第30話細川 高国28(全192回)
『戦国時代の群像』細川 高国28(全192回)
細川 高国(1484~1531)戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。文明16年(1484)、細川氏一門・野州家の細川政春の子として生まれた。高国が京兆家当主・細川政元の養子となった明確な時期は不明であるが、細川澄之・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。但し、その名から判るように3人の中で最も早く元服している(義高→高国、義澄→澄元・澄之、室町幕府第11代将軍は義高、義澄の順に改名、すなわち3人の元服の順番は養子になった順と逆ということになる)。永正4年(1507)6月、政元が澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げた。この時高国は、澄元を支持して同族の細川政賢・細川尚春と共同で討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の錯乱)。ところが、この一連の政変を好機と見た周防の大内義興は、庇護していた流れ公方の前将軍足利義稙を擁して上洛軍を発した。そこで、澄元の命令で義興との和睦交渉に当たった高国だったが、澄元に背いて義興に通じると伊勢に逃れた。永正5年(1508)には、仁木高長(仁木氏)、伊丹元扶、内藤貞正(国貞の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄を近江に追放した。これに対し、5月5日に高国を京兆家当主であることを承認する義稙の御内書が出されている。そして大内義興と共に入京し足利義稙を将軍に復職させ、自らは7月18日に右京大夫・管領に任ぜられた。永正6年(1509)、澄元の重臣・三好之長による京都侵攻を受けたものの、大内義興と協力して退け(如意ヶ嶽の戦い)、逆に近江に侵攻して勝利している。しかし永正7年(1510)に近江への再侵攻した際には、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗を喫し、敗戦の責任をとって出家しようとしたほどであった。なおも政権奪還を諦めぬ澄元の攻勢を許した永正8年(1511)、細川政賢や赤松義村まで加担した澄元方による京への再侵攻(深井城の合戦、芦屋河原の合戦)を受ける。そこで一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退した高国だったが、澄元方の擁する前将軍足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日の船岡山合戦に勝利した。永正12年(1515)頃、高国は澄元方の反撃と摂津支配の強化を目指して、芥川と西宮の郊外に芥川山城と越水城を築城して、能勢頼則と瓦林正頼(河原林政頼)を配置している[3]。永正15年8月2日(1518)、それまで政権を支えてきた大内義興の周防への帰国によって、高国は単独で政権を運営する。しかし永正16年(1519)、それを好機と見た阿波の澄元・三好之長らの摂津侵出(田中城の戦い)を許し、またも窮地に立たされる。そして翌永正17年(1520)2月、大内軍の不在が響いたのか敗戦して近江坂本まで退散させられた。そこへ保身を図らんとする将軍足利義稙には、これを機に澄元と内通されてしまう。しかし、5月には六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させ、政権転覆の危機を乗り切ってみせた(等持院の戦い)。同年6月2日には、高国と長年に亘り対立を続けてきた澄元が阿波で病死すると、高国を見限って澄元に乗り換えようとした将軍義稙の面目は失われ、敵対者のいなくなった高国は事実上の天下人となった。なお、大内義興と細川高国には朝廷よりそれぞれ従三位と従四位下叙位の話があったが、義興は受諾したものの、高国は辞退して代わりに将軍の自邸への御成を受けている。この後、高国は味方として武功も多かった瓦林正頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害。自身の地位を脅かす恐れのある者の排除に乗り出し、内部の引き締めを図っている。永正18年3月7日(1521)には、立場を失った将軍足利義稙が京を出奔。このため同月22日に行われた後柏原天皇の即位式は、高国のもとで行われた。これにより天皇の信任を失った義稙を排斥して、かつての敵対者であった義澄の遺児である足利亀王丸を擁立。将軍不在による高国政権の存続危機を防いだ。7月6日には亀王丸の上洛を迎え入れると、大永に改元後の8月29日には、亀王丸による代始の参賀を行わせた。12月24日に元服して義晴と改名した亀王丸は、翌日将軍に補任された。その後、前将軍・義稙からの侵攻を何度か受けるが、大永3年(1523)4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。足利義晴を擁立した高国は、管領・従四位下武蔵守に任官された。大永4年4月21日(1524)、剃髪して道永(どうえい)と号し、家督と管領職を嫡子の稙国に譲って隠居した。ただし、これは高国が厄年であったためにこれを機に息子に家督を譲ろうとしたもので、本人は隠退の気持ちを持っている訳ではなかった[注釈 7]。ところが12月に稙国が没したため、やむなく管領・細川家(細川京兆家)当主として復帰する。大永6年7月13日(1526)、従弟に当たる細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺した。しかし、これを知った元盛の実兄(波多野稙通と柳本賢治)に背かれ、丹波で挙兵される。仕方なくこの鎮圧に尹賢を向かわせたものの敗退。そこへ、かつての敵対者であった澄元の遺児・細川六郎(晴元)や三好元長(之長の嫡孫)にまで阿波で挙兵されてしまう。再び畿内に進出した阿波勢に、丹波勢も加わって膨れ上がった敵対連合軍には、いくら権力者の道永であっても効果的な対抗策を施せなかった。翌大永7年(1527)2月には、とうとう敵対連合軍の尖兵・柳本賢治や三好元長らに京に侵攻され、桂川で迎撃したが敗れ、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れた(桂川原の戦い)。こうして高国政権は崩壊した。10月には越前の朝倉孝景に軍事支援を要請し、地位回復を目論む。これに応えた孝景の大叔父である朝倉宗滴を総大将とする加勢を得て、高国は上洛を果たした。だが翌大永8年(1528)3月には越前軍の帰国により、5月に再び近江へ逃れた。その後、道永は伊賀の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、朝倉孝景や出雲の尼子経久らを頼って落ち延びていた。享禄3年(1530)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、備前守護代浦上村宗と連携して京に進軍した。京都帰還を果たすと、つぎは管領の座を脅かす晴元を倒すべく、堺公方府への出征を試みた。ところが享禄4年(1531年)3月10日には晴元の重臣・三好元長からの反撃で機先を制されてしまい、摂津で足止めされ膠着状態(中嶋の戦い)に陥った。やがて6月になって、新たに参戦した赤松政祐の支援を得たかに見えたが、同月4日には赤松からの裏切り攻撃に遭って高国勢は総崩れとなり、尼崎に逃走した(大物崩れ)。しかし元長たちの厳しい捜索により、紺屋の甕の中に隠れているのを発見された道永は、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。享年48。「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。高国の死後、尹賢は堺公方側へ服属しても晴元の命で殺されたが、堺公方派に内紛が勃発。続いて晴元と一向一揆の対立に乗じて、高国派の残党に弟の晴国が擁立され、石山本願寺と結んで晴元に付いた法華一揆と丹波国で戦ったが、天文5年(1536)に敗死した(享禄・天文の乱)。
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