第17話「北条 氏政」16(全192回)


『戦国時代の群像』「北条 氏政」16(全192回)

「北条 氏政」(1538~1590)戦国時代の関東の大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘瑞渓院。子に氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。

 通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、戦国大名北条氏による関東支配を終結させる最期となった。天文7年(1538)、第3代当主・北条氏康の次男として生まれる。

 兄・新九郎が夭折したために世子となり、北条新九郎氏政と名乗る。天文23年(1554)に父が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。夫婦仲は極めて良好であった。永禄2年(1559)に父が隠居して家督を譲られ、北条家の第4代当主となるが、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続いた。関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していく。

 永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、緒戦こそ里見義弘の前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得た。これによって上総に勢力を拡大した上、上総土気城主酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。同年には武蔵岩槻城主太田資正の長男氏資を調略して資正を武蔵から追い、武蔵の大半の支配権を確立した。

 これに対し謙信は武蔵羽生城などを拠点として対抗する。永禄10年(1567)、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。

 しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総の支配権を失った(三船山の戦い)。その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退、元亀元年(1570)には北条方の駿河支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河は信玄によって併合された。

 元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。この同盟は条件の調整不足等より、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満、氏政から由良正繁宛書状・集古文書)があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も北陸地方の越中の平定の方に力を注くようになっていた。甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まり、天正2年(1574)に謙信が上野に進出すると氏政も出陣し、利根川で対陣した。

 しかし謙信の関心は既に越中に向けられており、決戦には至らなかった。閏11月には父が「一国に等しい城」とまで称した簗田晴助の関宿城を攻め落とし、翌天正3年(1575)には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とした。更に下総の結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大してゆき、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃した。

 天正5年(1577)には上総に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を実現した(房相一和)。なおこの戦いにおいて嫡男・氏直が初陣している。景虎の敗死により氏政は甲相同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃する。天正8年(1580)に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。上野では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。

 このため、同年3月10日には石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている。8月19日に氏直に家督を譲って隠居するが、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握した。天正10年(1582)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出す。駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させた。

 その後、伊勢からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認すると、これに呼応し駿河の武田領に侵攻した。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院殿と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。しかし、信長は北条氏に好意的な対応を見せず、むしろ刺激するようなことをしていた[8]。また、信長との縁談も円滑には進まなかったのではないかという見解もある[9]。だが6月2日、京都本能寺において信長が明智光秀の謀反により死去(本能寺の変)した。

 信長の死を知った氏政は当初一益に引き続き協調関係を継続する旨を通知しているが、氏政と一益の間には表面的には友好関係を維持しながらも互いに不信感が増幅しており、氏政が深谷に軍勢を差し向け、一益もこれに呼応して軍勢を差し向ける。数日後には明白に対立関係となり、両者の間で合戦が勃発する。

 北条氏は、上野の半分を掌中に収めていたが、信長の進撃によってそれを信長の代行者である滝川一益に譲らざるを得ない状況になっており、上野を回復しようという意図は強かったと考えられる。信長の死後、上杉、佐竹という、北条と極めて険悪な関係の勢力と早くから手を結んでいた秀吉は、この時点で「反北条」の姿勢であったと考えられている。これが小田原征伐・北条滅亡の遠因ともなる。未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発した。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。

 そして天正18年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田・依田に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城。

 22万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず、武蔵・相模・伊豆のみを領地とする、(2)氏直に上洛をさせるという条件で、北条氏は降伏した。俗にこの際、一月以上に渡り、北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって繰り広げられた議論が小田原評定の語源になったと言われているが、本来は北条家臣団が定期的(概ねの期間において毎月)に行っていた評定を呼ぶものである。しかし秀吉は、和睦の条件を破り、氏政らに切腹を命じ、氏直らを高野山に追放すると決めた。7月5日、氏直が自分の命と引き換えに全ての将兵の助命を乞い、降伏した。氏直の舅である家康も氏政の助命を乞うが、北条氏の討伐を招いた責任者として秀吉は氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。井伊直政の情報では一時は助命されるという見通しもあったが、7月11日に氏政と氏照が切腹(自害)して果てた。享年53。静岡県富士市の源立寺に首塚がある。墓所は神奈川県小田原市内と同箱根町に存在する。



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