シリーズ「もしもこんな法律ができたら」

森山智仁

もしも「セクハラをめちゃくちゃ厳しく罰する法律」ができたら

「雪村さん」

「……」

「どうかこの書類に、サインしてください」


――――――――――

【セクシャルコミュニケーション許可証】


甲(高田純一)は乙(    )に対し、日常会話の中で、親愛の情を込めて、性的な冗談・軽口・言葉遊び等々を投げかけることがある。

乙はそれらがコミュニケーションの域を脱し、セクシャルハラスメントに該当すると感じた場合、各関係機関に訴える前に、甲に対して警告、改善を求める。


20XX年◯月△日

――――――――――


「お願いです。僕は、あなたを決して傷つけずに、容姿を褒めたり、お酒に誘ったりしたいのです」

 雪村梨子は頬を染め、黙って書類に署名した。

 高田純一は感動に打ち震えた。

「本当にいいんですか」

「はい」

「ゆ、雪村さん」

「何ですか?」

「初めてお会いした時から思ってたんですけど、ス、スタイルいいですね」

 雪村は眉をひそめ、「高田さん、セクハラです」と言った。

 高田は「ヒェッ」とおののいた。

「うふふ、冗談ですよ」

「や、やだなあ、やめてくださいよ」

 それから雪村はもう一度「うふふ」と笑い、高田は「えへへ」と笑った。


 ◆ ◆ ◆


「と、いうわけだ」

 その日の夜、行きつけの小さな居酒屋で、高田は同僚の松岡修二に事の顛末を報告した。

「やったじゃないか」

「ああ」と言いながら、高田は松岡の表情が優れないことに気づいた。「喜んでくれないのか?」

「何言ってんだ。喜んでるさ」

「それならいいんだけど」

 松岡は黙ってビールをあおる。その表情はやはりどこか曇っているように見える。

「まさかお前も、雪村さんのことを」

「よせよ。そうじゃない」

「……」

「だいいちお前はまだ雪村さんに告白したわけじゃなくて、許可証にサインをもらっただけだろ」

「まぁな」

「……」

「だったら、何かあったのか」

「出川から手紙が来た」

「!」

「読むか?」

「もちろん」


――――――――――

 みんな元気か。俺はぼちぼちだ。

 シベリアの冬は本当にきついぞ。青森出身の俺でも凍えるような寒さだ。

 ここに送られてもうすぐ一年になる。判決を受けた当初は、正直、セ防法(セクシャルハラスメント防止法)を恨んだよ。反省より恨みのほうが大きかった。

 でも、やっぱりセ防法は必要なんだって今は思う。「おっぱい大きいですね」は、どう考えたってセクハラだ。大きいですねと言いながら、俺は三浦万里子さんのおっぱいをある意味ですでに揉んでいたんだ。

 ここには俺よりはるかに軽いセクハラで送られてくる奴も多い。昔の俺みたいに、不満たらたらの奴もいるよ。「セクハラのつもりはなかった」ってな。けど、つもりかどうかなんて、誰にもわからないだろう?  だから、手続きを複雑化して違反者には厳罰を与える、今のシステムは正しいと思う。

 俺もシャバに戻ったら完璧な紳士になるよ。お前たちも、くれぐれもセクハラには気をつけてくれ。


出川哲夫

――――――――――


「あいつ、変わったな」と言って、高田はハイボールをぐっと飲んだ。

「良かったと思うか?」と、松岡は厳しい目をして言った。

「何がいけないんだ?」

「聞いてくれ、高田。俺は今度、総務の宇賀菜津子さんに告白しようと思う」

「うおっ、そうなのか! 頑張れよ!」

「頑張るよ。ダイレクトに行く」

「そうか! がんば……いや、ちょっと待て!」

「何だ?」

「ダイレクトって、許可証を取らずにってことだよな?」

「そうさ」

「正気か? お前、死ぬぞ」

「覚悟の上さ」

「馬鹿な真似はよせ。ちゃんと手順を踏めよ」

「おかしいと思うんだ、俺。セ防法のこと」

 高田は慌てて声を潜め、「おい、言葉に気をつけろ。誰がどこで聞いてるかわからんぞ」と言った。

 しかし、松岡は構わずに続けた。

「俺は宇賀さんに惚れてる。その気持ちを伝えるだけのことに、どうして許可を取らなくちゃいけないんだ?」

「仕方ないだろ。好かれて嬉しいとは限らない。好意を示されて気持ち悪いとか不愉快だと感じる、つまりセクハラになってしまう可能性もある」

「……俺、気持ち悪いか?」

「いや、お前は十分男前さ」

「ありがとう」

「でも、問題は宇賀さんだ。受け取るほうがセクハラだと感じたらそれはセクハラなんだ」

「セ防法ができたのは、セクハラの基準がわからないってゴネる空気の読めない旧時代人たちのせいだろ? 俺は本来の『セクハラ』をわきまえてる。宇賀さんへの告白はセクハラじゃない」

「言ってることはわかる。でも、今の法律では、セクハラかどうかはお前が決めることじゃないんだよ」

「もし俺の告白が宇賀さんにとって気持ち悪かったなら、喜んでシベリアに行くさ」

「お前……!」

「本気なんだ。応援してくれよ」

 高田が言葉を探していると、カウンターから「俺ァ応援するぜ!」という声がした。

 松岡と高田は驚いて居酒屋の大将を見た。

「俺もセ防法はおかしいと思ってる。あの法律ができてから、男も女も、許可なく身体的特徴をイジるのは違法ってことになっただろ?」

 松岡が「はい」と応じた。

「確かに平等で、平穏かもしれねぇよ。けどな、俺みたいなハゲのデブにとっちゃ逆につらいんだ。わかるか?」

 高田が「わかります」と応じた。

「わかるもんか!」と、大将はいきなり声を荒げた。「お前らみたいな爽やかサラリーマンにハゲデブ親父の気持ちがわかってたまるか! よく見ろ! 俺は、ハゲてて、デブなんだ!! でも今はセ防法があるからハゲともデブとも言われない。救われたと思うか? 逆だよ。みんな俺のこと、内心ハゲだなデブだなって思いながら、違法だから黙ってるだけなんだ……ちくしょうめ!」

 松岡と高田には、大将にかける言葉が見つからなかった。被害妄想だなとは思いつつ、大将の苦しみがわからないでもなかったからである。

「なぁお前ら、俺を罵ってくれ」

「!?」

「頼む。俺をハゲだとかデブだとか言ってくれ。事実なんだから構わねえ」

「わかりました」と言って、息を吸い込もうとした松岡を、高田が「よせ!」と制した。

「どんな経緯でも、相手の身体的特徴をイジるのは違法だ」

「大将は『言われないのが逆につらい』って言ったじゃないか」

「それでも、違法は違法だ」

「どうしてそんなに杓子定規なんだよ」

「冷静になれ、松岡。お前は宇賀さんに愛を告白するんだろ?」

「!」

「一世一代の大勝負の前に、つまんねえ事故でお縄になっちゃしょうがねえ。大将をハゲとかデブとか言うのは、俺一人で十分だ」

「お前……もう言ってるぞ」

「あ、本当だ」と言って、高田は笑った。そして、大きく息を吸い込んだ。

「なぁ大将!」

「おぅ!」

「あんた、ハゲだな!」

「そうなんだよ! まいっちまうぜ!」

「それに、デブだな! 酒の飲み過ぎじゃねぇのか!」

「そうなんだよ! それも、太りやすい体質ってわけじゃねえからな! 完全に自己責任だ! 恥ずかしいったらねぇぜ!」

「まったく、みっともねえ親父だな!」

「はーっはっはっは!!」と、大将は出っぱった腹を抱えて大笑いし、目頭に涙を浮かべて「今夜は最高だぜ! おぅ、お前ら、今日は奢りだ! パーっとやってくれ!」と言った。

 高田はそれに応えて、店で一番高いボトルを注文した。

 松岡は心の中で、高田が雪村梨子とうまくいきますようにと、噛みしめるように祈った。


 (了)

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