第33話「上泉 信綱」
『戦国時代の群像』「上泉 信綱」30(全192回)
「上泉 信綱」(1508~1582)永正5年(1508年)? - 天正5年1月16日(1577)または上泉伊勢守、上州出身の戦国時代の兵法家。生年は推測(後述)、没年は天正10年(1582)など諸説あり。上泉信綱は、戦国時代の史料上には、山科言継の日記『言継卿記』に、永禄12年(1569年)1月15日 - 元亀2年(1571)7月21日まで32回みえている。「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない。『言継卿記』によると、永禄12年1月15日、卜部兼興の子・長松丸の訴状に「叔母舅」の大胡武蔵守としてみられる。以後、武蔵守は言継を訪問するようになる。ただし5月16日から元亀元年(1570)5月22日までは年始の挨拶1回のみである。元亀元年5月23日には言継は軍配を上泉武蔵守信綱から伝授された。6月28日信綱は従四位下に叙せられたことを言継に語っている。また武蔵守が兵法を披露するのは元亀元年8月10日の梨本宮門跡と19日の太秦真珠院での2回のみである。 元亀2年3月には武蔵守は近日在国するとあり、7月2日に武蔵守が大和国から上京している。7月21日、信綱は京を去り故郷へ向かうことを言継に伝え、言継から下野国結城氏への紹介状を得ている。長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主[1]としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。[2]永禄8年(1565)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する[2]、丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567)2月に与えた目録[2]と、同年5月に与えた印可状[3]が残る。これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ[4]、大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して[5]」新陰流を大成した。信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える[6]。剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏[7]も独自の家伝を持っている(後述)。名は、『言継卿記』では大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱。『武芸流派大事典[9]によると、自弁当流(神影正兵法備具兵神宜武士道居合)の伝書に秀長とあり(綿谷によれば初名)、次に秀綱、永禄8 - 9年から信綱だとする。『関八州古戦録』では金刺秀綱。伊勢守、のち武蔵守を名乗った[10]。上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の上泉で生まれたとされる。上泉城で生誕とも。生年は史料が無く不明。尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』1508年(永正5年)としている。なお通説では大胡氏の一族とされるが、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます