第29話「細川 澄之」27(全192回)
『戦国時代の群像』「細川 澄之」27(全192回)
「細川 澄之」(1489~1507)室町時代後期(戦国時代)の武将。第29代室町幕府管領。第13代細川京兆家当主。第24、26、27、28代室町幕府管領・細川政元の養子となった。延徳元年(1489年)、関白・九条政基の末子として生まれる。母は武者小路隆光の娘。政基より九条家の家督を継いだ九条尚経は20歳ほど年の離れた異母兄である。延徳3年(1491)2月13日、生後2歳にして独身のため実子の無かった管領・細川政元の養子となり、細川京兆家の世子が代々称した聡明丸を幼名として名乗る。文亀2年(1502)9月、養父・政元から正式に嫡子(家督継承者)に指名され、丹波守護職を与えられた。ところが政元と聡明丸(澄之)の両名は折り合いが悪かったようで、翌文亀3年(1503)5月、政元は澄之を廃嫡[1]し、阿波守護家の細川義春の子・六郎(改め細川澄元)を新たに養子に迎えて後継者に指名した。更に翌年の永正元年(1504年)に元服、母方の従兄弟で室町幕府11代将軍の足利義澄[2]より偏諱を賜り、澄之と名乗る[3]。永正3年(1506)には養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦を攻めたが、敵方と内通して落城を装い、兵を退いた(澄之自身、廃嫡されたことに立腹しない筈もなく、「養父・政元の命令に従った」というのは表向きの行動であった)。永正4年(1507)6月、政元の被官・香西元長・薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の錯乱が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の三好之長の機転によって近江に逃亡した。澄之は元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して、将軍・義澄から細川京兆家の後継者と認められた。事件は、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら阿波の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。しかし、先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、一色を包囲中の赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画であったことがわかる。理由はやはり前述の通り、廃嫡されたことに対する恨みが主なものであっただろう。澄之・澄元の後に同じく政元の養子となっていた細川高国は、細川氏の一族をまとめ、高屋城の畠山氏らをも引き込んで、畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。近江に逃れた澄元と三好之長は、遅れ馳せながら近江の国人を味方に引き入れ8月1日には京都に攻め上った。その戦功により澄之方の主将、一宮兵庫助が討たれると、敗戦が明らかになった澄之は自決した。享年19。元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。
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