第36話「三好 長慶」33(全192回)


『戦国時代の群像』「三好 長慶」33(全192回)

「三好 長慶」(1523~1564)戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する[4]。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。織田信長に先行する「最初の戦国天下人」とも呼ばれる存在だが、現代での評価は芳しくなく、重臣・松永久秀と共に「下剋上をした悪党」として酷評されたり[6]、「松永久秀の専横、壟断を許した凡庸な大名」と評されている。近年は長江正一、今谷明、天野忠幸らによる研究が進み、再評価の兆しを見せている。山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、永正3年(1506)に細川澄元に属して阿波国より上洛した三好之長の曾孫。三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。正室は波多野稙通の娘、継室は遊佐長教の娘。三好義興の父。通称は孫次郎、官位は従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。諱の長慶は「ちょうけい」と有職読みをすることもある。大永2年(1522)2月13日、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生(三野町)では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。]父は細川晴元配下の有力な重臣で、主君・晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532)6月に殺害された。10日後の25日に長慶は晴元を酒宴に招き、その席で室町幕府の料所である河内十七箇所(守口市)の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。幕府の内談衆である大舘尚氏は長慶の要求を正当としたが、12代将軍・足利義晴は近江守護の六角定頼を通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。長慶は1月の上洛時に2,500の人数を率いていたため、この数と石山本願寺法主の証如の後ろ盾を得て入京し、細川晴元は閏6月17日に退京して高雄に移り、細川元常や細川晴賢ら一族を呼び集めた。義晴は畠山義総や武田元光などの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人の慶寿院と嫡子の義輝を八瀬に避難させた。この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。7月14日には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で戦うも小競り合いだった。7月28日、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境の山崎から撤退した。結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる。この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元を震え上がらせるほど長慶の実力は強大なものとなっていた。8月12日には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の塩川政年(国満)を三好政長や池田信正らと共に攻めた。しかし政年の縁戚である摂津国人・三宅国村や伊丹親興、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は腹背に敵を受ける事となって10月2日に越水城に帰還した。この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である富松城(尼崎市)を逆に落とした。戦後、細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に逃れた。長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し、7月9日に入京。6日後の15日に氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲。天文19年(1550)3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、天文19年(1550)2月に京都東側の慈照寺の裏山に中尾城を築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。両軍は小競り合いに終始したが、長慶は近江にも遠征軍を派遣して義輝らを揺さぶり、退路を絶たれることを恐れた義輝は11月に中尾城を自焼、坂本から北の堅田へ逃亡した(中尾城の戦い)。この間の10月に長慶は義輝に和談を申し込んだが、晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる。将軍も管領も不在になった京都では長慶が治安を保ち、公家の所領や寺社本所領を保護しながら義輝・晴元らと戦った。天文22年(1553)閏1月、義輝の奉公衆らは長慶排除のために細川晴元と通じ、しばらくして長慶は和議を結ぶが、その際に奉公衆から人質をとった。2月27日に長慶は晴元と戦うために丹波へ出陣したが、3月には義輝自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いた霊山城に入城した。合わせて帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破った。7月に長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を目論むが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦も無く敗走、義輝は近江朽木に逃れた。長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。この全盛期の永禄2年(1559)2月に織田信長がわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。4月には上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。この永禄2年(1559)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年(1560)1月には相伴衆に任命され、1月21日に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。このためもあってか、2月1日に義興が御供衆に任命されている。永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した。芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、大和国への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている。また、三好氏の本領は阿波国だが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった。ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとする永原慶二の指摘もある。永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している。この他天野忠幸によれば、拠点候補として高屋城と飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される。長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。弟の十河一存が急死したのである。このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。この戦いは永禄5年(1562)まで続き、3月5日に三好実休が高政に敗れて戦死した(久米田の戦い)。しかし京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興・久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていたのではないかといわれている。以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれたが、一存と実休の死による三好政権の弱体は明らかであった。さらに永禄6年(1563)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えた。本来であれば一存の死後に十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった。永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔したものの後の祭りであり、病がさらに重くなってしまったという。このため6月22日には嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、23日に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から、長慶の病はこの頃には既に末期的だったようである。そして11日後の7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43。





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