第32話「細川 晴元」29(全192回)
『戦国時代の群像』「細川 晴元」29(全192回)
「細川 晴元」(1514~1563)室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。第34代室町幕府管領。山城・摂津・丹波守護。第17代細川京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院、嫡男は細川昭元。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄、本願寺法主・顕如の義兄に当たる人物でもある。当時、畿内で内乱状態にあった細川京兆家を纏め、自らの政権確立と室町幕府管領職に就いたが家臣の三好長慶の反乱で没落、勢威を取り戻せないまま没した。実権を持っていた管領としては最後の管領である。「晴元」という名は室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱を受けたものであるが、義晴と敵対関係であった時期には「細川六郎」という通称を用いた。この項目での呼称は晴元で統一する。永正11年(1514)に細川澄元の子として誕生、6年後の永正17年6月10日(1520)、同族の細川高国との争いに敗れ阿波国へ退去していた父の死去により、晴元は7歳で家督を継承した。ただ、細川京兆家の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の継承時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。一方、仇敵の高国は将軍・足利義稙を追放、代わって足利義晴を将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。だが大永6年7月13日(1526)、従弟の細川尹賢からの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の実兄(波多野稙通、柳本賢治)達に背かれ、勢力の内部分裂を自ら招いた。そんな収拾のつかない敵方の窮状につけ込むべく、13歳の晴元は三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。高国と晴元の争いは、細川氏の家督を奪い合う私闘であるにも係わらず、高国は現職の管領である事を利用して将軍・義晴を擁立していたために、名目上の官軍を称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、保身に奔る味方に離反される恐れを孕んでいた為、晴元側も義晴の弟・足利義維を擁立する事で備えている。そもそも大永3年(1523)に足利義稙が阿波国撫養に下向してきた時に細川讃州家の助力を得ようとしたが、当時の晴元は10歳の少年であったため助力することかなわず、失意のうちに義稙は没した。その後、当時の阿波守護で晴元の従弟・細川持隆は阿波の細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元を一緒に養育していた。大永7年2月12日(1527)、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とすと、和泉国堺を本拠とした晴元は、都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を創設した[2]。享禄4年(1531)になると細川高国に摂津国の大半を制圧された上、京都も高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府は攻撃の危機に晒されるものの、同年2月に三好元長と和睦。3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む(中嶋の戦い)と、6月4日には来援の赤松政祐(晴政)による高国への支援を装った騙し討ちが決め手となって、細川高国・浦上村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。戦後、高国には逃亡されるも6月5日には潜伏中の摂津国尼崎で捕縛し、8日には尼崎の広徳寺で自害させ、亡父の仇を討った[3]。それまでの権力者だった細川高国を滅ぼした晴元だったが、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換。現将軍・義晴と和睦し、その管領に就こうとした為に三好元長と対立してしまう。細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良かったという事である。共通の敵・高国を滅ぼして僅か2ヶ月で内部対立が表面化した堺公方府であったが、高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集した。内部の反対派を排除し、将軍・義晴と和睦できた晴元は、蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に神経を費やした。一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めた。山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、天文2年(1533)に一向一揆の反撃に遭い堺から淡路国へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、天文4年(1535)に和睦した(享禄・天文の乱)。天文3年(1534)に木沢長政の仲介で三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦して家臣に組み入れた。天文5年(1536)、京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角定頼と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。天文8年(1539)、上洛した三好長慶が同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い、晴元は政長に肩入れして長慶と対立したが、義晴と六角定頼の仲介で長慶と和睦した。この時は小競り合いに終わったが、天文10年(1541)には増長した木沢長政が造反し、政長の排除を訴えられた時も拒絶、京都郊外の岩倉へ逃れ、翌天文11年(1542)に摂津芥川山城へ移り反撃、長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取っている(太平寺の戦い)。しかし反乱はなおも続き、天文12年(1543)、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。この反乱は同年の内に治まったが、天文14年(1545)には山城国で高国派の上野元治・元全父子と丹波国の内藤国貞らが挙兵、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧した。天文15年(1546)8月に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取った。氏綱と畠山政国・遊佐長教らが手を結んだだけでなく、9月に上野元治も再挙兵して京都へ入ったため晴元は丹波国へ逃亡する。晴元や足利義輝ら現職の将軍、管領が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛、長慶が幕府と京都の実権を握った。近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550)に足利義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが成功せず中尾城を破棄(中尾城の戦い)。天文20年(1551)に丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に敗れ(相国寺の戦い)、天文21年(1552)1月に長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になっても晴元は和睦を認めず出家し、若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向する。信豊は家臣の細川氏の領国である丹波へ派兵する。それからは丹波国から度々南下して三好軍を脅かし、天文22年(1553)3月に義輝と三好長慶が決別、7月に義輝から赦免されると再度義輝と共に長慶と交戦した。しかし、8月に義輝方の霊山城が三好軍に落とされると義輝と共に近江国朽木へ逃亡した。丹波国では香西元成・三好政勝らが波多野晴通と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったが、国貞の養子で長慶の部将・松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、弘治3年(1557)に晴通が長頼と和睦して丹波は三好領国となった。播磨国でも元成が明石氏と結んだが、弘治元年(1555)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、勢力拡大した長慶の前に手も足も出せなくなった[9]。永禄元年(1558)に上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦するも(北白川の戦い)、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まる。永禄4年(1561)隠居の晴元は次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、六角・畠山軍とともに近江に反三好の兵を挙げさせる。三好軍に敗退し晴之は戦死、三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉された。
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