第37話「松永 久秀」34(全192回)
『戦国時代の群像』「松永 久秀」34(全192回)
「松永 久秀」(1510~1577)戦国時代の武将。大和国の戦国大名。永正7年(1510年)生まれとされるが、前半生には不明な点が多く確証はない。出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している[注釈 3]。天文2年(1533)か天文3年(1534)頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。史料における初見は天文9年(1540)とも天文11年(1542)であるとも言われている。天文9年(1540)、長慶が連歌田を円福寺、西蓮寺、東禅坊の各連衆に寄進する内容の書状に名前が見られる他、同年、堺の豪商に対して発給した文書にも久秀の名前が花押と共に掲載されているため史料における初見は天文9年(1540年)が正しいと考えられる]。史料上の初見の時期からも三好長慶が越水城主として初めて畿内での統治を行った際には既に家臣として活動していたと思われる。天文11年(1542)には三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には武将としての活動も始めていたようである。長慶が細川晴元の部下であった頃から、仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである。永禄元年(1558)5月に足利義輝、細川晴元が近江から進軍して京都郊外の東山を窺うと、久秀は吉祥院に布陣し、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に洛中に突入して威嚇行動を行ったのち、将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦し、11月に和睦が成立すると摂津へ戻った(北白川の戦い)。永禄2年(1559)3月、三好長慶は鞍馬寺で花見を開催する。この際、久秀も谷宗養、三好義興、寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと共に参加している。また同年、部下の楠木正虎(楠木正成の子孫)が、北朝から朝敵として扱われているが、これを赦免して欲しいと前から願っており、久秀はこれを聞き入れて、正親町天皇に赦免を許可して欲しいと交渉している。正虎は赦免された上に河内守にも任官された。この交渉とそれにおける楠木氏の朝敵赦免には足利義輝も関与しており、彼も赦免に同意し許可した。しかし、義輝にとって足利家の仇敵であり敵対した南朝の中心人物である楠木氏を赦免することは内心とても不愉快であったろうし、強い危機感を抱いたに違いないという指摘もある。久秀は同年5月の河内国遠征に従軍し、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に大和へ入り、8月8日に滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とする。永禄3年(1560)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・義輝から御供衆に任じられ、1月20日に弾正少弼に任官。6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和に残り、信貴山城で河内からの退路を塞ぎつつ7月から11月にかけて大和北部を平定し、三好家中の有力部将として台頭していった。 また、11月に信貴山城に四階櫓の天守閣を造営したという。永禄4年(1561)2月4日に従四位下に昇叙されると、それまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。また2月1日には義輝から桐紋と塗輿の使用を許された(『歴名土台』『御湯殿上日記』『伊勢貞助記』)が、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。義輝が参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えてゆく。この御供衆任命が、久秀の政治生命・人生における一つの分水嶺とも解釈され、久秀と義輝が関与する史料がこれ以降増加する。長慶には多くの被官がいたが、ここまでの出世を遂げたのは久秀一人である。この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。永禄4年(1561年)3月、将軍・義輝が三好義興の邸宅に御成し、歓待を受ける。ここで久秀は、義輝に太刀を献上したり、義輝の側近達を接待したりするなど、三好家の人間として義輝達を接待する一方で、具足の進上、義輝達への食事の配膳、食事中の義輝に酒を注ぐなど、御供衆の仕事も務めている。またこの将軍御成の宴席では猿楽が催されたが、久秀はその際に要脚を運ぶ仕事をしている。これは義輝を歓待する三好一族と、義輝の側近のみが許可された仕事であり、三好一門ではない久秀は御供衆としてこの仕事を行ったと推測される。将軍御成における久秀の仕事は、彼が御供衆として非常に多くの仕事をこなしていたことを示し、それは、久秀が幕府・将軍と三好家の間を仲介し、両者の関係を取り持ち深化させる紐帯としての役割を持っていた証左でもある。御供衆への任命によって、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活動した。永禄4年(1561)、足利義輝が三好義興の邸宅に御成した際の、久秀の行動からはそれを如実に伺わせる。久秀は、三好義興が義輝の相伴衆に任命されるとほぼ同時に御供衆に任じられ、同時期に従四位下の官位を授与され、桐紋の使用を許可されていることから、家中における地位は長慶嫡男である義興と同格に近いものだったとみられる(相伴衆と御供衆の違いはあるが)。こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり[36]、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない。また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。永禄7年(1564)5月9日、三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えた。永禄8年(1565)5月19日、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛、室町御所の足利義輝を襲撃し殺害する(永禄の変)。この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和にいることが多く、事件当日も大和におり参加していない。また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた還俗前の足利義昭の書状から、久秀は事件直後に義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。義継・久通・三人衆ら襲撃犯が義輝の子を懐妊していた侍女や弟の周暠を殺害したことに比較すると温情的な処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える[41]。一方で、久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、殺害そのものは容認していたのではないかとも推測される。久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭を庇護してそれを将軍に据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の特殊さを表していると指摘される。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。元亀元年(1570)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。以後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて足利義昭に通じたと見られる(義継・久秀共に名目上は将軍義昭の幕臣であり、信長とはあくまで協力関係にあり従属する義理も無かったとも言えるが)。元亀2年(1571年)の時点で甲斐国の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。また三好義継と共に和田惟政や筒井順慶としばしば争いを起こしているが、8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、竹内秀勝らの有力な家臣を失っている。元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。
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