を、張飛は深く尊敬している。
機知に富み、すこぶる口が達者で、そういった方面に関しては実に凡庸な張飛とは、全く正反対の素質を有していたからだ。
元々張飛は「頭の良い者」に弱かった。無い物ねだりとは言い過ぎだが、憧れる気持ちが強い。
我の強い彼が、年下の諸葛亮や龐統の言う事を、割と素直に聞き入れる理由がそこにある。
しかも簡雍はただの頭でっかちではない。
彼が普通の、つまり生真面目で慣例にこだわり柔軟さのかけらも感じられない『知識人』とは、かなり毛色が違っているという事こそが、張飛が彼に一目置いている所以だ。
はっきり言って、簡雍の外見に知的な色はない。
結い上げた髪はいつも乱れており、
よほどの事がない限り、彼の服装は常に乱れている。
それは今日も変わりない。それどころか、彼はその服装で長椅子に寝ているのだ。主君の前で、である。
そして整わない髭を
眠っているのかも知れない。
普通の人間がこの様な態度を取れば、いくら劉備がお人好しでも、官邸から蹴り出される事だろう。
しかし簡雍に限っては、許されている。
その横柄さを差し引いても余りある機知を彼は持っており、主君がそれを愛しているのだ。
張飛は、彼の機知が自分に都合良く働いてくれまいか、と願った。
熱い視線が自分に向けられている事に気付いているのかいないのか、簡雍は静かに口を開け、若い主簿に声をかけた。
「なぁ……阿花……」
「はい叔父上」
関羽が七つばかり年下のこの才人を、弟同然に扱っているので、
歯切れの好い返事を聞いて、簡雍は薄目を開けた。
「さっきの計算だがな、間違っているぞ」
「は?」
王索はきょとんとした目で簡雍を見た。周囲の者の視線も、全て彼に集まる。
視線の中心で、簡雍はゆっくりと上体を起こした。そして
「翼徳が一年間に腹ン中に捨てちまう酒は、兵
簡雍に視線を浴びせていた者すべてが爆笑した。
ただ一人、張飛を除いて。
かくして禁酒令は発動し、違反者には十杖以上の
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